第22話 畏れ多くて、とてもとても
「この店だ。君に見せたかったのは」
シシトラが足を止めたのは、活気に満ちた屋台通りの外れにある、ひっそりとした天幕の前だった。
薄暗い天幕の中に一歩足を踏み入れた瞬間、エミルウは息を呑んだ。
そこには、一つ一つが極彩色の光を放つような、無数の『絵画』が飾られていた。
わずか数歩の小さな空間が、帝立美術館を凌駕するほどの圧倒的な存在感。
そして、静謐さに満ちている。
帝国の正統的な手法――立体感を重んじるスタイル――とは根本的に異なる。
異世界の意匠たち。
「……拝見しても、よろしいでしょうか……?」
「もちろん。今日は客として来ている。納得するまで見るといい」
エミルウは陶然としながら、作品群を食い入るように見つめた。
輪郭は曖昧で、秩序だったところがない。
余白が多い――光、そして空気感。
東方の美意識は、帝国のそれとは大きく違うのだろう。
自分の知らない『美』――。
世界が拡張されていく感覚――。
違和感。
近づくたびに、わからなくなる。
(これは――絵筆ではなく、糸で、描いているの――?)
衝撃が走る。
絵画だと思ったのは、刺繍だった。
極細の絹糸を、想像を絶する密度で縫い込めた、まさに『絹の絵画』。
見る角度をほんの少し変えてみる。
色が――移ろっていく。
エミルウの中で、何かが狂っていく。
帝国人は知らない東方の花の刺繍。
そこにあるのは、『花の形』ではなかった。
――『花の一生』が、一瞬に縫い込められていた。
眩暈を覚えた。
認識が激しく撹拌されていく。
エミルウの『刺繍師』としての感性を何よりも震撼させたのは。
天井から吊るされた1枚の飾り布の『裏側』へ回った時だった。
(え……!?)
表から見た時は、羽衣を纏った東方の天女が『こちらを向いて微笑む』図案だった。
しかし、布の裏側から見ると、同じ天女が、今度は『こちらに背中を向けている』のだ。
表も裏も、糸の結び目一つなく完璧な美しさを保ちながら、1枚の薄い絹布の上で「別々の絵」として成立している。
違う。
そこには『裏』がない。
もはや、『表』もない。
「どうやって……どうやって、こんなことが……」
崩壊感覚。
理解の範疇を超えた神業。
エミルウは、背骨が引き剝がされるほどの畏怖。
そして感動を覚えていた。
天幕の最奥。
薄暗いランプの灯りを頼りに、黙々と大きな刺繍枠に向かう一人の小柄な老女が座っていた。
「エミルウ。この店に飾ってある刺繍はすべて、そこにいる刺繍師『ハルガ』の手によるものだ」
(ハルガ様……)
エミルウは、胸の奥底に、この巨匠の名前を深く刻み込んだ。
「気に入ったものがあれば、買って帰ろうか」
「……シシトラ様。私……」
エミルウは、今まで見せたことのないような、熱を帯びた強い瞳でシシトラを見上げた。
「私、ハルガ様から、東方の刺繍を教わりたいです」
(……やはり、思った通りだ)
シシトラは内心で微笑した。
(ただのお嬢様ではない。刺繍のためなら、どこどこまでも貪欲になる――)
エミルウの中には、『魔』が棲んでいる。
その時、針を動かしていたハルガが、初めてこちらをじろりと睨みつけた。
「ハルガ。少し、話しかけてもよろしいか」
「……いいですじゃよ」
シシトラの問いかけに、ハルガはしわがれた声で短く応え、針を置いた。
「紹介したい人がいる」
「……」
ハルガはシシトラに沈黙で報いる。
「この令嬢はエミルウ=スキャルファ。帝国でも指折りの刺繍師だ。あなたから、東方の技を教わりたいと申している」
ハルガは、油断なく目を細めてエミルウを頭の先から足元まで値踏みした。
帝国人の娘。
東方の服。
眼鏡。
――何者?
「リュウノスのお坊ちゃん。このお嬢様は、どこから来たんだい」
東方訛りが強い帝国語。
「……あの……?」
「どこの生まれなんだい」
シシトラが黙って視線で促すと、エミルウが居住まいを正して答えた。
「……私、生まれたのはチズウィッカです」
「チズウィッカ! はん! お貴族様の屋敷街じゃあないか」
ハルガが露骨に鼻を鳴らした。
その濁った瞳の奥に、明確な『敵意』が灯る。
「……また、私たちの技を『盗む』つもりかい」
「え……?」
「帝国の金持ちどもは、いつもそうだ。私たちが作ったものを安く買い叩き、似ても似つかぬ紛い物を売りさばく。自分たちの手柄にして大儲けする」
ハルガは、親の仇でも見るような目でエミルウを睨みつける。
「帝国の貴族のお姫様に教えられることなんかないよ」
足元に唾を吐き捨てるように言った。
「畏れ多くて、とてもとても」
「盗むだなんて。違います。教えていただきたいのです」
パイネが怒って前に出ようとするのを、シシトラは無言で手で制した。
エミルウは、助けを求めるようにシシトラの顔を見る。
シシトラは腕を組んだまま、静かに首を横に振った。
(エミルウのために口利きをしてやりたいが……俺の役目は、君をここに連れてくることまでだ)
「シシトラ様ぁ……」
パイネが、不安を訴えるような小声で呼ぶ。
(誇り高い職人同士の聖域に、俺のような商人が金や権力で口出ししてはならない。――エミルウ。君自身の実力で、ハルガに認められなければならないんだ)
この狷介孤高な老女の『壁』は、分厚く、高い。
(だが、エミルウなら、できるはず)
(シシトラ様は何も言わない。ということは――私を信頼している、ということだわ)
エミルウは深く息を吸い込み、心を決めた。
バサッ、と。
エミルウは、土埃の舞う天幕の床に躊躇なく膝をついた。
そして、両手のひらを上に向け、ハルガの目の前へと真っ直ぐに差し出した。
「……何の真似だね」
「見てください。これが、私です」
「はんッ。綺麗にお手入れされた、お姫様のお手手でも自慢する気か……」
鼻で笑いながら視線を落としたハルガの言葉が、途中でピタリと止まった。
「これが、エミルウ=スキャルファです」
差し出されたその10本の指。
それは、貴族令嬢の手ではなかった。
糸の滑りを良くするための蜜蝋で黄色く変色した皮膚。
長年の過酷な針仕事でゴツゴツと硬く変形した関節。
そして、針傷の上に針傷を重ねて積み上げられた――時間。
(……エミルウ)
シシトラは息を呑んだ。
指先を見られることをあんなにも恥じ、怯えて隠していた彼女が。
今、己の『誇り』として、堂々とそれを他者に突きつけている。
ハルガは、その指先を穴が開くほど食い入るように見つめる。
無言で、自分の膝の上にあった『刺しかけの刺繍枠』を、エミルウの胸に押し付けた。
「……これの続きをやってみろ。針と糸はそこにあるのを使っていい」
「……はい……ッ!」
エミルウの顔に、歓喜の炎が灯った。
彼女はポーチから愛用の古びた指貫を取り出し、素早く指にはめる。
(ふん。構えは様になっている。だが、帝国のお嬢様の手には負えまいて)
ハルガは腕を組み、冷ややかに見守った。
まだ刺しかけの刺繍の続きを。
図案も見ずに。
しかも、まったく未経験の様式で完成させろ、というのだ。
どんな練達の職人にとっても、首を括りたくなるような無理難題である。
しかし。
シシトラから贈られた『眼鏡』を得たエミルウの前に、もう暗闇は存在しなかった。
絹布の精細な織り目。
先人が刺した針の軌跡。
糸の張り具合。
そのすべてが、極彩色の高解像度となって彼女の視界に飛び込んでくる。
シュッ……。ピクッ。
静寂の天幕に、絹糸が布を擦る微かな音だけがリズミカルに響き始めた。
まるで風に乗って翼を広げる鳥のように。
エミルウの指先は、一切の迷いなく躍動した。
その指先に。
一瞬
光
――ハルガはそれを見る。
ほんのわずかに目を細める。
(速いな)
――それだけを思った。
(あ……)
パイネも。
(あの時の……また……?)
シシトラも見た。
(何だ)
それも、束の間。
布の上を嵐のように駆け抜ける針先が、『それ』を忘れさせた。
(これが――『エミルウ』か)
蓄積された圧倒的な技術と、解放された視覚が完璧にリンクする。
エミルウの感覚は、経験したことのない領域へと突入していた。
(これは試験ではない)
(これは、私が私を――『誰として生きるか』を決める場なのだわ)
やがて。
エミルウがそっと針を置いた時。
どこか帝国風の立体的な味わいを感じさせながらも、東方の様式を見事に融合させた、世にも美しい『胡蝶図』が完成していた。
顔を紅潮させ、荒い息を吐きながら、エミルウはハルガの言葉を待った。
「……ふん」
一瞥。
ハルガは、『胡蝶図』を一度だけ撫でる。
指が、一瞬、止まる。
(これは、なんだ)
沈黙。
やがて。
吐き捨てるように言った。
「なっちゃいないね。こんなもの、うちじゃあ売り物にならないよ」
エミルウは、落第した。
「あっ……」
祈るように見ていたパイネが、絶望に顔を覆った。
(そんな……エミルウお嬢様の、あんなに凄い黄金の指業を……認めてくれないなんて……!)
しかし。
エミルウの顔には、微塵も暗い陰りはなかった。
「東方の流儀じゃあ、こんな糸の使い方はしないんだ。帝国流の手癖が随分とこびりついているねぇ。……こりゃあ、一から叩き直さないとダメだ」
エミルウの顔に、会心の笑みが広がる。
「……明日から、毎日ここへおいで」
(……ッッッ……はい……ッッッ!!)
声が、震えて、出なかった。
目に涙を浮かべながら、教わったばかりの東方の『拱手の礼』を深く、深く取った。
エミルウは、選ばれた。
国境。
身分。
過去。
すべてを超えて。
帝国の『屋根裏の刺繍姫』が、東方の『生きている伝説』の弟子となった瞬間だった。
「喜ぶのはまだ早い」
ハルガがニタリと笑う。
「泣いて逃げ出したくなるくらい、しごいてやるからね」
エミルウは、ほんのちょっぴり、不安になった。
次回投稿は2026年5月20日(水)になります。




