第24話 なんで私がこんな目に……!
※激しい暴力や身体的な危害を加える描写が含まれています。
心身の不調を引き起こす可能性があるなど、
不安のある方は、閲覧を控えてください。
薄暗いハルガの天幕の中。
ランプの灯りの下で、エミルウは呼吸を殺し、1本の絹糸を凝視していた。
指先を使って、糸を2本に『割る』。
割れた1本を指の腹で微かに捩り、さらに数本の細い糸へと分離させる。
それを、さらに割る。
やがて指先に残ったのは、人間の吐息や、わずかな空気の揺らぎで千切れてしまいそうな、極細の繊維だった。
もはや肉眼では焦点を合わせることすら難しい、蜘蛛の糸の世界。
「まだできる。さあ、もう一度『割れ』」
ハルガの冷徹な声が降ってくる。
「……っ」
エミルウは瞬きを止める。
己の指先の感覚だけを頼りに、その『蜘蛛の糸』をこじ開けようとした。
しかし、絹はそれ以上ほぐれる気配を全く見せない。
「……ハルガ様。これ以上は、もう……『割れません』」
エミルウの経験と指先の感覚が、『これこそが物質としての限界だ』と告げていた。
「『割れる』。できるよ」
ハルガが、エミルウの手からその蜘蛛の糸を取り上げる。
そして、ゴツゴツした古木のような指先を、何かを探るように微かに動かした、その瞬間。
フワッ、と。
物理的な限界と思われていた1本の『蜘蛛の糸』が、ハルガの指の中で『二つの幻』へと分かれたのだ。
ランプの光の反射がなければ、そこに糸が存在していることすら分からない。
それは、エミルウの認識のずっと向こう側――未知の領域だった。
「私たちは、ここまでやる」
小柄なハルガが、深い皺の奥からエミルウを射抜いた。
「やれるか。お前に、できるか」
「……やります。……できます」
エミルウの声は、恐怖ではなく、熱を帯びて震えていた。
そこからのハルガの指導は、容赦も忖度もなかった。
基礎の反復。
1本の針の落とし方、糸の引き方。
そのすべてを、隣に座るハルガが厳しく言葉で打ち据える。
「また帝国流の『手癖』が出ているよ!」
「はい……ッ!」
「上っ面ではない、本物の東方の技を身につけたいんだろう! だったら、あんたの指に染みついた『垢』を、徹底的に洗い落とす。覚悟しな!」
「はい……ッ! どうか、お願いいたします……!」
エミルウが正確無比のステッチで刺していく。
「ちがう」
ハルガが制する。
「針で刺すな。布が苦しがっている」
(……布が……?)
「針は、刺すのではなく、置いてくる。見ていろ」
ハルガの指は、縫っているというより、色を撫でていた。
針は遅れてついてくる、ように見えた。
「手を軽く。力を抜き、糸と布の間に空気を残すのじゃ」
「……はい」
(わからない)
水を掴むような話だった。
「強すぎる。引きすぎている」
「空白を埋めようとするな」
「直すな」
エミルウは、積み上げてきたものが粉々に破壊されていくのを感じていた。
何度も、何度も言われる。
エミルウは必死に食らいついた。
(さっきよりは、できてる……はず)
そう思った瞬間、またやり直しになる。
「エミルウ。おまえは、間違えないな」
(褒められた……!)
「だから、『何も起こらない』」
(褒められたんじゃなく……貶されている?)
間違わないことの、何がいけないのか。
風を掴むような話だった。
「もう一度」
「……はいっ」
「だめだ。それでは、花は咲かないよ!」
やがて、エミルウは、気づく。
さっきまでできなかったことが、少しずつ形になっていることに。
思い通りにならないことばかりのようで。
何かが変わり始めている。
(楽しい……!)
苦しいはずなのに。
エミルウは高揚する。
琥珀色の瞳が爛々と輝き、笑顔はすさまじい。
(……なんだい、この娘は)
ハルガは、今まで指導してきた3000人以上の弟子を思い浮かべた。
みんな、途中で泣くか、怒るか、諦めて逃げるか。
どれかだった。
この帝国人の娘はちがう。
壊れそうなのに、壊れない。
ハルガの叱咤と難詰を雨のように浴びながら。
(むしろ、楽しんでいる――?)
この娘は、最後の、最高の弟子になるかもしれない。
エミルウをここに連れてきたシシトラに、ハルガは心の中で感謝した。
ふと。
横を見ると、メイド姿のパイネが。
エミルウを厳しく指導するハルガを睨みつけている。
(まいったね。このちびっ子。やりにくいったらありゃしない)
ハルガは、自分の懐をごそごそとまさぐった。
「……おまえ。飴でも食うか」
皺だらけの手のひらに載せられた赤い糖葫芦。
林檎の赤子のような愛らしさ。
ハルガの目と手のひらを何回も交互に見て、パイネはこわごわと飴菓子を手に取る。
口に含むと、初めて経験する甘さ、酸っぱさ――ふくれっ面が一瞬で喜色満面になった。
パイネは陥落した。
(ちょ、ちょろいな、こいつ……)
◇
ヒュッカテ男爵邸のオリンゼの私室では、ヒステリックな絶叫が木霊していた。
「どうして、こんな簡単なことができないのよォッ!!」
ガシャァン!
高価な刺繍枠が壁に投げつけられ、砕け散った。
足元には、最高級の絹糸がもつれ、役立たずのガラクタとなって散乱している。
「ひっ……! 申し訳ございません、オリンゼ様……っ!」
若い針子の娘が、青ざめた顔で床に這いつくばって震えていた。
大金を払って街から呼び寄せた評判の針子。
彼女に命じたのは、博覧会に飾られている『水鏡を繍う幽囚姫』の図案の、ほんの一部分を『模倣』させることだった。
しかし、オリンゼの足元にあるものは――。
平板で、深みの欠片もない。
目の覚めるような色彩からはるかに遠い、死んだ色の糸の塊。
『幽囚姫』が放っていた、水面が揺らぐような命の輝きなど微塵もない。
お粗末な贋作。
「『お手本』は博覧会でちゃんと見てきたんでしょう!?」
「は、はい……! 穴が開くほど、しっかりと……っ」
「じゃあ、できるでしょうがッ! 私の手が完治するまでの間、あなたが『代作』してくれるだけでいいのよ! 何がそんなに大変だというの!」
度を失ったオリンゼが、針子の両肩を掴んで乱暴に揺さぶった。
キツすぎる香水の匂いにむせ返りつつ、針子は涙ながらに首を横に振った。
「無理でございます……っ! あの『幽囚姫』……技法や理屈はわかります。ですが、あれは……ただ美しいだけの代物ではございません!」
「……何を言っているの……!?」
「技術の問題ではありません――執念じみた針の運び、執拗なまでの糸使い……! あれは……命を削って縫い上げられた『呪い』です……っ!」
針子は怯え切った顔で、オリンゼを見上げた。
(私たちは、『幽囚姫』に呪われている――)
「針と糸で生きる人間なら、一目見れば分かります……。あんな神の領域の仕事を、私のような者が真似できるはずがない……。引き受けた私が愚かでございました」
「……あなた……頭がおかしくなったの……?」
オリンゼの顔面から血の気が引いた。
「あの『幽囚姫』は、私が刺したのよ……! 私の作品なのよッ!!」
「お代はすべてお返しいたします。これ以上は、金貨を積まれてもお受けできません……っ!」
這いずるように逃げようとする針子。
「私も、誇りを持って針と糸で食べている人間です。あの『幽囚姫』の作者に見られても恥ずかしくない仕事をしたいと思います……!」
その言葉が、稲妻のようにオリンゼの脳天を貫いた。
ぼやけた針子の顔が、一瞬。
あの琥珀色の瞳で自分を真っ直ぐに見据える、『エミルウ』の顔と重なった。
忌まわしい、あの顔。
ビシッ!!
肉を撲つ音が、部屋に響き渡った。
「ふざけないでッ!」
「……っっ!!」
オリンゼは無我夢中で、針子の頬を平手打ちしていた。
ビシッ!
ビシッ!!
抵抗できない相手を、何度も、何度も、何度も。
手のひらが赤く腫れ上がるのも構わず、オリンゼは狂ったように針子の頬を叩き続けた。
(痛いッ……手が痛いッ……! なんで、なんで私がこんな目に……!)
右へ、左へ、揺れる針子の顔――オリンゼを嗤っているように見えた。
もう一発。
(エミルウ! エミルウッ! 思い出させてやるわ……お前のその指は、お前の技術は! 私を飾るため『だけ』にあるのよ……ッ!!)
エミルウがいない。
オリンゼの世界が壊れる。
(エミルウを、連れ戻す! どんな手を使ってでも!)
次回投稿は2026年5月22日(金)です。




