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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
32/56

第31話 このネタでしばらく遊べるな

 リュウノス邸の昼下がり。

 刺繍修行の合間に、エミルウが自室で休息を取っている。

 深縹色(ミッドナイトブルー)をした斜め襟の上衣(チャンパオ)、習作の刺繍で埋め尽くされた腕貫(アームカバー)

 刺繍師の『戦闘服』がすっかり板についていた。


「そう。茶葉は多すぎないように。低めの温度のお湯を使って……たっぷりと時間をかけて、お茶の葉を開かせるのです」


「はいっ」


 急須ではなく茶碗に直接茶葉を置いて、そこに慎重にお湯を注ぐパイネ。


「おっとっと……よっ……と……!」


「そんな掛け声をかけるものではありません」


 東方人の先輩メイドが、やれやれという顔で首を振る。


 淹れられたのは、帝国で好まれる赤黒い紅茶ではなく、東方の本式である『緑茶』。

 それも、一番摘みの新芽だけを集めた最高峰の茶葉だった。


 エミルウが澄んだ翡翠色のお茶を一口含む。

 まるで雨上がりの深い森のような香りが鼻腔を抜ける。

 飲み下した途端に、百合や果実のような華やかな甘みが喉の奥から込み上げてきた。


「……なんて素晴らしいお茶なの。紅茶とは全然違うけれど、とっても深く、優しい味わい……」


 茶器を持つ手が、感動で微かに震える。


「それに、この器……」


 エミルウの琥珀色の瞳が、驚きに見開かれた。

 彼女の手にある純白の磁器には、米粒のような形の『透明な透かし彫り』が無数に施されている。

 それなのに、中のお茶が漏れることは決してない。

 窓からの光を透かしたその小さな無数の穴が、器の中で揺れる翡翠色の水面を、まるで宝石のように鮮やかに浮かび上がらせていた。


「……なんて不思議で、美しい器なのかしら」


「このお茶も、その『玲瓏(れいろう)』と呼ばれる透かし彫りの器も、東方大陸の王族だけが使うことを許された禁制品です。帝国では、ここリュウノス邸にしか存在しません」


 先輩メイドが誇らしげに胸を張る。


「そんな畏れ多いものを、私などに……!?」


「シシトラ様のご意向なのですよ」


 パイネがニコニコと笑って口を挟んだ。


「『エミルウには、常に最高のものに触れ、最高の体験を積んで、最高の刺繍師になるための糧にしてほしい』って、常日頃からおっしゃっているんです!」


(シシトラ様が……私のために、そこまで)


 普段なら歓喜するはずのその言葉。

 しかし、エミルウの笑顔が、スッと薄いベールを被ったように(かげ)った。


(……おや?)


 パイネと先輩メイドは顔を見合わせた。


「……そういえば、最近シシトラ様もリザイア様も、全然お屋敷でお見かけしませんね」


 何気ないパイネの言葉に、エミルウの華奢な肩がびくりと硬直する。


「もうすぐ、東方からの『新茶』が帝国に届くシーズンが始まるの。その準備と各方面との交渉で、毎年この時期は、お二人とも寝る間もないほどお忙しいのよ」


 先輩メイドが事情を説明すると、パイネがニヤニヤとエミルウの顔を覗き込んだ。


「そっかぁ。……シシトラ様のお顔が見られなくて、寂しいですね、エミルウお嬢様!」


「……ええ、そうね」


 エミルウは、ひどく弱々しく、消え入りそうな声で笑った。

 そして、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと首を横に振る。


「いいえ、パイネ。冗談でも、そんなことを言っては駄目よ。……私の、私みたいな『帝国のよそ者』のために、シシトラ様のお時間が奪われるようなことがあってはいけないのだから……」


 カチャリ、と。

 エミルウは、光を透かす美しい器をテーブルに置く。

 自分だけが深い暗闇の中に取り残されたような、寂しげな溜息をついた。


 先輩メイドが、痛ましげに目を細めてパイネに目配せをする。


(エミルウ様の様子が、明らかにおかしいわ)


 パイネも、心配そうに頷き返した。


(まったくです。お二人の間に……絶対に、何かがありました!)


 ◇


 同時刻。

 帝都の主要同業組合の本拠地『ギルドホール』の中にある、重厚な会員制カフェ。

 薔薇油と水煙草の匂い。

 商人、退役軍人、芸術家、一癖も二癖もある客たち。

 そこに、午後の商談の合間に休息を取るシシトラとリザイアの姿があった。


 低いオットマンに腰掛け、象嵌細工のテーブルの上に資料を広げる。

 シシトラは、相変わらず、帝国の正礼装である黒のフロックコート。

 しかし、その黒い髪、黒い瞳が、彼が『帝国の外から富を運んでくる者』なのだと教えてくれる。


 リザイアは、場所ごとにまったく違うシルエットで現れる。

 金糸の外衣。

 鈴付きの帯。

 孔雀色の肩掛け。

 香油で濡らした巻布。

 今日は、砂漠の祝祭を思わせる衣装を纏っていた。


「……最近は、紅茶商人とばかり会って、甘ったるい紅茶ばかり飲まされている。たまにはコーヒーにしよう」


「そうですね。とびっきりの苦味で胃袋ごと目を覚まして、この後の大商社との商談に備えましょうか」


 シシトラはウェイターを呼ぶ。

 帝国人だが、ターバンに異国刺繍のベストの若者が現れた。


「コーヒーを2つ。一番濃く、深く、とびきり苦い奴を」


 と、そっけない声で注文した。


「お疲れのようですね、シシトラ。ところで」


 リザイアが、テーブルの上で優雅に指を組み、シシトラの顔を真っ直ぐに覗き込んだ。


「最近、エミルウお嬢様と……何か妙な『距離』がありませんか?」


「……何のことだ」


 シシトラは顔をそらして、窓の外に目を向ける。


「ここのところ、彼女と、ほとんど口を利いていないのではありませんか? お嬢様がひどく元気をなくしているのは、そのせいかと」


「……もともと、そんなに親しくはしていない。彼女はただの『客分』で、俺はただの『パトロン』だ。職人とスポンサーの間に、無駄な馴れ合いは必要ないだろう」


「ふぅん。……そうですか」


 シシトラの分かりやすすぎる『逃避』。


「あなたがそんな腑抜けたコンディションでは、本業に支障が出かねないので心配しているんですよ」


 リザイアは、野次馬根性丸出しで、ニヤニヤと微笑んだ。


「なにしろこれから、帝国最大の紅茶市場のクライマックス・シーズンだ。東方からの『一番茶(ファーストフラッシュ)』を載せた我が商会の船団が入港する前に、片付けなければならない根回しが山積みなんですから」


 ウェイターが、注文通りのワイルドコーヒーを運んでくる。

 持ち上げた小さなカップから、土を感じさせるアーシーで強烈な香りが漂った。


「シシトラ。気がついていますか。最近、ウメガイ様は、あなたに『縁談』を持ってこなくなったでしょう」


(言われてみれば)


「エミルウお嬢様が屋敷に来てから数か月。それ以来、あなたへの縁談は、ウメガイ様が全部握り潰していたのですよ」


「……そんなことは」


「余計なことだ。そう言いたいのですか?」


 リザイアは、目を細めて言う。


「保留になっている縁談の数かずを、解禁してしまいましょうか。あなたがさっさと身を固めてしまえば、お(いえ)は安泰。商売は繁盛。エミルウ=スキャルファも、進路に迷うことはなくなるでしょう」


 ガチャンッ!


 シシトラの手からデミタスカップが滑り落ち、ソーサーの上で派手な音を立てた。

 冷徹無比な商会代表として鳴らしてきた男が、いま、顔を青ざめさせ、心の底から怯えた表情を浮かべている。


 リザイアは、喉の奥でくつくつと笑う。


(このネタでしばらく遊べるな)


 客同士の会話も控えめな音量で交わされる、落ち着いた雰囲気の会員制カフェ。

 その静寂を切り裂く、切羽詰まった荒々しい靴音が響き渡った。


「シシトラ様!! リザイア様!! 大変です!!」


「……どうした、ボズ。こんな場所で大声を出すな」


 シシトラの瞳が一瞬で『商会代表(トップ)』の鋭い光を取り戻す。


 息を切らして駆け込んできたボズ。

 周囲の客の迷惑そうな視線にも構わない。

 シシトラとリザイアのテーブルに手をつき、耳打ちをした。


「リュウノス商会の、今年最初の『一番茶』を満載した貨物船が……! 帝都の税関で、突然『入港を拒否』されました……!!」


「……何だと?」


「他の商船団は、悠々と入港しているのに……! 何の説明も通達もなく、うちの船だけが、港の外に締め出されています!!」


 ガタンッ!


 シシトラとリザイアの顔から、余裕が消し飛んだ。


 『一番茶』の入港拒否。

 それは、生鮮品である茶葉の価値が暴落することを意味する。

 リュウノス商会にとっては『致命傷』となる出来事だった。


(……始まったか?!)


 シシトラの脳裏に、ガスマン公爵の爬虫類のような瞳がフラッシュバックした。

 帝国の怪物が、ついにその巨大な(あぎと)を開き、『東方の狼』を喰い殺しにきたのだろうか。

次回投稿は2026年5月29日(金)です。

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― 新着の感想 ―
リザイアさん意外とおちゃめさん♪ww おおいにシシトラくんをからかってやってください\(^o^)/
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