第01話 屋根裏部屋の刺繍姫
「明日のファンシー・フェアの出品物、完成したんでしょうね?」
「それ、私の名前で出すから」
冷たい声が、屋根裏部屋に落ちた。
エミルウは答えない。
答えられない。
――まだ、終わっていないからだ。
完成など、していない。
完成など、あってはならない。
彼女はただ、布に顔を近づける。
エミルウは見る――。
琥珀色の瞳を、布に近づける。
世界はぼんやりとにじんだまま。
焦点を合わせるために、目を細める。
世界はかたちや色を喪ったまま。
もっと近づく。
もっと。もっと。もっと。
布の上に繰り広げられる世界がエミルウの網膜に結像したとき。
彼女の視界は、わずか数センチ四方しかない。
極度の近視のために、鼻先が布に触れるほどに近づかなければならない。
これが、エミルウ。
エミルウは踊る――。
針と糸を手に取り、布の上の世界に立ち向かう。
プツッ。
針が布を刺し、糸が踊り始める。
シュッ……! シャッ……!
暗い屋根裏部屋に、針と糸が世界を撫ぜる音だけが響く。
狂熱に浮かされているかのように、休みもなくステッチを刻み続ける。
鶺鴒のダンス・ステップのように、軽やかに。
高速のワルツ。
奔放なクイックステップ。
その指先。
傷だらけの指。
――ちがう。
傷の中に指がある。
長年の修練で、針傷の上に針傷を重ねて鍛え上げられた指。
糸や地布に障りがないように、なめらかな蜜蝋を塗りこめて、指先の傷をなだめる。
それが、刺繍師のならわしだった。
(『ここ』に置くべき糸がないわ)
エミルウは白い歯と指で、極細の絹を口にくわえ、指で引き、捩る。
一本を、二本に。
二本を、四本に。
四本を、八本に。
『特注の糸』を即興で創り出す。
蜜蝋の甘い香りが、か細い蝋燭の光とともに漂う。
焦点を見失うたびに、針先の行方もおぼつかなくなる。
逃げようとする幻を追うように、エミルウは前のめりになる。
これが、エミルウ=スキャルファ。
エミルウは、歌う――。
ここに輝いているのは水鏡の瑠璃。
練絹の雲。
薔薇の深紅。
紫雲木の紫紺。
乙女の瞳は琥珀色。
亜麻色の髪。
灰色の憂鬱。
希望の色は――どんな色をしているだろう?
エミルウは心の中で歌い、刺繍の上に色彩を置いていく。
指先を襲う疲労と痛みに歯を食いしばりながら。
手入れのされていないストロベリーブロンドの髪を振り乱しながら。
身体は地獄の中にあるが、心は刺繍の世界の中にある。
エミルウは、叫ぶ――。
(まだ足りないわ)
エミルウの心の中で、声がする。
(こんなものではないわ)
針を進める手は止まらない。
(『これ』はもっと美しくなるわ)
心の中で新たなビジョンを描く。
(『これ』はまだ秘密を隠しているわ!)
自分だけの世界を。
ひとつの作品に繍い上げるために。
もっと。もっと。もっと……!!
何も持たない指が虚空を掬う。
感覚を失った指先から、いつのまにか針がこぼれ落ちていた。
限界。そして――。
深く息を吸い込む。
塔に閉じ込められ、刺繍を刺しながら、運命の人を待つ乙女の伝説。
帝国の人間ならだれもが知っている『水鏡を繍う幽囚姫』の世界が、布の上に広がっていた。
(これで完成――それで本当に、いいの?)
自問する。
(まだ、なにか、できることがあるのではないの?)
心の奥底では、すでに全てを注ぎ込んだことを理解している。
(ありったけ。全部、捧げた。悔いはないわ……!)
静かに、決意を持って。タペストリーに『署名』をする。
(誰にも気づかれない、私にだけわかる、秘密の署名……)
極細の絹糸で、自分の魂の欠片を、ひっそりと刺繍の中に縫い込んで。
ほう、と、ひとつ、ため息をつく。
(『私だけの世界』――どこかの誰かの心に届いてほしい……いいえ)
刺繍の中に込めた思いとともに、心が静かに燃え上がる。
(この『私だけの世界』で、見る者すべての心臓を激しくノックしたい……!)
そこへ。
荒々しい足音と共に屋根裏部屋のドアが開いた。
現実が、侵入する。
エミルウは弾かれたように振り返る。
焦点が合わない。
目を細める。
優雅なティードレス。
蜜蝋の匂いをかき消す、きつい香水。
この屋敷の主――ヒュッカテ男爵の一人娘、オリンゼだった。
ボサボサの髪の奥で、エミルウの怯えた瞳が揺れた。
「遅いわね。完成したの?」
「……はい……」
タペストリーを見下ろしたオリンゼは、満足そうに鼻を鳴らした。
「ふうん。なかなかの出来じゃない」
その一言で、胸の奥が締めつけられる。
褒められているのではない。
値踏みされているのだ。
「おどきなさい。最後の仕上げは私がするわ」
――来る。
エミルウの背筋が凍りつく。
毎年繰り返される、儀式。
作品の『作者』が、エミルウからオリンゼへと入れ替わる瞬間。
オリンゼは無造作に太い針を掴むと、エミルウの『完璧な世界』へ乱暴に突き立てた。
ブチッ。
繊細な絹の繊維が断ち切られる、むごい音。
(ああっ……!)
不格好で分厚い結び目が作られ、その周囲の美しい布地がギュッと醜く引きつる。
エミルウの世界が、たったひと針で壊されてゆく。
エミルウは自分の心臓の肉が、オリンゼの糸で乱暴に縫い合わされたかのような錯覚を覚えて、息を詰まらせ俯いた。
魂を打ち込んだ作品を奪われるこの痛み。
何度味わっても、決して慣れることはない。
(……いっそ、このまま……!)
「……なによ、その目は」
「……いいえ……」
相手の顔を見ようとすると目を細めてしまう。
オリンゼは昔から、そのエミルウの哀れな癖を『自分への反抗心』ゆえだと決めつけていた。
「親に捨てられて居候させてもらっている分際で! あなたのつまらない針仕事なんて、家賃の代わりにもならないのよ。本当に感謝が足りないわね」
「ごめんなさい、オリンゼお姉様」
跪いたエミルウを見下ろし、オリンゼは意地の悪い微笑を浮かべた。
「明日のフェアには、あなたもついてきなさい」
「えっ……」
(外――?)
(そんなもの、見えるはずがないのに)
何年も屋敷の外に出ることすら許されなかったのに、なぜ。
戸惑うエミルウに、オリンゼは冷酷に告げる。
「今年のフェアは『町娘』の衣装でお店を出す決まりなの。私が用意した完璧なドレスの横には、本物の薄汚い下働きが立っていた方が、より私の美しさが際立つでしょう? だから、私の『小道具』として連れて行ってあげると言っているのよ」
エミルウは、外に出られる、ということに、喜びよりも恐怖を感じた。
「……でも私、外に出られるような服を持っていません……」
「そんなもの! メイドが使い古したエプロンでも借りていきなさい。どうせ誰も、あなたのことなんて見やしないんだから。……ああ、この部屋、じめじめして嫌な臭いがするわ。息が詰まりそう……!」
ドアを乱暴に閉めてオリンゼは出て行った。
残されたエミルウは、醜い結び目をつけられたタペストリーの前で、唇を噛みしめた。
(明日……明日、屋根裏暮らしの私が外へ……ファンシー・フェアへ……?)
想像しただけで、背骨が震えた。
(怖い……外の世界が怖い……)
その時。
オリンゼが去ったドアの隙間に、人影があることに気づく。
「エミルウお嬢様……どうか……お助けください……」
まだ子どものようなメイドが、顔を真っ赤に腫らし、ボロボロと涙をこぼしながら立っていた。




