第33話 それは3分前の値段だ!
リュウノス邸の台所。
異国の香りが漂う静謐な空間に、パイネがけたたましい足音で駆け込んできた。
「大変です!! 街の商店で、リュウノス商会のお茶が……いつもの5倍以上の高値で売られているんです!!」
パイネは息を切らしながら、戸棚にあった紅い茶葉の缶をテーブルにカチャン! と置いた。
「この『紅い孔雀』のお茶と同じものが! 街じゃ金貨1枚で飛ぶように売れてるんですよ! どうしてかは分からないけど、これってうちの商会、ボロ儲けのウハウハじゃないですか!?」
「パイネ。それは『孔雀』じゃなくて『朱雀』よ……。うちの銘柄くらい覚えなさい」
「えへへ」
のんきに笑うパイネとは対照的に、先輩メイドたちは気の滅入った表情で首を横に振った。
「……違うわ、パイネ。それは大儲けのチャンスなんかじゃない。商会の危機なのよ」
「えっ? どうしてですか!?」
先輩メイドの一人が紅い缶の蓋を開ける。
摘まみ上げた茶葉は、白銀色の艶ややかな美しさだった。
「うちの商会が扱う茶葉は、帝国中の貴族が喉から手が出るほど欲しがる、最高級の特級品よ」
「皇室もリュウノスのお茶しか使わないわ」
「おお……うちのお茶ってすごいんですね」
先輩メイドが目を細めてやれやれと肩をすくめる。
「パイネ……あなたも休憩時間に、みんなと一緒にリュウノスのお茶を毎日飲んでいるのよ……。なんてありがたみのない子なのかしら」
パイネが恥ずかしそうに頭をかく。
「えへへ……すみません。ヒュッカテの家では、メイドにはお下がりの出涸らし紅茶しか出なくって……実家は貧乏だったので、温かい紅茶なんか飲んだことがなくってぇ……」
先輩メイドが黒い瞳を潤ませてパイネの肩をヒシっと抱く。
「不憫な子! 今日のお茶はとっておきのを淹れてあげるからね」
もう一人の先輩メイドがうんうんと頷く。
「パイネ。あなたはヒュッカテたちが飲んだこともないお宝を、毎日ジャブジャブと飲んでいるのよ……あなたの身体はもう、事実上、貴族以上に尊い存在なのよ……!」
「先輩……!」
抱きしめあう3人。
「……なんの話をしてましたっけ?」
「……リュウノス商会がピンチ、というお話よ!」
気を取り直した先輩メイドが声をひそめて話を続ける。
「ねえパイネ。もし『明日になれば、このお茶は手に入らない』って噂が出たら、あなたならどうする?」
「え……そりゃ……急いで買いますけど……」
「そうよね」
「リュウノスの貨物船が、税関で入港を拒否されているの。街は『いま市場にあるのが、リュウノスの最後の茶葉だ』という噂であふれかえっているわ。噂が高値を呼んでいるのよ――でも」
それは商機のサインではなく、警報なのだ。
パイネの笑顔が引き攣った。
「在庫が売り切れた後、リュウノス商会には売る物がないわ。つまり……」
貴族たちの食卓にリュウノスの茶葉がのぼることは、二度とない。
今日、高く売られているのは、未来が破壊されているからだった。
テーブルに置かれた紅い茶缶が、まるで時限爆弾のように不気味に見えた。
◇
証券取引所のフロアは、『金』で殴り合う巨大な格闘技場だった。
数百人の値付業者と仲買人たちが、広大なフロアでいくつもの渦を作り、怒号を飛び交わせている。
売買のサインを示す無数の指が、剣のように虚空を突き刺す。
破り捨てられた注文書が、白い雪のようにフロアを舞う。
長年の競りで喉仏に鉋をかけられたような嗄れ声が、雨のように降る。
その狂乱のフロアを見下ろす、防音ガラス張りの2階VIP席。
リザイアとボズは、静寂の中で事の成り行きを見守っていた。
長い編み髪。
花冠。
不穏な微笑。
白いブラウスには死霊のような幾何学刺繍。
リザイアは、『資本の神殿』に紛れ込んだ美しい祈祷師のようだった。
「リザイア様。朝からもう3時間もここに張り付いてますけど……一体何が起こるって言うんですか?」
「私の悪い予感が当たるところを、この目で確認しておきたいのさ」
リザイアは腕を組み、声をひそめた。
「……当たってほしくはないがね」
ボズは息を呑んだ。
リュウノス商会の『頭脳』と目されるリザイアの、これほどまでに張り詰めた表情を初めて見た。
その時。
眼下に広がるフロアの『渦』の一つが、突如として異様に乱れた。
悲鳴のような声が上がり、手に紙切れを握った男たちがパニックを起こして走り出す。
「……始まったぞ」
リザイアが目を見開き、ガラス窓に両手を預けた。
『リュウノス、65!』
ジョバーが巨体を揺らしながら絶叫している。
『リュウノス、60!』
仲買人たちがジョバーに詰め寄り、次々に叫ぶ。
『70なら売るぞ!』
『70? 話にならない! 58で売るやつはいるか!?』
『いくらでもいいから売りたい! 買ってくれ!』
唾が。
汗が。
ダミ声が飛び散る。
『55? それは3分前の値段だ! リュウノス、50!』
叫ぶたびに、数字が恐ろしい勢いで転がり落ちていく。
「なんだ!? 一体、階下で何が起こってるんですか!?」
「リュウノス商会の株価が、暴落を始めたんだ」
ボズは咄嗟に理解できなかった。
「開場した時、うちの株の買値は95だった。それが今、50を割っている。……リュウノス商会の市場価値は、この1時間で『半分』になったんだよ」
リザイアが忌々しげに吐き捨てる。
「ガスマン公爵だ。奴がリュウノス株を大量に『売り』に出した」
「ガスマンが……!?」
「税関から入港拒否されていると噂が立っているところへ、大物が動いたんだ。投資家たちがパニックを起こし、雪崩を打って売りが売りを呼んでいる」
「そんな……そんなことで……?」
ボズは歯噛みしたが、すぐに首を傾げた。
「でもリザイア様。ガスマンの野郎、市場を暴落させるほど大量のリュウノス株を、どうやって持っていたんですか?」
悲痛な表情を浮かべていたリザイアが、ボズの質問に、明るい笑顔を見せる。
「ほう。いい所に目をつけたな、ボズ。……奴は最初から、うちの株など『1枚も』持っていないのさ」
「……は?」
「大量の株を借りてきて、高値の時に売り飛ばすのさ」
「他人から借りた株を……売るんですか?」
「そう。そして、誰も見向きもしないクズ値に落ちてから、今度は株を買い戻す」
リザイアは、手のひらの上でチャリン、チャリン、と銀貨を遊ばせながら説明する。
「買い戻した株を持ち主に返す。手品の種はこれだけだ。簡単だろう?」
「……ただ借りて返しただけで、どえらい差益が……!?」
「手順が普通と逆なのさ。高く売って、安く買い戻す。『空売り』という。値下がりする方に賭けるんじゃない。値下がりさせるために売るんだ」
ボズは頭がクラクラした。
「リザイア様……わからねえ……どうしてもわからねえ……虎の子の株をクズ紙にされるかもしれないのに、それでも株主はガスマンに貸すんですか」
「株主一人ひとりは、まさかそんな大掛かりな企みがあるとは夢にも思うまい。ガスマン公爵家の権力と信用があれば、否やはない。大手銀行や有力貴族に圧力をかけて、リュウノス商会の株を借り上げたのだろうさ」
(つまり、私たちの敵はガスマンだけではない。帝国の金融システムそのものだ)
「……汚ねぇっ!!」
ボズはバンッ! と窓ガラスを叩いた。
「そんなやり口が許されるなら、ガスマンの野郎は百戦百勝じゃねえか!!」
だが。
リザイアの手が、空中にあった銀貨をバチッ! と掴んで、ギュッと握りしめた。
「百戦百勝、か」
リザイアの翡翠色の瞳が、ボズの黒い瞳を覗き込んで、妖しく笑う。
「本当かな? 本当に、そう思うか?」
ガスマンたちは、『市場は、買える』と思っている。
ならば。
リザイアの頭脳は、すでに『逆転』のための地図を描き始めていた。
次回投稿は2026年5月31日(日)です。




