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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
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第26話 そんなにおかしいの……!?

 エミルウは大きな刺繍枠に向かい、東方の意匠を刺していた。


 シュッ……シャッ。


 流れるようなリズムで、絹糸が布を往復していく。

 右手で表から刺した針を、裏側で左手が受け止め、瞬時に表へ刺し返す。


 彼女の躍動する指先から、極彩色の世界が息吹を上げていた。


 気品をたたえる蘭の紫。

 まっすぐに立つ竹の青。

 雪の中で花を咲かせる梅の赤。

 寂しげに揺れる菊の黄。


「……見事なものだ」


 不意の声に、エミルウはハッとして手を止めた。

 振り返ると、部屋の入り口に、仕事から帰ってきたばかりのシシトラと、お茶の用意を持ったパイネが立っていた。


「おかえりなさいませ、シシトラ様!」


 エミルウは立ち上がり、パタパタと小走りで駆け寄った。

 眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が嬉しさに潤んでいる。

 ここ数日、彼が商務で忙しく、屋敷で顔を合わせることができなかったのだ。


(お会いできなくて、寂しかったです……)


 喉まで出かかったその言葉を、エミルウは頬を赤らめてグッと飲み込んだ。


「お茶にしましょうか」


 パイネの促しで、シシトラとエミルウはテーブルに向かい合った。


 シシトラは、部屋に入った瞬間から、エミルウの『見慣れない髪型』が気になって仕方がなかった。


 いつもはきつく編まれているストロベリーブロンドの髪。

 今日は後頭部でゆるく一つにまとめられているだけだった。

 赤いリボンで結ばれた毛先。

 彼女が動くたびに、春の風に揺れる花のように愛らしく跳ねる。

 刺繍の邪魔にならない、実用一辺倒の髪型。

 そのせいで、透き通るような白く細いうなじが、無防備に露わになっていた。


(いかん……)


 シシトラは必死に自制心を総動員する。

 熱くなりそうな視線を、慌ててティーカップへと逸らした。

 一度見てしまったら、もういけない。

 自分の声が硬くなっているのを、自覚する。


「――今進めているのは、この作品か」


「はい。ハルガ様から出された課題で……まだ習作の段階なので、お見せするのは恥ずかしいのですが」


 照れたように笑うエミルウ。


 その眼鏡越しの瞳のキラキラとした輝きに、シシトラは不思議な感慨を覚えていた。

 普通の令嬢なら、人前で眼鏡をかけるのは嫌がるものなのに。

 だがエミルウの場合、視力を得て世界への恐怖が消えたことで、彼女本来の無垢な美しさが完全に花開いていた。


 ふと。

 シシトラは、ある抗いがたい衝動に駆られた。


「エミルウ」


「はい、シシトラ様」


「少しだけ……眼鏡を、外してみてくれないか」


「えっ?」


 シシトラの真剣な瞳に気圧され、エミルウは


「分かりました……」


 と、両手でそっと眼鏡を外した。


 途端に、彼女の視界は、ぼんやりとした滲んだ世界に逆戻りする。

 目の前に座るシシトラの顔が歪み、どんな表情をしているのか分からなくなった。


(シシトラ様、今どんなお顔をしているのかしら……)


 表情を確かめようと、エミルウは無意識のうちに『眉間にシワを寄せ、目を細めて』彼をジッと見つめた。

 最近はすっかり見せなくなっていた、あの『不機嫌に睨むような』顔。


 シシトラは、その険しい顔を真正面から受け止め――心の中で呟いた。


(……可愛い……)


 目を細めるその必死な姿が、シシトラの庇護欲を激しく書き立てる。

 眼鏡をかけて笑う姿も最高だが、眼鏡を外して一生懸命に自分を探そうとするこの顔も、たまらなく愛おしい。


「……シシトラ様? 何か……?」


「あ、いや……! すまなかった。ありがとう、もうかけていいぞ」


(変なシシトラ様)


 エミルウはくすりと笑い、眼鏡をかけ直した。

 視力が戻り、ふんわりとした柔らかい微笑みが顔に戻る。


(ああっ、こっちも最高に可愛い……)


 シシトラは、再びエミルウの顔に釘付けになってしまった。


(……もしかして、私、顔に糸くずでもついているのかしら)


 不思議に思ったエミルウが頬を撫でるが、シシトラの熱い視線は外れない。

 やがて彼は、ひどく真面目な顔で言った。


「エミルウ。……すまないが、もう一度眼鏡を外してみてくれないか」


「????……はい????」


 言われるがまま、再び眼鏡を外すエミルウ。

 眉間にシワが寄り、目が細まる。


(くそう……こっちも信じられないくらい可愛い……! ど、どうしたらいいんだ……!)


 眼鏡をかけさせる。

 外させる。

 またかけさせる。


 真顔でそれを繰り返すシシトラの奇行に、エミルウはだんだん不安になり、背中に冷や汗をかき始めた。


(私の顔……そんなにおかしいの……!?)


 二人を見守るパイネが、腰に手を当てて「やれやれ」と天を仰いでいた。


(ああ……完全に堕ちちゃっているじゃあないですか……エミルウお嬢様のことなら、もう何をしてても可愛いんでしょう?)


 ◇


 帝都の最高級レストラン。

 重厚なマホガニーの壁と、きらびやかなモールディング。

 巨大なシャンデリアが照らす広大な(グランド)サロン。

 銀食器(シルバーウェア)、クリスタルガラス、光と富。

 時間が止まったかのような特等席で、二組の親子の『密談』が行われていた。


「ヒュッカテ男爵」


 ガスマン公爵が、あふれんばかりの角砂糖を吸わせた紅茶を(すす)りながら、甘く優しい声で囁いた。


「先日、私があなたの借金を肩代わりしてあげようと申し出たことを覚えているかね? あれは最低な出来事だった」


「……返す言葉もございません……ッ!」


 顔面蒼白の男爵が、脂汗を流して頭を下げる。


「私ではなく、よりによってあの東方人の手を取るとはね。心外だな。心外だよ」


 公爵の声は少しも怒っていなかった。

 相変わらず、微笑みを絶やさない。

 それが、よけいに恐ろしい。


「……だが、もっと心外なのは『今回の出来事』だ。男爵。もう一度、君の口から説明してくれまいか」


 まばたきを一切しない公爵の青い瞳が見つめる。

 身体の肉を引き剥がされるような悪寒。

 男爵は、引き()った声で答えた。


「……す、すべては、アロン様のお望みを叶えるためだったのです……! あの生意気なエミルウを移民街(バッドランド)から連れ戻し、改めてアロン様に献上するために……裏の『業者』を手配したのですが……」


 アロンが、忌々しげに「ふんっ」と鼻を鳴らした。

 『あの夜』、エミルウが逃げるのをむざむざと見送ったヒュッカテ男爵を、アロンは許していない。


「……昨日、その業者たちが、無残な姿で我が家に放り込まれました。泣きながら『もうこの業界から足を洗う』と……」


「無残?――どんな惨い仕打ちを受けていたのかね?」


 ヒュッカテ男爵は、震えながら、小声で答えた。


「……綺麗に剃られていました。……髪の毛と……全身の……毛を……」


 ガスマン公爵が、面白い喜劇でも見たかのように、フフッと笑った。

 公爵は、笑い声の大きさも調子もタイミングも完璧だった。

 失笑すら整い過ぎていて、薄ら寒さを感じさせる。


「その業者とやらに依頼したのは……他でもない『あなた自身』かね?」


「……そうですが」


「ははっ、ははははっ!」


 公爵は右手で顔を覆い、舞台役者のような笑い声を上げた。

 そして、指の隙間から、爬虫類のような瞳で男爵を真っ直ぐに射抜いた。


「貴族ともあろうものが! いいかね男爵。私たちはなんでも買える。暴力だって買える。だが、直接買ってはいけないのだ」


 黒衣の給仕長(メートル・ドテル)が影のように、公爵の手元にケーキの皿を音もなく置いていく。


「貴族が暴力を必要とする時は、美しく上品に『外注』するものなのだ。まさか、仲介人に払う中抜きの手数料を惜しんで、自らスラムのならず者と接触したとでも言うのかね?」


 ひと言もなかった。


「移民街の連中は、ヒュッカテ邸に『業者』たちの『身体』を叩き返してきた。雇い主はあなたと承知している、ということだ。……さあ、これから大変なことになるぞ」


「グゥッ……!」


 ガツンッ!!


 鋭い音が響き、男爵はビクンと身をすくませた。

 公爵が、純銀のフォークで、皿の上の美しいケーキを真っ二つに両断したのだ。


「アロンのため、というのも嘘だろう。何もかも、そこにいるオリンゼ嬢のためではないのかな?」


 ギクリ。

 オリンゼの顔から血の気が引いた。


『お父様! エミルウを連れ戻して! 私専属の『代作屋』として、もう一度あの屋根裏部屋に縛り付けて!!』


 オリンゼが男爵に泣きついて、スラムのならず者を動かした事実。

 『怪物公爵』にはすべてがお見通しだった。


「私に黙って……自分たちだけで『ケーキ(エミルウ)』を独り占めしようとして、君たちは失敗した」


 崩れたケーキの一切れ。

 たっぷりの蜂蜜を垂らす。

 口に運び、公爵は満足気に頷いた。


「ここにいる全員が、あの小娘一人に生き恥をかかされているというわけだ」


 公爵が、肩を揺らして、笑いをこらえる仕草をする。


「大した娘ではないか。たった一人で、我々帝国貴族を手玉に取っているのだからね」


 ナプキンで優雅に口元を拭うと、楽しげに目を細めた。


「……だが、そろそろ遊びは終わりにしよう」


 男爵が、オリンゼが、アロンが身構える。


 ガスマンがナプキンを振る。

 隣のテーブルに座っていた男たちが立ち上がった。

 神経質そうな眼をしたモーニングコートの紳士。

 若く太った男と、長身痩躯の中年男のコンビ。


「紹介しよう。『仲買人』のスピンク君と――社交新聞の記者のお二人だ」


 ガスマン公爵が、一同を見まわし、微笑んだ。


「いいかね、諸君。スラムのならず者など、出る幕はない。『市場』と『名誉』。これで、人間は簡単に――死ぬのだ」


 悪魔の晩餐会が終わりを告げる。


「役者は揃った。――シシトラ=リュウノスとエミルウ=スキャルファの、社会的処刑を開始しようじゃないか」

次回投稿は2026年5月24日(日)です。

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― 新着の感想 ―
>この回、ちょっとどうかしてますね。 最高過ぎました。なにあれ。最高過ぎました。(語彙力喪失) 基本、途中では感想書かないポリシーなんですけど、2人が尊過ぎて、気付いたら! ああ、まさか男キャラに…
前半の破壊力が飛んでもないのですが………!!(>_<) パイネと全く同じ感想ですねこれは(*´¬`*) いや「おかしい」のも「可愛い」のも完全にお前の方じゃい (´∀`;) あ、可愛いのは両方か…
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