第29話 お茶。冷めてしまいますわ
(この方が――シシトラ様、と、……!?)
動揺するエミルウの視線を、ムナは優越感に満ちた笑みで受け止めた。
「エミルウさん。移民街では、ご不自由も多いでしょう。言葉も、習慣も」
「そんなことは――」
「それでも、あなたはあの屋敷におられる」
ムナが、優雅な仕草で茶碗の蓋をわずかにずらす。
湯気越しに見る彼女の目は、蛇のように冷酷だった。
「……理由は、一つでしょう?」
(私の、シシトラ様への気持ちが……見透かされている……!?)
エミルウの頬が一瞬で赤く染まり、固く結んだ唇が震えた。
それを見て、ムナと乳母が『やっぱりね』と嘲るように目配せし合う。
「はっきり申し上げます、エミルウさん」
乳母が冷酷に告げた。
「あなたがリュウノス邸に転がり込んでから、シシトラ様のご商売にも支障が出ております。それはすなわち、我ら同胞みんなの暮らしを脅かすということです」
「シシトラ様は、とてもお優しくていらっしゃるから……。たとえ『よそ者』でも、お見捨てになれないのでしょうけれど」
――よそ者。
その言葉が、鋭い棘となってエミルウの胸の一番柔らかい部分を深々と抉った。
目の前が暗くなる。
「シシトラ様には、この街で築き上げてきた『同胞との絆』がございます。……帝国のよそ者であるあなたが、気安く触ってよいものではありませんのよ」
息が詰まりそうな沈黙。
外の屋台通りの喧騒だけが遠く聞こえる。
ここだけが世界から切り離されたように冷たかった。
「……皆様に、ご迷惑を……おかけして、申し訳ございません……」
エミルウの声は、擦れて消えそうだった。
ムナの表情に、勝利を確信した色が浮かんだ。
「ならば、身の処し方は、お分かりですわね」
エミルウはうつむき、肩を震わせたまま動かない。
「お茶。冷めてしまいますわ」
明るい声でそう言わせたのは、ムナの余裕だった。
(私は、よそ者。……彼らの世界には入れない、よそ者……)
エミルウの目から、ポロリと涙が零れ落ちそうになった、その時。
「……それでも」
「はい? 何とおっしゃって?」
「……それでも私は……っ、あのお屋敷に、居たいのです……!!」
エミルウが、涙を堪えてキッと顔を上げた。
「シシトラ様から『出て行け』と言われたなら、私はどこへでも出て行きます……! でも、あの方以外に……私の行き先を決められる人は、誰もいません……!!」
エミルウの予想外の反抗。
ムナと乳母は一瞬呆気にとられ、目を丸くした。
パイネがエミルウの震える手を、テーブルの下でギュッと力強く握りしめた。
「……私の東方訛りの帝国語では、貴族令嬢のエミルウさんにはご理解いただけなかったようですね」
乳母が忌々しげに目配せする。
入り口を塞いでいた取り巻きの女たちが、一斉に『東方語』で捲し立て始めた。
何を言っているのかは分からない。
だが、その表情と嘲笑うような口調。
ムナの尻馬に乗ってエミルウを激しく侮蔑していることだけは、強烈な悪意となって伝わってきた。
言葉の壁という暴力。
エミルウは吐き気を覚えた。
「みんな、そんな風に言っては駄目よ」
ムナが、取り巻きたちに声をかける。
「エミルウさんをご覧なさい。必死に東方人の仮装までして、私たちに歩み寄ろうとしてくださっているのよ……。とってもよくお似合いですわ。特に、その、おかしな眼鏡……」
窘めているのではない。
唆しているのだ。
ガタッ!!
パイネが勢いよく立ち上がった。
燃えるような瞳でムナを睨みつける。
帝国貴族の屋敷で培った、慇懃だが敬意の欠片もないカーテシーを、ビシッ! っと決めてみせる。
そして、よく通る声で言い放った。
「ええ、そうでしょう! とってもよくお似合いでしょう!! なにせこの美しい眼鏡は……シシトラ様がエミルウお嬢様のために、『特別』にプレゼントしてくださったんですから! 帝国一の職人を呼んで!」
(シシトラ様が……この帝国の女のために、特注の品を……!?)
ムナの顔から余裕が消し飛び、嫉妬で醜く歪んだ。
「下働きの分際で、口を慎みなさいッ!!」
「――あんたたちこそ、もう少し声を抑えて話せないもんかね?」
突然、背後から飛んできたドスの効いた声に、半個室の全員がビクッと振り返った。
入り口に、二人の東方人の女性が立っていた。
背が高く、細く切れ上がった鋭い目を持つ女と。
背が低く、子供のようにクリクリとした目を持つ女。
お揃いの銀鼠色の作業着の胸元には、黒い亀に蛇が巻き付く『玄武』の意匠。
恐ろしいほどの存在感と妖気を込めて刺繍されていた。
エミルウは、その刺繍の出来栄えを一目見て悟った。
(絹糸を限界まで割って刺された、あの神懸かりなステッチ……! この方たち、ハルガ様のお弟子さんだわ……!)
ムナと取り巻きたちは、二人の女性の顔を見た瞬間、顔面を蒼白にさせて慌てて深く頭を下げた。
「ヤ、ヤズ様……! チューラ様……! お、お見苦しいところを……っ!」
ヤズと呼ばれた背の高い女は、ムナたちには目もくれず、細い目でエミルウを見下ろした。
「この帝国人の嬢ちゃんはな、うちの師匠が直々に手解きしてる『新しい妹弟子』だ。……ムナ。それを知っての上で、こんなくだらねぇ真似をしてるのか?」
「えっ……!? エミルウが……あの、ハルガ様の弟子……!?」
ムナが驚愕に目を見開く。
チューラが、ニコニコと無邪気に笑いながら言った。
「そうだよぉ。ムナ、あんたも昔、親から『シシトラ様に見初められるように、花嫁修業を』って言われて、ハルガ様に弟子入りしたことがあったよねぇ? でも、指導の厳しさにたったの『1時間』で泣いて逃げ出した、『伝説のヘタレ弟子』だもんねぇ~!」
「っ……!!」
ムナの顔が、今度は羞恥で真っ赤に染まった。
「あの『1時間の逃亡記録』、いまだに誰にも破られてない新記録だよぉ。すごいねぇ!」
「ヤズ様! チューラ様! ど、どうかそのへんで……っ!」
乳母が必死に割って入ろうとする。
「店の迷惑だ。あんたたちみたいな『素人衆』は、さっさと帰りな」
「ついでに、ここの支払いはお願いねぇ~!」
ヤズの凄みを帯びたひと睨みで、ムナと取り巻きたちは逃げるように茶館を飛び出していった。
「ヤズ様、チューラ様……。私とパイネのために、本当にありがとうございます……!」
エミルウは、心からの感謝を込めて、二人の姉弟子に深々と頭を下げた。
「ワンジグ家の連中は、弱い相手には強く出るけど、自分より格上の相手にはとことんヘタレだからねぇ。もうエミルウには構ってこないと思うよぉ」
チューラが笑うと、ヤズがそっぽを向いてボソリと言った。
「……勘違いするな。あんたがハルガ様の『弟子』じゃなかったら、こんな面倒事に首なんか突っ込まなかったよ」
「ふふっ。こんなこと言ってるけどぉ、エミルウたちがあの乳母に捕まったのを見て、ヤズが心配してこの店までわざわざ尾行してきたんだよぉ。本当に素直じゃないんだからぁ~!」
「うるさいっ! 余計なこと言うなチューラ!」
顔を赤くして怒るヤズを見て、張り詰めていたエミルウとパイネの顔から、ふふっと笑みが溢れた。
――しかし。
その温かい笑い声の裏で。
ムナが残していった『あなたは、よそ者』という冷たい言葉。
『それでもここにいたい』という意思を、酸のように腐食させる呪文。
数えきれない人たちが、この呪いに殺されてきた。
いま、それが、エミルウの心臓を締め付けている――。
次回投稿は2026年5月27日(水)です。




