第18話 覚悟してくださいね、お嬢様
泥のような深い眠りからエミルウが目を覚ました時。
ぼやける視界のすべてが、やわらかな『白』と『金』で満たされていた。
何年ぶりかに包まれた、ふかふかと柔らかく、太陽の匂いがする真っ白な寝床。
窓の外の日はもう高く昇っているらしい。
エミルウは、まるで自分が別の生き物に生まれ変わったかのように、心と身体が羽のように軽いのを感じていた。
(昨晩のことは……夢ではなかったのだわ)
ゆっくりと身体を起こし、部屋の中を見回す。
明るい陽射しをたっぷりと運んでくる大きな窓。
塵一つなく清潔で、異国の香木が控えめに香る空間。
壁には、見たこともない鮮やかな東方の絵画が飾られている。
あの、冷たくカビ臭い屋根裏部屋とは、すべてが違っていた。
ここが、リュウノス商会の客室なのだ。
(これから、どうしたらいいのかしら……)
エミルウは、ベッドの縁に座ったまま戸惑っていた。
顔を洗いたい。
けれど、身体が強張って動かない。
『曲がりなりにも令嬢なのだから』
その建前のために、ヒュッカテ家では、エミルウの身の回りのことは『一応』メイドがする決まりになっていた。
令嬢が自らのために『労働』をする。
それは、貴族社会において『恥』とされることだ。
貴族の令嬢は、飲む水ひとつですら、自分で汲みに行くことはない。
だからエミルウは、顔を洗うお湯が欲しくても、自分で台所へ行くことは許されなかった。
部屋でただじっと待つだけ。
オリンゼに媚びるメイドたちは、いつも悪意を込めて『氷のように冷たい水』しか持ってこなかったが。
エミルウは、自分のために指一つでも動かす『権利』すら奪われていた。
(このお屋敷に、私の世話をしてくれるメイドはいないわ。自分で動くしかないのよね?)
そう。
もう、エミルウは、顔を洗うことすら『自分でやってはいけない』令嬢ではないのだ。
(でも、勝手に部屋を出て水を使ったりしたら……)
(また誰かが怒鳴り込んできて、この温かいベッドを取り上げられてしまうのではないかしら……)
長年の『呪い』に縛られ、エミルウが身動きできずにいた、その時。
コン、コンッ!
と軽快なノックの音。
返事をする間もなく、元気いっぱいにドアが開け放たれた。
「エミルウお嬢様! おはようございます! よく眠れましたか!?」
太陽のような明るい笑顔で飛び込んできたのは、メイドのパイネだった。
その手には、湯気を立てる温かいお湯がなみなみと注がれた、ピカピカの真鍮の洗面器が抱えられている。
「お湯をたっぷり持ってきましたよ! さあ、お顔を洗いましょうね!」
「パイネ……! あなた、どうしたのその格好は?」
「これですか? どうです、可愛いでしょう!」
パイネは洗面器を置くと、得意げにその場でくるりと回ってみせた。
それは、帝国の一般的なメイド服とは違っていた。
上質な霧霾藍の生地に、フリル付きの黒いエプロン。
立て襟や広袖には、東方大陸の意匠を思わせる、美しい絹糸の草花の刺繍。
「エミルウお嬢様。私、今日からリュウノス商会のメイドとして雇ってもらえることになったんです。しかも、エミルウお嬢様の『専属』ですよ! お給金も、前の3倍になったんです!」
「ああ……パイネ……っ!」
エミルウの目から、せき止めていた涙がポロポロとこぼれ落ちた。
彼女はベッドから滑り降りると、パイネの両手をギュッと握りしめた。
「ありがとう、パイネ。私が今ここにいられるのは、何もかもあなたのおかげよ……本当に、本当にありがとう……」
「お嬢様……」
パイネは神妙な顔つきになり、エミルウのボサボサになったストロベリーブロンドの髪に、そっと愛おしげに触れた。
「エミルウお嬢様のこの御髪……。きちんとお手入れすれば、誰もが振り返る世界一美しい御髪のはずなのにって、私、男爵家でずっと、ずっと思っていたんです。私がそのお世話をできれば……、って」
寝間着姿のエミルウと、真新しい東方風のメイド服を着たパイネが、お互いの温もりを確かめ合うようにひしと抱き合った。
「パイネ……!」
「エミルウお嬢様……!」
お互いの涙が、お互いの頬を濡らし合う。
二人は、生きていることを、心の底から喜んでいた。
「これからも、ずっとお側にいますからね! さあ、お顔を洗いましょう!」
パイネが、涙を拭って、弾けるような笑顔を見せる。
洗面器から立ち上る湯気が、エミルウの凍えた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
「エミルウお嬢様、今日はやることがたくさんあるのですよ。お顔を洗って、髪を綺麗に整えたら……まずは、このお屋敷の『ご主人様』にご挨拶しなければ」
エミルウの心に、緊張が走る。
「ご主人様……。リュウノス商会の、会長の方ね」
「はい。覚悟してくださいね、お嬢様」
(シシトラ様のような方を従えている『ご主人様』とは……いったいどんなお方だろう)
ご主人様。
家長。
つまりは――支配者。
……どうしても、ヒュッカテ男爵のような『暴君』しか想像できない。
エミルウの心を、再び不安が覆う。
思い詰めたような表情になるのを見て取ったパイネが、少しだけ声を潜めて。
意味深にウインクした。
「とにかく、ものすっっごい方ですから!」
次回投稿は2026年5月16日(土)です。




