第19話 こういう目は、嫌いではない
リュウノス邸の客室。
エミルウは姿見の前に立ち、戸惑いと共に鏡の中の自分を見つめていた。
パイネに手伝ってもらって着替えたのは、リュウノス商会から与えられた『東方風の女性服』だった。
帝国の貴族令嬢たちが着るドレスは。
息苦しいコルセットで内臓を締め付け。
重いパニエで腰骨を痛めつける。
それらとは、まるで違う。
絹のように滑らかな生地が、ふわりと自然なラインで身体を包み込む。
締め付けのまったくない緩やかな造り。
枇杷襟や袖口に施された東方特有の清楚な花の刺繍。
息を呑むほどに気高い美しさを醸し出している。
(まるで……自分が、自分ではなくなったみたい)
息を吸うたびに肺の奥まで新鮮な空気が入り込む。
その『呼吸の自由』が、自分が男爵家の鳥籠から抜け出したことを何よりも実感させた。
「エミルウ=スキャルファ様。こちらへどうぞ」
東方人のメイドの言葉。
恭しい態度。
しかし、にこりともしない。
案内に従い、エミルウは部屋を出た。
専属メイドとなったパイネも、嬉しそうにひょこひょこと後ろをついてくる。
リュウノス邸の廊下を進むうち、エミルウの鋭敏な美意識は、目にするものすべてに圧倒されていた。
帝国流の、伝統と権力を感じさせる重厚な造りではない。
木と紙と絹が織りなす洗練された空間。
屋敷の奥から漂ってくる、沈香の甘くスパイシーな香り。
異界に迷い込んだような感覚。
(ここは帝国の中の、『もう一つの国』なのだわ……)
やがて、黒檀の重々しい扉の前に着いた。
案内役のメイドが控えめにノックし、エミルウには意味の分からない東方の言葉で声をかける。
『――エミルウ=スキャルファ様をお連れしました』
『……入りなさい』
扉の奥から響いたその声。
低く、重く、地鳴りのような圧。
エミルウは思わず身震いした。
案内されて足を踏み入れた執務室。
巨大な紫檀の机の奥に座る初老の東方人を見た瞬間。
エミルウが直感したのは『黒いライオン』だった。
顔を覆う威厳ある髭。
すべてを見透かすような鋭い視線。
ただそこに座っているだけで、部屋の空気を支配する強烈な磁力。
(怖い――。でも)
エミルウは、不安と恐怖で膝が折れそうになるのを必死にこらえた。
帝国貴族の令嬢として、完璧なカーテシーを示す。
「……エミルウ=スキャルファと申します」
「ウメガイ=リュウノスだ」
老ライオンは静かに立ち上がり、目礼を返した。
(屋根裏部屋で虐げられていたと聞いた。もっと痩せこけた、みすぼらしい娘を想像していたのだが……)
ウメガイは、内心の驚きを隠してエミルウを観察した。
東方の服を纏った少女。
艶やかなストロベリーブロンドの髪。
意志を感じさせる太めの眉。
琥珀色の真っ直ぐな瞳。
「ウメガイ=リュウノス様。この度は、私とパイネを男爵家から保護してくださり、本当にありがとうございました」
エミルウは震える声で、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「心から感謝いたします。これからのこの命は、ウメガイ様から与えられたものと思い――」
「感謝はありがたいが」
ウメガイの重い声が、エミルウの言葉をピシャリと遮った。
「お前の人生は、お前のものだ」
「え……っ?!」
「誰かに命を捧げるなどと、つまらんことを考えるな。思うように生きろ」
こんな言葉は想像していなかった。
「聞けば、刺繍の腕前は相当なものだというではないか。ひとかどの職人を目指すなら、それもよし。なりたいものになるがいい」
ウメガイは、ドカッと椅子に座り直した。
「そして、好きなだけここにいたらよい」
エミルウは、ウメガイの言葉に、混乱の極みに達していた。
(そんなことが、許されていいのだろうか……。何の対価もなしに、自由と居場所を与えられるなんて……)
ウメガイも少し戸惑っていた。
エミルウの表情からは、ひたむきさが伝わってくる。
それはとても好ましい。
だが、ウメガイの顔を見ようとして、ときどき『眉間にシワを寄せ、目を細めて睨む』ような仕草をするのは、なぜだ。
(シシトラは、妙な娘を拾ってきたものだ)
しかし、この瞳には、どこか不服従のにおいがする。
(こういう目は、嫌いではない)
「……好きなだけここにいたらよいが、一つだけ『条件』がある」
「はい……!」
(来た)
身構える。
天涯孤独。
一無所有。
針と糸しか取り柄がない自分の居場所を得るためならば。
エミルウは、ヒュッカテ男爵家での地獄を思い出す。
(あの年月に比べたら――)
どのような過酷な労働や条件を突きつけられても、受け止めて乗り越えなければ。
この奇跡のような幸運を手放さないためにも。
パイネを守るためにも。
ウメガイは、感情を整理しつくした厳かさで、エミルウに告げた。
「いつかここを出ていく日が来たなら。その時は、シシトラとリザイアには必ず『挨拶』をしていきなさい」
「……はい……?」
エミルウは、とっさに何を言われたのか理解できなかった。
「挨拶なしで勝手に出ていったら、その時はお前を絶対に許さない。地の果てまで追いかけて連れ戻す。……分かったな」
どう返事をしてよいか分からず、エミルウはただポカンと口を開けて固まってしまった。
ウメガイはそれ以上何も言わず、ふいっと横を向いた。
「仕事が溜まっている。今日はこれで失礼する」
ペンを取り、書類に向かっていたウメガイだが、ふと顔を上げると、まだエミルウが呆然と立ち尽くしているのに気づいた。
「……まだいたのか。仕事の邪魔だから、とっとと出ていきなさい」
パタン、と重厚な扉が閉まる。
廊下に出たエミルウは、まだ夢の中にいるように目を白黒させる。
「ね? ご主人様、すっっごいお方でしょう!?」
パイネが、誇らしげに胸を張る。
「……私、いったい、何を言われたの……? 命じられたの……?」
わからない。
困惑が止まらないエミルウに、鉄仮面のように無表情だった東方人の案内役メイドが。
今日初めて、ふんわりとした笑顔を見せた。
「『リュウノス商会は、あなたたちを全力で守り抜く』。……ご主人様は、そうおっしゃっているのですよ」
そう言って、メイドは、深く、温かいお辞儀をした。
「エミルウ様。――リュウノス邸へ、ようこそ」
エミルウの、新しい人生が始まった。
奪われたものを拾い集めるのではない。
破れた世界を縫い直すために、移民街に来たのだ。
ウメガイの次はシシトラが。
新しい扉を開いて、エミルウを手招きしていた。
「エミルウ。今から少し、時間をもらいたい。いいかな?」
次回投稿は2026年5月17日(日)です。




