表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
33/56

第32話 金輪際なしにしていただきたい!

「……伝染病だと?」


 帝都税関の薄暗い事務所。

 シシトラは、カウンター越しの書記官にギリッと詰め寄った。


「どういうことですか。説明していただきたい」


 小心そうな目つきと不平不満の溜まった口元をした書記官が、事務的な声で答える。


「リュウノス商会さんの貨物船の船員1名が、航海中に高熱を出して数日寝込んでいた記録があるということで。『伝染病の疑いが極めて濃厚』という、検疫当局の判断です」


 だが不思議なことに、誰も、その病名を問題にしていない。


「……馬鹿な! 東方大陸から帝都まで、最新の蒸気船でも90日はかかる。その間に体調を崩す船員の1人や2人、どの船にだっているものだ! なぜ、うちの船にだけそんないいがかりをつける……!」


 シシトラは怒声を必死に噛み殺し、書記官にだけ聞こえる低い声で難詰した。

 背後には、通関の順番待ちをする船主や仲買人たちが長蛇の列を作っている。

 皆、他人のトラブルに聞き耳を立てていた。

 リュウノス商会の苦境(よわみ)を帝国人たちに知られて、良いことなど何1つない。


「書記官殿。あなたと我々リュウノス商会は、長い付き合いのはずだ。口幅ったいが、あなたにはこれまでなにくれと『便宜』を図ってきたつもりです。……今こそ、我々に報いてはもらえませんか」


 シシトラは、周囲の目を盗み、紙で包んだ金貨をそっと書記官の手の上に滑らせた。


「……リュウノスさん。こういう真似は、金輪際なしにしていただきたい!」


 書記官が、わざと大きな声を出して金貨を払い除けた。


 チャリーンッ!!

 

 乾いた音を立てて、黄金が事務所の石造りの床に散らばり、転がっていく。

 背後に並んでいた帝国人たちの間から、下卑た嘲笑とヒソヒソ声が波のように広がった。


(見ろよ、あの生意気な東方人が袖の下を突き返されてるぜ)

(いい気味だ、拾ってやれよ)


 あからさまな悪意の視線がシシトラの背中に突き刺さる。

 これほどの屈辱を受けたのは、帝都で商売を始めてから初めてのことだった。

 常に冷静沈着なシシトラの額を、冷たい汗が伝う。


「……書記官殿」


 シシトラは床の金貨を無視し、血の滲むような声で懇願した。


「このままでは、積み荷の『一番茶(ファーストフラッシュ)』が船倉の中で湿気て腐ってしまう。一刻の猶予もないんだ。あなたが手続きを通せないというのなら……せめて、この理不尽な陰謀の『主』の名前だけでも教えてほしい」


「陰謀、ですと。何を馬鹿な。我々はあくまで、公正なルールと前例に則って……」


「頼む……っ!」


「……いい加減にしてくれッ」


 書記官は、ひどく怯えたような、震える声で吐き捨てた。

 そして、苛立ったふりをして、手元の書類に羽ペンの先をガンッ! ガンッ! と乱暴に突き立てた。


(……!)


 シシトラは瞬時に気がついた。

 書記官が不自然にインクの染みを作った箇所。

 その文字列を順番に目で追っていくと、1つの名前が浮かび上がった。


 ――『G』『A』『S』『M』『A』『N』


 シシトラは息を呑んだ。


 あり得る事だった。

 むしろ初めから、『その怪物の仕業では』と疑っていた。

 帝国の『税関』という国家権力そのものを、私情で、いとも容易く捻じ曲げてみせた公爵の異常な力。

 シシトラは、背骨が凍りつくような悪寒を感じた。


(……これ以上は勘弁してくれ。私が殺される)


 書記官の懇願するような恐怖の瞳を見て、シシトラは『分かった』と微かに頷いた。


「……ありがとう。迷惑をかけたな」


 シシトラが踵を返し、廊下へ出る。


「いやぁ、お先に失礼!」


 顔見知りの帝国人貿易商が、これ見よがしに喜色満面でシシトラを追い抜いていく。

 通関の許可が下り、大きな利益を確定したのだろう。


 廊下の大きな窓から見える、帝都を縦断する巨大河川。

 灰色の空の下、数えきれないほどの帆船と蒸気船が、互いに接触しそうなほどの密度でひしめき合い、活気に満ちた荷下ろしを行っていた。


 船員たちの威勢のいい怒鳴り声。

 蒸気船のけたたましい警笛。

 そして、他人の船から降ろされる新しい茶葉の芳醇な香りが、容赦なくシシトラの鼻腔を殴りつける。


(今、この瞬間にも……俺たちの市場が喰われている)


 シシトラは目を細め、立錐の余地なく川面を覆い尽くした船の群れの――さらに遥か向こうの河口を見つめた。

 そこに、ぽつんと1隻だけ離れて、港に入ることを許されずに海上に浮かぶ貨物船があった。


 黒い船体。

 白い帆布に描かれた、巨大な龍の紋章。

 リュウノス商会の貨物船だった。


 メインマストには、黄色い『検疫旗』(イエロー・ジャック)が、死神の宣告のように寒々しくはためいている。

 あの旗を括りつけられた船は、その場に錨を下ろし、許可が出るまで身動きひとつ取れないよう完全にロックされる。

 船は港へ入ることを許されず、潮風に晒されたまま、船倉の茶葉が腐っていくのを待つしかない。


 周囲を税関の小舟が巡回する様は、まるで重罪人を隔離する看守のようだった。


(……みんなから仲間外れにされて、締め出された船。まるで……俺たちそのものじゃないか)


 船は止められているのではない。

 見せしめとして『吊るされている』。


 ギリッ、と拳から血が滲むほど強く握りしめ、シシトラは歯噛みした。


(どうすればいい。どうすれば、この帝国の分厚い壁を突破して、あの船を救うことができる……?)


 本気になったガスマン公爵の、国さえも動かす理不尽で巨大な力。

 それを突きつけられたシシトラの心の中に、暗く、重たい疑念がよぎった。


(金貨500枚で、エミルウの人生を買い戻したつもりになっていた……。なんという思い上がりだ)


 あのファンシー・フェアで、1人の少女の尊厳を救うために、『帝国のルール』に喧嘩を売った。

 その代償として、今、守るべき大切な『同胞(かぞく)』たちの首が、巨大なギロチンの刃の下に晒されている。


 あの時エミルウを選んだ瞬間、すでにこの『戦争』は始まっていたのだ。


 ◇


 リザイアとボズは、証券取引所の2階VIP席から、フロアの成り行きを見守っていた。


「リザイア様……ここで、一体何が起こるって言うんですか?」


「私の悪い予感が当たるところを、この目で確認しておきたいのさ」


 その瞬間、フロアの怒号が、悲鳴に変わった。

 ボズは息を呑んだ。


「始まった――リュウノス商会への攻撃、第2波だ」

次回投稿は2026年5月30日(土)です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ただでさえ絶体絶命のピンチなのに、更に何かあるのかな…?? めちゃくちゃハラハラします…(ToT)
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ