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エミルウ ~屋根裏部屋の刺繍姫~  作者: 姫松チミノ
第1章 慈善の市場(ファンシー・フェア)
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第20話 もう少しだけ手加減して

 商務のために外出していたシシトラが、パイネを伴ってエミルウの部屋を訪れた。


「シシトラ様。おかえりなさいませ……」


 エミルウは帝国流のカーテシーを示した後、教わったばかりの東方風の礼――背筋を伸ばし、腰から上を深く折るお辞儀――をぎこちなく合わせる。


「元気そうじゃないか。よかった。屋敷の者たちはよくしてくれているかな」


「はい。皆様、とても優しくしてくださって……」


(シシトラ様のおかげです……)


 こみあげてくる感謝を伝えたいのに、うまく言葉にならない。


「エミルウ。今から少し、時間をもらいたい。いいかな?」


「えっ? ……はい……」


 シシトラの表情を確かめるため、エミルウは無意識に眉間にシワを寄せ、目を細めて彼を見上げる。


(やっぱりな)


 相手を睨みつけるようなその癖を見て、シシトラは確信を深めた。


「シシトラ様。その後ろの方は……?」


 エミルウは、シシトラの背後に控える、見知らぬ帝国人男性に気がついた。

 両手に、いくつもの小さな引き出しがついた大きな木箱を提げている。


「帝都で一番の眼鏡職人に来てもらった。これから彼に、君の視力を矯正する『眼鏡』を作ってもらう」


「えっ……?」


 エミルウは目を丸くした。

 長年の薄暗い屋根裏部屋暮らしと、目を酷使する細かい刺繍作業。

 その上、吝嗇なヒュッカテ男爵は夜の灯りの使用を制限してきた。

 そのため、彼女は極度の近視になっていたのだ。


「リュウノス様。お若いご令嬢がお使いになるのでしたら、お美しいお顔を隠さない、こちらの『柄付き眼鏡(ローネット)』がよろしいかと存じます」


 職人が木箱から、べっ甲細工の扇子のようなものを取り出した。

 ボタンを押す。

 カチャリと小気味良い音を立てて、一瞬で手持ちルーペのような形に展開した。

 社交界の貴婦人たちが愛用する装飾品だ。


 しかし、それを見たシシトラは即座に首を振った。


「せっかくの勧めだが、彼女の『片手』が塞がっては刺繍ができない。両手が自由になる、耳にかけるフレーム式の眼鏡でお願いしたい」


 それを聞いて、職人は前のめりになる。


「彼女の仕事の邪魔にならないよう、羽のように軽くて丈夫で……そして、彼女の顔立ちに似合う、美しいデザインのものを」


「素晴らしい。腕が鳴りますな。最高の眼鏡を作ってお目にかけましょう」


「お願いする。価格はいくらでもかまわない」


「シシトラ様! 私、そんな高価なもの、いただけません!」


 エミルウが慌てて手を振る。


「これは投資だよ。君が目を細めて俺を『睨む』癖が治るなら、安いものだ」


「えっ……私……睨んで……?」


(自覚がなかったのか……)


 シシトラとパイネが顔を見合わせ、お互いに肩を揺らして苦笑した。


「……私、シシトラ様に、不快な思いをさせてしまっていたのですね……! すみません……!」


 エミルウが顔を青ざめさせると、シシトラは優しく首を振った。


「違う。俺を睨むのは構わないが……いや、そうじゃない」


 彼女に負担を感じさせない言葉を探す。


「君がもっと鮮明な世界を見られるようになれば、大好きな刺繍が、もっと楽しくなるだろう? 違うかな」


 エミルウはハッと息を呑んだ。


(この方は、私が『楽しく刺繍をできるように』と、こんな手配を……)


 じわりと熱い涙が浮かぶ。

 隣を見ると、パイネが(お受けしなさい!)と力強く頷いてみせた。


「……お言葉に、甘えてよろしいでしょうか……?」


「気にするな。『投資』と言っただろう。いつか君の刺繍が高値で売れた時、何か美味いものでも奢ってくれたらそれでいい」


「……売れるでしょうか」


「間違いなく引く手あまたさ。リュウノス商会代表の目利きだ。信用しろ」


 その力強い肯定に、エミルウの顔に安堵が広がる。

 今まで見せたことのない、花がほころぶような柔らかく無防備な笑顔が咲いた。


「ふふっ……はい」


 ドックン。


 シシトラの胸の奥で、心臓が想定外の大きな音を立てた。


(う……。これは、まずいな……)


 笑うとこれほど愛らしいのか。

 動揺を悟られるようでは、商人ではない。

 わざとらしく咳払いをして視線を逸らした。


 ◇


 職人が、エミルウの耳に極細の美しい金属フレームをかけ、慎重にレンズの位置を調整する。


「さあ、お嬢様。目を開けてみてください」


 エミルウが恐る恐る目を開けた瞬間。

 今まで分厚いすりガラス越しのように滲んでいた水彩画の世界が、恐ろしいほどの鮮明さを持って目に飛び込んできた。


「あ……」


 自分の手のひらの、細かな皺の一本一本までが見える。

 窓から差し込む光の帯の中で、無数の埃の粒がキラキラと踊っているのが見える。


(……これが……私の手……?)


 知らなかった。

 こんなふうに、できていたなんて。

 傷だらけ。

 だけど、誇りに思いたい指。

 胸の奥が、きしむ。


(こんなに世界があるのに――私は、何年も、なにも見ずに生きていた)


 息が、うまくできない。


(こんなに、たくさん……)


 見えてしまう。


(どうして、誰も……)


 教えてくれなかったの。


 そして。

 視界の中に、人が入る。

 ぼやけていない。

 はっきりと。

 そこに、いる。


(……えっ……)


 ずっと自分を暗闇から導いてくれた、『優しい声の主』を見つめた。

 今まで、黒くぼんやりとしたシルエットだった彼が、高解像度の現実として結像する。


 夜の海のように艶やかな黒髪。

 ナイフのように冷たく、彫刻のように優雅な輪郭。

 獲物を狙う狼のように鋭く、光を吸い込むような漆黒の瞳。


 ――帝国の『(ルール)』から外れているのに、誰もが目を奪われる。


(…………えっ!?)


 エミルウの視線は、シシトラの顔に完全に釘付けになった。


(嘘でしょう!? あの声の主が、『白檀(サンダルウッド)』の香りの主が、こんな……こんなに美しい方だったなんて!?)


 私を金貨500枚で買った人。

 私を屋根裏部屋から連れ出してくれた人。

 狼のように気高く美しい、この人が……

 シシトラ=リュウノス……!


 ボンッ! と音がしそうな勢いで。

 エミルウの顔がみるみるうちに、沸騰したように真っ赤に染まった。


 あまりの衝撃。

 パニック。

 固まった彼女を見て、シシトラは不思議そうに眉をひそめる。


「……どうした? 顔が赤いぞ。体調でも悪いのか?」


 シシトラが慌てて職人を振り返る。


「マスター。慣れないレンズで、彼女の気分が悪くなったんじゃないか?」


「い、いえっ! 違います! とても……とてもよく見えます!」


 エミルウが慌てて両手を振って打ち消す。


「そうか。ならいいが」


 シシトラは安心したように頷くと、


「フレームが当たって痛かったりはしないか?」


 エミルウの顔を覗き込むように、スッと身を屈めた。


「ひゃっ!?」


 高解像度の超美形が、なんの予備動作もなく、目の前数十センチまで迫ってくる。

 致死量の破壊力。


 エミルウは心臓が口から飛び出そうになる。


 ガタッ!


 思わず、椅子ごと後ろにのけぞってしまった。


「? ……なんだ、やはり度が強すぎるんじゃないか? マスター、レンズの度を少し落としてやってくれないか」


「ち、違います! レンズは完璧です! ただ、その……っ! シシトラ様が、あまりにも、はっきり見えすぎて……っ!」


「そりゃあ、見えるように作ったんだから当然だろう」


 シシトラはきょとんとして首を傾げた。


「これで、布の目もよく見える。刺繍の作業もはかどるというものだ」


(そうじゃなくて……っ! ああ……っっっ!)


 エミルウの中で、なにかが始まってしまった。

 人は――見えてしまったものを元に戻せない。


 顔から火を吹きそうなエミルウの後ろで。

 パイネだけが心の中で悲鳴を上げていた。


(シシトラ様……鈍感すぎます! 近すぎます! もう少しだけ手加減して差し上げて……! エミルウお嬢様の心臓が危ない……っ!)


 ――第1章・完――

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

第1章『慈善の市場(ファンシー・フェア)』編は、今回で完結です。

次回投稿は2026年5月18日(月)になります。

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― 新着の感想 ―
もう少し手加減の意味はそうでしたか〜ww そりゃエミルウちゃんにしたら、今まで見えなかった世界が見えてしまったわけですからね〜(*^^*) 第一章完結おめでとうございます。 二章からも楽しみにしてい…
姫松チミノさま 何これ凄く面白いんですけど!! 質問板で初めての作品なのに異常なPV継続率というのが気になって、ちょっとだけ……と思ったら気付けば現状まで一気に読んでしまいました (≧∇≦) 丁…
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