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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
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第28話 今日限りにしていただきたい。

 リュウノス邸の応接室。

 シシトラは苦虫を噛み潰したような顔で、ソファーに深く腰を沈めていた。


 目の前でふんぞり返って葉巻を吹かしている初老の男が、卑しげな目でシシトラを睨みつける。


阿片(アヘン)もダメ! 娼館もダメ! 株もダメ! わしが持ってくる儲け話に、ことごとくケチをつけおって」


「ブダイ伯父さん。株の取引自体は否定していません。あなたが持ってきた話が、あくどい『戦争債』だからお断りしているのです」


 何度同じ問答を繰り返しているだろう。

 シシトラは疲労の滲む声で説明した。


「リュウノス商会は、利益のためなら際どい橋も渡る。しかし、弱い人間を食い物にして人生を破壊するような商売だけは絶対にしない。これは父・ウメガイの代からの鉄の掟です」


「ふんっ!」


 ブダイ=ワンジグは、下品な口髭をひねり、不貞腐(ふてくさ)れたように紫煙を吐き出した。

 ブダイの吐く息から酒と葉巻の耐え難い臭いがして、シシトラは顔をそむける。


「わしらワンジグは、リュウノスと商売が被らないように気を遣ってやっている! おまえたちが綺麗ごとを言っていられるのも、わしらが汚れ仕事を受け持っているおかげだろうが!」


「ブダイ伯父さん。ブダイ伯父さん……」


 シシトラが頭を振りながら、心底困った、という声を出す。


「私たちがやらない『汚れ仕事』をしてくれ、などとお願いしたことはありません。ブダイ伯父さん。遠慮なしに言えば、あなたは、1つモノを売れば1つ分の損を出すくらいに商売が下手だ。あなたが事業を潰すたびに、父ウメガイが援助してきた」


 ブダイは全く心当たりがなさそうな顔をしている。

 シシトラはくじけそうになる。


「あなたが父の義兄でなければ、リュウノス商会ともあろうものが、こんな……底の抜けたバケツに水を注ぐような真似をするわけがないのですよ?」


 普通の人間なら激怒して席を立つような皮肉だ。

 しかし、ブダイの分厚い面の皮には、その半分も通じていない。


「……偉そうにわしの商売を説教してくれたがな、シシトラ。お前も最近、底の抜けたような馬鹿な真似をしているじゃないか」


「何のことですか」


「ここに囲っている、帝国人の女のことだ」


 ブダイの目が、いやらしく細められた。

 シシトラのこめかみが、ピクリと引き()る。


移民街(このまち)では、誰もが知ってる話だぞ。あんな『帝国のよそ者』のために、金貨500枚をポンとドブに捨てるなんてな……! 女を囲う金はあるのに、伯父の事業に投資する金はないというのか! ウメガイもすっかり焼きが回ったものだ!!」


 ブダイが、バン! バン! とテーブルを叩く。


「同胞の恥だ! いい加減目を覚まして、さっさとあの小娘を追い出し、身内の女を娶れ!」


「……ブダイ伯父さん。あなたに説明する義理はない。お引き取りください」


 シシトラの声が、金属のように冷たい響きを帯びる。


「未来の義父(ちち)に対して、何という口の利き方だ!」


「その長年の勘違いも、今日限りにしていただきたい。身に余る光栄ですが、あなたのお嬢様を、私ごときが頂戴しては世の末でございますゆえに」


「遠慮はいらん。お前が貰わなければ、どこの男がうちの娘(ムナ)を娶る資格があるというのだ?!」


 遠慮ではない、というのに。


(……父上。早く商談からお戻りください。私は……この話の通じない伯父を殺してしまいそうです……)


 シシトラは深く溜息をつき、頭を抱えた。


 ◇


 移民街の狭い路地の奥。

 赤い提灯(ランタン)が揺れる、ひなびた茶館の半個室。

 甘い茶葉と蒸し物の油の匂いが立ち込める狭い空間。


 エミルウは膝の上で固く手を握りしめ、息を潜めていた。

 隣では、パイネがエミルウを庇うように前のめりで、油断なく目を光らせている。


「……お茶は、お口に合いまして?」


 円卓の向かいに座る、黒真珠のような瞳と艶やかな黒髪を持つ東方の令嬢が、温度の低い声で口を開いた。


「ええ……。ありがとうございます。香りが、とても……」


 エミルウは茶碗に触れたまま、微かに頷いた。


「私は、ムナ=ワンジグ。シシトラ様の、従姉妹でございます」


 凛とした、しかしどこか見下すような響きを持つ声。

 ほんのり漂う、カスカスガヤの香気。


(シシトラ様の、従姉妹……)


 言われてみれば、確かに。

 気の強そうな眼差しや面立ちは、彼に似ている気がした。


「……私は、エミルウ=スキャルファ。リュウノス様のお屋敷で、お世話になっております」


「存じております。だからこそ、今日わざわざこちらまでご足労いただいたのですから」


 ムナの傍らに座る中年の乳母が、鋭い声で冷たく言い放った。

 半個室の入り口と窓際には、ムナの取り巻きと思しき数人の東方人の女たちが立ちはだかり、退路を塞いでいる。

 強烈な圧迫感だった。


「こちらは、私の侍女のパイネ――」


「そちらの下働きのことは結構ですわ」


 ムナが、エミルウの言葉を鼻で笑って遮った。


 路上で突然声をかけられ、無理やり連れ込まれた不安と恐怖。

 しかし、大切なパイネを蔑ろにされた瞬間、エミルウの胸の奥に小さな火が点いた。


(私のパイネを、ぞんざいに扱うなんて……。たとえシシトラ様のご親戚でも、この方たちは決して尊敬できる人たちではないわ……!)


 ムナの乳母が、冷んやりとした声で『通告』してきた。


「ムナ様とシシトラ様の『将来』には、ワンジグ家とリュウノス家の期待が懸かっております。それは即ち、我ら同胞みんなの期待でもあるのです」


 エミルウの心臓が激しく跳ねる。


(この方が――シシトラ様、と、……!?)

次回投稿は2026年5月26日(火)です。

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― 新着の感想 ―
なんか怪しいおじさんが出てきましたね…その娘を嫁に…? と、思ったらその娘に連れて行かれてるエミルウちゃん。 ダブルでやばい父娘だなー
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