第25話 医学の進歩に貢献していけよ
リュウノス邸とハルガの天幕の間を、朝な夕なに行き来するエミルウとパイネ。
二人の姿は、すっかり移民街の『名物』になっていた。
東方風の、淡い青磁色の上衣に身を包んだエミルウは、まるで深山に咲く仙女のように美しい。
隣で元気いっぱいに笑うパイネとの主従は、一幅の絵画のように人々の目を惹きつけた。
朝の往路。
市場を歩けば、屋台のおばちゃんや顔馴染みのおじちゃんたちが、親戚の娘を見るような笑顔で声をかけてくる。
「エミルウさん、パイネちゃん、おはようさん! 今日も修行かい? ほら、持ってお行き。揚げたてアツアツの胡麻団子だよ。腹が減っては戦はできぬ、ってね!」
「わぁっ、いつもありがとうございます!」
ニコニコ顔で熱い包みを受け取るパイネ。
夕方の復路は様子が一変する。
ハルガからエミルウへの苛烈な指導を一日中見学させられ、すっかり魂が抜けてげんなりしたパイネ。
彼女がトボトボとエミルウの後ろを歩いてくるのがお馴染みの風景になっていた。
その悲壮感漂う姿に、屋台のおばちゃんたちも苦笑して、声をかけるにかけられない。
しかし、当のエミルウは全く対照的だった。
「エミルウお嬢様……私、毎日見ているだけで心が折れそうです……。ハルガ様って、お嬢様に厳しすぎませんか……?」
「何を言うの、パイネ」
エミルウは、特注の眼鏡の奥で、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせて振り返った。
「ハルガ様は、あれでもまだ手加減してくださっているわ。私の実力が足りないからよ。それとも……あまり厳しくしたら、私が逃げ出すとでも思っていらっしゃるのかしら」
エミルウは、また新しい針傷とマメが増えた己の手のひらを、愛おしそうに見つめて微笑んだ。
(ハルガ様の、あの神域の針と糸。そのすべてを私のものにする。……逃げるだなんて、考えられないわ……!)
彼女が目指している境地は、壊れた身体感覚でなければたどり着けない地平だった。
正気や正論が通じない領域――。
いつか、パイネやシシトラの言葉が、エミルウに届かなくなる瞬間が来るのではないか。
エミルウの横顔に、パイネは言い知れない不安を覚えた。
(エミルウお嬢様……このままじゃ、人間じゃなくなってしまいそう……)
◇
そんな平和な移民街の裏路地。
見慣れない男たちの影が4つ、息を潜めていた。
身なりこそ労働者風に偽装している。
しかし、鋭い眼光や鼻柱に刻まれたナイフの古傷が、ただの素人ではないことを物語っていた。
明らかに帝国のスラム街あたりからやって来た、という風貌。
「……話が違うじゃねえか。しょぼくれた冴えない貧乏女だと聞かされてたのに、実物はおとぎ話のお姫様みてぇな別嬪だ」
「あのお嬢様とメイド、とにかく目立ちすぎる。街の人間全員の目が、あいつらから一瞬たりとも離れねえんだよ」
男の一人が、イラついたように壁を蹴った。
「あてが外れたぜ。女二人を攫うだけのチョロい仕事だと思って引き受けたが……攫うどころか、俺たちが無事にこの街から出られるかも怪しくなってきたぞ」
「まったくだ。さっきから、表通りを歩いているだけで、すれ違う東方の連中がどいつもこいつも、俺たちのことをじろじろと『値踏み』するように見てきやがる。なんだか気味が悪りぃ……」
「ふん。底辺のネズミにしちゃあ、いい勘をしてるじゃないか」
背後から突然降りかかった冷たい声に、4人の男たちは身体を跳ねる。
慌ててナイフを抜いて振り返った。
ジメジメと濡れた裏路地の奥。
自分たちがやってきた退路を塞ぐように。
いつの間にか10人近い東方人の男たちが、音もなく立っていた。
「……ちょっと、状況判断が遅かったがな」
男たちがニヤリと笑った瞬間。
鈍い打撃音。
短い悲鳴。
夕暮れの裏路地に吸い込まれていった。
◇
移民街の外れ。
窓一つない煉瓦造りの古い倉庫。
帝国の『よそ者』4人は、手酷く痛めつけられた姿で。
後ろ手に固く縛り上げられ、冷たいコンクリートの床に転がされていた。
薄暗い部屋の壁。
所狭しと飾られている、原色で彩られた奇怪な仮面。
部屋の隅の祭壇には、6本の腕を持つ東方の鬼神の彫像。
血のような赤いランプに照らされて、不気味に浮かび上がっている。
嗅いだことのない異国の香の匂い。
鼻の奥をツンと刺す。
帝国の法の及ばない完全な『別の世界』に放り込まれた、という恐怖。
男たちはガタガタと歯の根を鳴らして震えていた。
法律の外で生きている以上、いつかは『こういうこと』もある。
そう覚悟して生きてきた。
それは無法者なりの矜持だった。
しかし、今この空間を支配しているのは。
無法ではない。
非法であった。
どんな覚悟が必要なのか、わからなかった。
ギィッ……。
重い鉄の扉が軋んだ音を立てて開き、一人の若者が入ってくる。
人懐っこい笑みを浮かべた、港湾労働者風の男。
どこにでもいる、気の良さそうな東方人の青年だった。
「ボズさん。ご足労かけます」
見張りの男たちが、一斉に深く頭を下げる。
「ん。みんな、ご苦労さん」
『ボズ』と呼ばれた青年は、湿った床に転がる帝国からの闖入者たちを見下ろす。
手に何かを持っている。
カチャカチャと金属音を立てながら、ボズはニヤニヤと笑った。
「おうおう……こりゃあ、随分と図体のデカいネズミが迷い込んだもんだな」
「こいつら、お嬢さんの周りを嗅ぎ回ってたんで、とりあえず縛り上げました。どうします?」
「そうだな。――まずは誰の差し金か、お名前を頂こうか」
「……っ! 誰が言うか! 殺すなら殺せ、東方の野蛮人どもが!」
血まみれの男の一人が、強がって毒づいた。
ボズが短く口笛を吹いた。
「『野蛮人』だってよ。えらく綺麗な言葉で、俺たちのことを語ってくれるじゃあないか」
にっこりと笑う。
「ボズさん、こんな調子なんですよ。殴っても蹴っても、肝心なことは何一つ答えやしない。ネズミの割には無駄に気合が入ってる」
「そうかぁ……」
ボズは、心底困ったように大げさなため息をついた。
「俺の出番、ない?」
「ちょっと無理っすね」
ボズは自分の頭を搔きながら、ぼやくように言った。
「……しょうがないな。おい、こいつら、裏の病院の『ドクター』のところに運んでやれ」
ならず者たちが、怪訝な顔で顔を見合わせる。
「ドクターが、外科の『縫合』の練習台が足りない、って言っていたんだよ。こいつら、口はお上品だが体は丈夫そうじゃないか」
ボズの手の中から、再びカチャカチャ、という音がする。
「手の指10本、足の指10本……最低でも20回は、切って繋ぐ練習ができるだろ」
「……は……?」
男たちの顔から、一気に血の気が引いた。
「心配するな。ドクターの腕は確かだぞ。こないだの練習台も、半年は生きてたからな。……最後は『半分くらいの大きさ』になっちまってたが」
男たちは、ボズの手の中にあるのが、外科手術用のメスと剪刀であることに気がついた。
「ヒッ……!!」
ボズは、怯える男の顔の高さまでしゃがみ込み、メスと剪刀を突きつけた。
「ジョキン!……チョキチョキチョキチョキ……」
口を尖らせて音を出し、男の目の前で、手術の手真似をしてみせる。
眼球の数センチ前を、メスの刃が行き来する。
ならず者たちは、恐怖に歯を食いしばった。
「大丈夫大丈夫。麻酔はしてもらえるから」
ごくり、と喉が鳴る音。
「な? 医学の進歩に貢献していけよ」
ボズの剽軽な笑顔が――赤いランプに照らされて、悪魔のように見える。
「半年かけて、家族にはとても見せられないような身体になるか。雇い主の名前を吐いて、自分の足で歩いて家に帰るか。……選ばせてやるよ」
「……」
「ついでに、俺も勉強させてもらおっかな~」
チョキチョキチョキチョキ
「ひゅっ……ヒュッカテ男爵だッ!! 男爵から金をもらって雇われたんだ!! だから助けてくれ!! 頼む!!」
男たちの絶叫。
そして失禁。
「……ヒュッカテ、ね」
ボズの顔から、人懐っこい笑みがスッと消え失せた。
彼は氷のように冷たい目で男たちをねめつけると、ゆっくりと立ち上がった。
部下たちを見まわして、頷く。
「ご苦労だった。……リザイア様とシシトラ様に報告だ」
移民街で再起動したエミルウの生。
それも、つかの間の安息だった。
ヒュッカテ男爵が、ガスマン公爵が、再びエミルウに爪を立てようとしている。
「お嬢さんが、危ねえ」
ボズは武闘派の本能で、迫りくる足音を感じていた。
次回投稿は2026年5月23日(土)です。




