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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第2章 移民街(バッドランド)
25/56

第24話 なんで私がこんな目に……!

※激しい暴力や身体的な危害を加える描写が含まれています。

 心身の不調を引き起こす可能性があるなど、

 不安のある方は、閲覧を控えてください。

 薄暗いハルガの天幕の中。

 ランプの灯りの下で、エミルウは呼吸を殺し、1本の絹糸を凝視していた。


 指先を使って、糸を2本に『割る』。

 割れた1本を指の腹で微かに(よじ)り、さらに数本の細い糸へと分離させる。

 それを、さらに割る。


 やがて指先に残ったのは、人間の吐息や、わずかな空気の揺らぎで千切れてしまいそうな、極細の繊維(フィラメント)だった。

 もはや肉眼では焦点を合わせることすら難しい、蜘蛛の糸の世界。


「まだできる。さあ、もう一度『割れ』」


 ハルガの冷徹な声が降ってくる。


「……っ」


 エミルウは瞬きを止める。

 己の指先の感覚だけを頼りに、その『蜘蛛の糸』をこじ開けようとした。

 しかし、絹はそれ以上ほぐれる気配を全く見せない。


「……ハルガ様。これ以上は、もう……『割れません』」


 エミルウの経験と指先の感覚が、『これこそが物質としての限界だ』と告げていた。


「『割れる』。できるよ」


 ハルガが、エミルウの手からその蜘蛛の糸を取り上げる。

 そして、ゴツゴツした古木のような指先を、何かを探るように微かに動かした、その瞬間。


 フワッ、と。


 物理的な限界と思われていた1本の『蜘蛛の糸』が、ハルガの指の中で『二つの幻』へと分かれたのだ。

 ランプの光の反射がなければ、そこに糸が存在していることすら分からない。


 それは、エミルウの認識のずっと向こう側――未知の領域だった。


「私たちは、ここまでやる」


 小柄なハルガが、深い皺の奥からエミルウを射抜いた。


「やれるか。お前に、できるか」


「……やります。……できます」


 エミルウの声は、恐怖ではなく、熱を帯びて震えていた。


 そこからのハルガの指導は、容赦も忖度もなかった。

 基礎の反復。

 1本の針の落とし方、糸の引き方。

 そのすべてを、隣に座るハルガが厳しく言葉で打ち据える。


「また帝国流の『手癖』が出ているよ!」


「はい……ッ!」


「上っ面ではない、本物の東方の技を身につけたいんだろう! だったら、あんたの指に染みついた『垢』を、徹底的に洗い落とす。覚悟しな!」


「はい……ッ! どうか、お願いいたします……!」


 エミルウが正確無比のステッチで刺していく。


「ちがう」


 ハルガが制する。


「針で刺すな。布が苦しがっている」


(……布が……?)


「針は、刺すのではなく、置いてくる。見ていろ」


 ハルガの指は、縫っているというより、色を撫でていた。

 針は遅れてついてくる、ように見えた。


「手を軽く。力を抜き、糸と布の間に空気を残すのじゃ」


「……はい」


(わからない)


 水を(つか)むような話だった。


「強すぎる。引きすぎている」

「空白を埋めようとするな」

「直すな」


 エミルウは、積み上げてきたものが粉々に破壊されていくのを感じていた。


 何度も、何度も言われる。

 エミルウは必死に食らいついた。


(さっきよりは、できてる……はず)


 そう思った瞬間、またやり直しになる。


「エミルウ。おまえは、間違えないな」


(褒められた……!)


「だから、『何も起こらない』」


(褒められたんじゃなく……(けな)されている?)


 間違わないことの、何がいけないのか。

 風を(つか)むような話だった。


「もう一度」


「……はいっ」


「だめだ。それでは、花は咲かないよ!」


 やがて、エミルウは、気づく。

 さっきまでできなかったことが、少しずつ形になっていることに。

 思い通りにならないことばかりのようで。

 何かが変わり始めている。


(楽しい……!)


 苦しいはずなのに。

 エミルウは高揚する。

 琥珀色の瞳が爛々(らんらん)と輝き、笑顔はすさまじい。


(……なんだい、この娘は)


 ハルガは、今まで指導してきた3000人以上の弟子を思い浮かべた。

 みんな、途中で泣くか、怒るか、諦めて逃げるか。

 どれかだった。

 この帝国人の娘はちがう。

 壊れそうなのに、壊れない。

 ハルガの叱咤と難詰を雨のように浴びながら。


(むしろ、楽しんでいる――?)


 この娘は、最後の、最高の弟子になるかもしれない。

 エミルウをここに連れてきたシシトラに、ハルガは心の中で感謝した。


 ふと。

 横を見ると、メイド姿のパイネが。

 エミルウを厳しく指導するハルガを睨みつけている。


(まいったね。このちびっ子。やりにくいったらありゃしない)


 ハルガは、自分の懐をごそごそとまさぐった。


「……おまえ。飴でも食うか」


 皺だらけの手のひらに載せられた赤い糖葫芦(サンザシアメ)

 林檎の赤子のような愛らしさ。


 ハルガの目と手のひらを何回も交互に見て、パイネはこわごわと飴菓子を手に取る。

 口に含むと、初めて経験する甘さ、酸っぱさ――ふくれっ面が一瞬で喜色満面になった。

 パイネは陥落した。


(ちょ、ちょろいな、こいつ……)


 ◇


 ヒュッカテ男爵邸のオリンゼの私室では、ヒステリックな絶叫が木霊(こだま)していた。


「どうして、こんな簡単なことができないのよォッ!!」


 ガシャァン!


 高価な刺繍枠が壁に投げつけられ、砕け散った。

 足元には、最高級の絹糸がもつれ、役立たずのガラクタとなって散乱している。


「ひっ……! 申し訳ございません、オリンゼ様……っ!」


 若い針子の娘が、青ざめた顔で床に這いつくばって震えていた。


 大金を払って街から呼び寄せた評判の針子(はりこ)

 彼女に命じたのは、博覧会に飾られている『水鏡を()幽囚姫(ゆうしゅうき)』の図案の、ほんの一部分を『模倣』させることだった。


 しかし、オリンゼの足元にあるものは――。

 平板で、深みの欠片もない。

 目の覚めるような色彩からはるかに遠い、死んだ色の糸の塊。

 『幽囚姫』が放っていた、水面が揺らぐような命の輝きなど微塵もない。

 お粗末な贋作。


「『お手本』は博覧会でちゃんと見てきたんでしょう!?」


「は、はい……! 穴が開くほど、しっかりと……っ」


「じゃあ、できるでしょうがッ! ()()()()()()()()()()()()、あなたが『代作』してくれるだけでいいのよ! 何がそんなに大変だというの!」


 度を失ったオリンゼが、針子の両肩を掴んで乱暴に揺さぶった。

 キツすぎる香水の匂いにむせ返りつつ、針子は涙ながらに首を横に振った。


「無理でございます……っ! あの『幽囚姫』……技法や理屈はわかります。ですが、あれは……ただ美しいだけの代物(しろもの)ではございません!」


「……何を言っているの……!?」


「技術の問題ではありません――執念じみた針の運び、執拗なまでの糸使い……! あれは……命を削って縫い上げられた『呪い』です……っ!」


 針子は怯え切った顔で、オリンゼを見上げた。


(私たちは、『幽囚姫』に呪われている――)


「針と糸で生きる人間なら、一目見れば分かります……。あんな神の領域の仕事を、私のような者が真似できるはずがない……。引き受けた私が愚かでございました」


「……あなた……頭がおかしくなったの……?」


 オリンゼの顔面から血の気が引いた。


「あの『幽囚姫』は、私が刺したのよ……! 私の作品なのよッ!!」


「お代はすべてお返しいたします。これ以上は、金貨を積まれてもお受けできません……っ!」


 這いずるように逃げようとする針子。


「私も、誇りを持って針と糸で食べている人間です。あの『幽囚姫』の作者に見られても恥ずかしくない仕事をしたいと思います……!」


 その言葉が、稲妻のようにオリンゼの脳天を貫いた。


 ぼやけた針子の顔が、一瞬。

 あの琥珀色の瞳で自分を真っ直ぐに見据える、『エミルウ』の顔と重なった。

 忌まわしい、あの顔。


 ビシッ!!


 肉を()つ音が、部屋に響き渡った。


「ふざけないでッ!」


「……っっ!!」


 オリンゼは無我夢中で、針子の頬を平手打ちしていた。


 ビシッ!

 ビシッ!!


 抵抗できない相手を、何度も、何度も、何度も。

 手のひらが赤く腫れ上がるのも構わず、オリンゼは狂ったように針子の頬を叩き続けた。


(痛いッ……手が痛いッ……! なんで、なんで私がこんな目に……!)


 右へ、左へ、揺れる針子の顔――オリンゼを(わら)っているように見えた。

 もう一発。


(エミルウ! エミルウッ! 思い出させてやるわ……お前のその指は、お前の技術は! 私を飾るため『だけ』にあるのよ……ッ!!)


 エミルウがいない。

 オリンゼの世界が壊れる。


(エミルウを、連れ戻す! どんな手を使ってでも!)

次回投稿は2026年5月22日(金)です。

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― 新着の感想 ―
エミルウちゃんめちゃ頑張ってる!なんとかモノにできるのか…??そして、パイネちゃん、ちょろすぎ…ww オリンゼの針子に怒ってる時の「じゃあ、できるでしょうがッ!」が武田鉄矢に聞こえてきましたww「こ…
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