第30話 その先は? その次は?
深夜のリュウノス邸・執務室。
エプロン姿で両手に夜食の鍋を持ったままのボズ。
自分の喉元に突きつけられた『シシトラの殺気』に、冷や汗を滝のように流していた。
「ボズ……今、何と言った……?」
地を這うようなシシトラの声。
黒曜石の瞳に血の色が走る。
(しまった……! 完全に口が滑っちまった……!!)
動揺で鍋を落としそうになった。
ごまかし笑いを浮かべる。
ボズは、ソファに腰掛けるリザイアに助けを求めるように目を向けた。
ワイシャツの上にシルクのガウンを羽織るという砕けた装いのリザイア。
氷のように冷たい目でボズを睨み返す。
(あれほど彼には隠しておけと釘を刺したのに。ボズ……このバカ犬が)
視線に込めた無言の罵倒が、ボズの心臓にグサリと突き刺さる。
助けは、ない。
「もう一度言え。ヒュッカテ男爵が、エミルウに、何をした……?」
ガチガチッ! とシシトラの奥歯が鳴る。
ボズは観念して白状した。
「……1週間前のことです。『よそ者』の男4人組が、エミルウお嬢さんとパイネさんを拉致しようと、移民街に潜り込んでいました」
「……ッ!」
「ですが、ご安心を! 部下たちの機転で、奴らが手出しする前に捕らえて、ヒュッカテのところへ送り返しておきました。お嬢さんは、指1本、風にすら吹かれていません!」
「……どうして、俺に黙っていた」
「ヒッ……」
裏社会の強面として鳴らすボズが、思わず後ずさるほどの剣幕。
リザイアが、やれやれと溜息をつきながら立ち上がった。
「やめなさい、シシトラ。この件を黙っているように命じたのは、私とウメガイ様の判断です」
シシトラはボズから手を離す。
リザイアと、そして奥の執務机に座る父・ウメガイを睨みつけた。
「父上。リザイア。どうしてだ……! なぜ奴らをむざむざと送り返した! 今からでも遅くない、その4人組とヒュッカテを……肉片一つ残さず、帝都の運河に沈めてやる……!!」
血が出るような怒声に、ボズは
(やっぱりこうなったか……!)
と震え上がった。
もしあの直後に報告していたら、この男は間違いなく、単身で男爵邸を血の海に沈めていたはずだ。
リザイアが突き放すような声で答える。
「だから黙っていたのです。シシトラ」
ウメガイが、静かに言い含めた。
「お前がいっときの激情に任せて男爵を『処分』すれば、その事実は必ず帝都に広まる。結果として、リュウノス商会は貴族社会全体を敵に回し、帝国での足場を失うのだ」
「……そんなことは、どうでもいい。エミルウを害そうとしたんだぞ! ならばせめて、その実行犯どもだけでも、裏の路地で始末できたはずだ!」
食い下がるシシトラに、リザイアが頭を振りながら、
「それがお望みなら、私が今から手配しますよ。……ただし」
翡翠色の瞳が、シシトラの瞳の中の黒い炎を見据える。
「エミルウお嬢様の手を握る時、あなたは『彼女のために他人の血でまみれた手』で、あの誇り高い黄金の指に触れることになる。…………あの心優しいお嬢様がそれを知ったら、どう思うでしょうね?」
「……ッ!!」
「私たちは、目的のためならどんな冷酷なことでもできる。ですが……それは、あの光のようなお嬢様に見られても『恥ずかしくない手段』でなければならないのではありませんか?」
シシトラは言葉を失った。
立っている力すら奪われたように、ドスンとソファに腰を落とした。
「エミルウのせいで、お前たちの爪と牙が鈍るようでは困るのだがな」
と、ウメガイが微苦笑を浮かべる。
重苦しい沈黙を破るように、ボズが迷いを振り切って口を開いた。
「……なぁ、シシトラ様。あんた、あのお嬢さんを……結局『どうしたい』んですか?」
「……どう、って……」
「このまま『客分』として守り続けるんですか。それとも、立派な刺繍職人として独立する日まで『パトロン』として面倒を見る……ただ、それだけですか?」
ウメガイとリザイアも、静かにシシトラの答えを待っていた。
「その先は? その次は?」
「……その先もないし、その次もないさ」
シシトラは、自分の黒髪をくしゃくしゃに掻き毟り、絞り出すように言った。
「エミルウには未来がある。刺繍師として、帝国貴族の令嬢として、輝かしい未来が。いままで恵まれなかった分、彼女は幸せにならないといけないんだ。……俺みたいな、移民の、帝国のはみ出し者が、いつまでもそばにいていいはずがない」
執務室が沈黙に包まれた。
(エミルウとは取引できない)
(エミルウとは契約できない)
(俺が知っているやり方では、エミルウと一緒にはいられない)
自分で問いかけておきながら、ボズは、シシトラの答えにいたたまれなくなってしまった。
ごまかすように笑顔を作って大きな声を出す。
「そうだ、夜食を持ってきたんだった。シシトラ様のせいで、すっかり忘れてましたよ。さあ。新しいレシピに挑戦した自信作です。試してみてください。これには東南海の椰子の実酒が合うと思いますね」
テーブルの上に鍋を置き、陽気な手つきで皿に取り分ける。
湯気を立てて、発酵調味料と香辛料の強烈な香りが深夜の執務室に満ちる。
「いただこう」
ウメガイ、リザイアが料理を口に運び、グラスを傾ける。
シシトラもみなに合わせて酒を飲む。
「いけるじゃないか、ボズ」
やがて、執務室の4人は、東方語で、陽気な口調で談笑する。
商売のこと。
街のこと。
仲間のこと。……
『義侠心は結構だが、限度というものがあるのだぞシシトラ……しかしまあ、乗り掛かった船だ。一度かかわったのなら、全力で助ける。それが我ら一族の誇りだったよな……』
『それはそれとしてもお金がかかりすぎです! シシトラ! 男爵や公爵から、後日しっかりと『回収』しないと、帳尻が合いませんよ!』
『わかってるよ……みんなごめんよ……あんまりいじめないでくれよ……』
『リザイア様、俺、いつまでも荒事ばっかり担当してるのもつまんないんですよ……将来つぶしがきくように、商売も覚えたいって、最近思うんですよ』
リュウノス商会の『司令本部』の夜が更けていく。
◇
夜、喉の渇きを覚えて部屋を出たエミルウは、薄暗い廊下でピタリと足を止めた。
少し開いた執務室のドアの隙間から、シシトラたちの会話が漏れ聞こえてきたのだ。
「……エミルウには未来がある。帝国の令嬢として、そして偉大な刺繍師として、光の当たる場所で生きていく未来が」
シシトラの、苦しげな声。
「いままで恵まれなかった分、彼女は幸せにならないといけないんだ。……俺みたいな、移民の、帝国のはみ出し者が、いつまでもそばにいていいはずがない」
(……えっ……)
エミルウは、生まれてから一番傷ついた。
琥珀色の瞳が激しく揺れ、痛いほど熱いものがこみ上げてくる。
(違う……シシトラ様、違うの……。私の居場所は、あの冷たい帝国の世界にはどこにもなかった……。あなたが許してくれるなら……私、いつまでも、あなたのそばに……)
だが、エミルウの心の声が届く前に。
執務室の中の空気は、ボズが持ち込んだ『夜食の鍋』の強烈な香辛料の匂いと共に、一気に『陽気なもの』へと変化した。
扉の向こうの4人は、エミルウには全く理解できない『東方語』で、楽しげに語り合い始めた。
血縁。
歴史。
言語。
エミルウの知らない世界。
シシトラが何かを言った瞬間、ウメガイが吹き出すように笑い、リザイアが肩をすくめた。
そこには、エミルウの前で見せる『誇り高い狼』や『優しい保護者』の顔はない。
あけっぴろげな『少年』の顔をしていた。
(……あんな風に、笑うのね)
シシトラの『本当の笑顔』がそこにある。
エミルウはそこにいない。
エミルウの胸の奥が、鋭い刃物で抉られたように痛んだ。
今、彼らの間で交わされた『冗談』の意味。
私には一生わからない。
自分がどれだけ彼に救われ、どれだけ彼に焦がれても。
あの扉の向こうの『彼らの本当の世界』には、自分は決して踏み入ることができない。
私はしょせん、彼らが哀れんで拾い上げ、いつかは手放すつもりの――『帝国のよそ者』なのだ。
廊下の冷たい空気に包まれながら、エミルウは音を立てないように、自室へと引き返した。
なにかから、逃げるように。
次回投稿は2026年5月28日(木)です。




