第20話 もう少しだけ手加減して
商務のために外出していたシシトラが、パイネを伴ってエミルウの部屋を訪れた。
「シシトラ様。おかえりなさいませ……」
エミルウは帝国流のカーテシーを示した後、教わったばかりの東方風の礼――背筋を伸ばし、腰から上を深く折るお辞儀――をぎこちなく合わせる。
「元気そうじゃないか。よかった。屋敷の者たちはよくしてくれているかな」
「はい。皆様、とても優しくしてくださって……」
(シシトラ様のおかげです……)
こみあげてくる感謝を伝えたいのに、うまく言葉にならない。
「エミルウ。今から少し、時間をもらいたい。いいかな?」
「えっ? ……はい……」
シシトラの表情を確かめるため、エミルウは無意識に眉間にシワを寄せ、目を細めて彼を見上げる。
(やっぱりな)
相手を睨みつけるようなその癖を見て、シシトラは確信を深めた。
「シシトラ様。その後ろの方は……?」
エミルウは、シシトラの背後に控える、見知らぬ帝国人男性に気がついた。
両手に、いくつもの小さな引き出しがついた大きな木箱を提げている。
「帝都で一番の眼鏡職人に来てもらった。これから彼に、君の視力を矯正する『眼鏡』を作ってもらう」
「えっ……?」
エミルウは目を丸くした。
長年の薄暗い屋根裏部屋暮らしと、目を酷使する細かい刺繍作業。
その上、吝嗇なヒュッカテ男爵は夜の灯りの使用を制限してきた。
そのため、彼女は極度の近視になっていたのだ。
「リュウノス様。お若いご令嬢がお使いになるのでしたら、お美しいお顔を隠さない、こちらの『柄付き眼鏡』がよろしいかと存じます」
職人が木箱から、べっ甲細工の扇子のようなものを取り出した。
ボタンを押す。
カチャリと小気味良い音を立てて、一瞬で手持ちルーペのような形に展開した。
社交界の貴婦人たちが愛用する装飾品だ。
しかし、それを見たシシトラは即座に首を振った。
「せっかくの勧めだが、彼女の『片手』が塞がっては刺繍ができない。両手が自由になる、耳にかけるフレーム式の眼鏡でお願いしたい」
それを聞いて、職人は前のめりになる。
「彼女の仕事の邪魔にならないよう、羽のように軽くて丈夫で……そして、彼女の顔立ちに似合う、美しいデザインのものを」
「素晴らしい。腕が鳴りますな。最高の眼鏡を作ってお目にかけましょう」
「お願いする。価格はいくらでもかまわない」
「シシトラ様! 私、そんな高価なもの、いただけません!」
エミルウが慌てて手を振る。
「これは投資だよ。君が目を細めて俺を『睨む』癖が治るなら、安いものだ」
「えっ……私……睨んで……?」
(自覚がなかったのか……)
シシトラとパイネが顔を見合わせ、お互いに肩を揺らして苦笑した。
「……私、シシトラ様に、不快な思いをさせてしまっていたのですね……! すみません……!」
エミルウが顔を青ざめさせると、シシトラは優しく首を振った。
「違う。俺を睨むのは構わないが……いや、そうじゃない」
彼女に負担を感じさせない言葉を探す。
「君がもっと鮮明な世界を見られるようになれば、大好きな刺繍が、もっと楽しくなるだろう? 違うかな」
エミルウはハッと息を呑んだ。
(この方は、私が『楽しく刺繍をできるように』と、こんな手配を……)
じわりと熱い涙が浮かぶ。
隣を見ると、パイネが(お受けしなさい!)と力強く頷いてみせた。
「……お言葉に、甘えてよろしいでしょうか……?」
「気にするな。『投資』と言っただろう。いつか君の刺繍が高値で売れた時、何か美味いものでも奢ってくれたらそれでいい」
「……売れるでしょうか」
「間違いなく引く手あまたさ。リュウノス商会代表の目利きだ。信用しろ」
その力強い肯定に、エミルウの顔に安堵が広がる。
今まで見せたことのない、花がほころぶような柔らかく無防備な笑顔が咲いた。
「ふふっ……はい」
ドックン。
シシトラの胸の奥で、心臓が想定外の大きな音を立てた。
(う……。これは、まずいな……)
笑うとこれほど愛らしいのか。
動揺を悟られるようでは、商人ではない。
わざとらしく咳払いをして視線を逸らした。
◇
職人が、エミルウの耳に極細の美しい金属フレームをかけ、慎重にレンズの位置を調整する。
「さあ、お嬢様。目を開けてみてください」
エミルウが恐る恐る目を開けた瞬間。
今まで分厚いすりガラス越しのように滲んでいた水彩画の世界が、恐ろしいほどの鮮明さを持って目に飛び込んできた。
「あ……」
自分の手のひらの、細かな皺の一本一本までが見える。
窓から差し込む光の帯の中で、無数の埃の粒がキラキラと踊っているのが見える。
(……これが……私の手……?)
知らなかった。
こんなふうに、できていたなんて。
傷だらけ。
だけど、誇りに思いたい指。
胸の奥が、きしむ。
(こんなに世界があるのに――私は、何年も、なにも見ずに生きていた)
息が、うまくできない。
(こんなに、たくさん……)
見えてしまう。
(どうして、誰も……)
教えてくれなかったの。
そして。
視界の中に、人が入る。
ぼやけていない。
はっきりと。
そこに、いる。
(……えっ……)
ずっと自分を暗闇から導いてくれた、『優しい声の主』を見つめた。
今まで、黒くぼんやりとしたシルエットだった彼が、高解像度の現実として結像する。
夜の海のように艶やかな黒髪。
ナイフのように冷たく、彫刻のように優雅な輪郭。
獲物を狙う狼のように鋭く、光を吸い込むような漆黒の瞳。
――帝国の『美』から外れているのに、誰もが目を奪われる。
(…………えっ!?)
エミルウの視線は、シシトラの顔に完全に釘付けになった。
(嘘でしょう!? あの声の主が、『白檀』の香りの主が、こんな……こんなに美しい方だったなんて!?)
私を金貨500枚で買った人。
私を屋根裏部屋から連れ出してくれた人。
狼のように気高く美しい、この人が……
シシトラ=リュウノス……!
ボンッ! と音がしそうな勢いで。
エミルウの顔がみるみるうちに、沸騰したように真っ赤に染まった。
あまりの衝撃。
パニック。
固まった彼女を見て、シシトラは不思議そうに眉をひそめる。
「……どうした? 顔が赤いぞ。体調でも悪いのか?」
シシトラが慌てて職人を振り返る。
「マスター。慣れないレンズで、彼女の気分が悪くなったんじゃないか?」
「い、いえっ! 違います! とても……とてもよく見えます!」
エミルウが慌てて両手を振って打ち消す。
「そうか。ならいいが」
シシトラは安心したように頷くと、
「フレームが当たって痛かったりはしないか?」
エミルウの顔を覗き込むように、スッと身を屈めた。
「ひゃっ!?」
高解像度の超美形が、なんの予備動作もなく、目の前数十センチまで迫ってくる。
致死量の破壊力。
エミルウは心臓が口から飛び出そうになる。
ガタッ!
思わず、椅子ごと後ろにのけぞってしまった。
「? ……なんだ、やはり度が強すぎるんじゃないか? マスター、レンズの度を少し落としてやってくれないか」
「ち、違います! レンズは完璧です! ただ、その……っ! シシトラ様が、あまりにも、はっきり見えすぎて……っ!」
「そりゃあ、見えるように作ったんだから当然だろう」
シシトラはきょとんとして首を傾げた。
「これで、布の目もよく見える。刺繍の作業もはかどるというものだ」
(そうじゃなくて……っ! ああ……っっっ!)
エミルウの中で、なにかが始まってしまった。
人は――見えてしまったものを元に戻せない。
顔から火を吹きそうなエミルウの後ろで。
パイネだけが心の中で悲鳴を上げていた。
(シシトラ様……鈍感すぎます! 近すぎます! もう少しだけ手加減して差し上げて……! エミルウお嬢様の心臓が危ない……っ!)
――第1章・完――
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
第1章『慈善の市場』編は、今回で完結です。
次回投稿は2026年5月18日(月)になります。




