第17話 世界中に二人といない
ギィ、ギィ、と。
古い階段を踏み鳴らす音が、静まり返った深夜の屋敷に響く。
シシトラが、エミルウの細い肩を庇うように支えながら、1階の応接間へと降りてきた。
そこには、ソファにへたり込み、魂が抜けたように俯くヒュッカテ男爵。
そして、騒ぎを聞きつけて起きてきたシュミーズドレス姿のオリンゼが待ち構えていた。
エミルウの横に立つ象牙色のシルエットを見て、オリンゼは目を剝いた。
「シシトラ=リュウノス……!? アロン=ガスマン様の顔に泥を塗った、あの忌まわしい東方人が、なぜ我が家に!?」
彼の腕に守られているエミルウの姿。
オリンゼは、狂ったようにヒステリックな金切り声を上げた。
「お父様! あの薄汚い居候が部屋の外に出ているわ! しかも、泥棒猫のように男を引き連れて!」
エミルウとシシトラに、鋭く指を差す。
「こんなことを許していいの!?」
男爵は震えるばかりで、娘の声に応えようとしない。
リザイアは、怯えるエミルウをエスコートして降りてきた主の姿を見て、ゆっくりと頷いた。
「シシトラ。目的は達しましたね」
「ああ」
シシトラはリザイアの耳元で、東方の言葉で、何事かを素早く耳打ちした。
リザイアの顔に一瞬の驚きが走り、すぐに氷の美貌が戻る。
シシトラの片手には、エミルウの古びた裁縫道具が詰まった木箱が、宝箱のように大切に抱えられていた。
「エミルウ嬢。行きましょう」
「行く!? どこへ行こうと言うの!」
オリンゼが髪を振り乱して叫ぶ。
「お父様! エミルウが連れていかれるわ! 止めてちょうだい!!」
「……いいのだ、オリンゼ。黙っていなさい……」
「でも!!」
オリンゼの甲高い絶叫は止まらない。
「明日にはガスマン公爵家からお迎えが来るのよ!? エミルウがいなかったら、この家はどうなるの!」
その言葉に、ヒュッカテ男爵はすがるような、ひどく惨めな顔でシシトラとリザイアを見上げた。
「シ、シシトラ殿……公爵様の使者が来られたら、その、何と説明すればよいか……」
「よきように」
シシトラは、ちぎり捨てるように言った。
「き……君の名前を出してもいいのだな!? 『シシトラ=リュウノスが金にものを言わせて、エミルウ=スキャルファを無理やり連れ去っていった』と!」
「結構です。『男爵家は、借金のカタに令嬢を売り飛ばしました』と、公爵に報告するといい」
皮肉な微笑を投げ、シシトラはエミルウを庇うように、オリンゼと男爵の間を通り抜けようとする。
その時。
オリンゼが、燃えるような憎悪と嫉妬の目をエミルウに向けた。
(公爵家と移民に取り合いされて――なにか勘違いしているんじゃあないのッ!?)
(怖い)
身体が、覚えている。
従うことを。
俯くことを。
怯えることを。
顔を伏せそうになる。
シシトラの大きく温かい手が、彼女の背中を支えるように――優しく、一瞬だけ触れた。
「エミルウ。顔を上げてください」
「……っ」
エミルウが、恐る恐るシシトラの横顔を見上げる。
「あなたは、勝利者になるために、ここを出て行くのだから」
エミルウは、ゆっくりと顔を上げた。
視界はぼやけている。
だが、それでも――見た。
オリンゼを。
(……違う)
いつもと、違う。
(私は)
呼吸をひとつ。
背筋を、伸ばす。
(私は、ここに残らない)
一歩、踏み出す。
それは。
初めて、自分で選んだ一歩だった。
オリンゼの目が、見開かれる。
(なぜ……あの女が……)
(そんな顔で……歩けるの……?)
理解できない。
理解したくない。
現実は止まらない。
エミルウは、もう止まらない。
「なによ……なによなによなによ……ッ!」
オリンゼは息を呑んだ。
反抗的な目をしても、最後は必ず自分の言いなりになっていた痩せっぽちのみすぼらしい居候が。
気高く、清らかに、前を向いて歩いている。
一体、何が起こったというのだ。
「今夜はお騒がせしました。ガスマン公爵家には、よしなに」
リザイアはヒュッカテ男爵の頭の上に、社交辞令の言葉を置いていく。
そして――茫然と立ち尽くすオリンゼの真横を通り過ぎる瞬間。
リザイアは足を止めず、意地の悪い微笑みを浮かべたまま。
オリンゼの耳元にだけ聞こえる冷ややかな小声で、こう囁いた。
「…………泥棒」
ビクンッ!!
と、オリンゼの肩が大きく跳ねた。
『幽囚姫』の作者を騙り、エミルウからすべてを奪っていたこと。
それらのすべてを見透かされた屈辱。
オリンゼは顔を真っ赤にしてわななき――。
言葉にならない悲鳴を上げた。
重い玄関の扉が開き、夜の冷たい空気がエミルウの頬を撫でる。
路上には、見覚えのあるリュウノス商会の『龍』の大型馬車が静かに待機していた。
すべてが終わった。
ようやく、この息の詰まる鳥籠から抜け出せたのだ。
しかし、馬車に乗り込もうとしたエミルウは、ふと足を止め。
信じられないことを口にした。
「シシトラ様。リザイア様。……私はやはり、ここを出て行くことはできません」
「どうしたのですか、エミルウ嬢? 何か忘れ物でも?」
シシトラが驚いて振り返る。
「……パイネという、メイドがいるのです。こんな私に、とても良くしてくれた、心の優しい女の子です」
エミルウは、今にも泣き出しそうな顔で屋敷を振り返った。
「私がここを出て行った後、公爵家の怒りを買った男爵たちが、残されたパイネをどんな目に遭わせるか……」
エミルウは、シシトラたちに背を向けた。
「私、やっぱり戻ります!」
その言葉に。
シシトラとリザイアは、全身を雷鳴が走り抜けるような衝撃を受けていた。
戻るというのか。
あの地獄へ。
メイドのために。
リザイアが――日頃の冷静さに似ず、かすかに声を震わせて、優しく言った。
「エミルウお嬢様。パイネなら、移民街のリュウノス商会で保護しております。彼女が、命懸けで私たちに助けを求めに来たのです。……あなたの帰りを待っていますよ」
「……ッ! 本当ですか……!」
エミルウの瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
夜の闇の中に、安堵の笑顔が広がった。
シシトラが馬車の扉を開き、まるで女神を誘うように、恭しく彼女の手を取った。
「さあ。馬車に乗って」
「……ありがとうございます、シシトラ様」
エミルウが馬車の中に吸い込まれていくのを見届けた後。
リザイアが、エミルウには意味の分からない『東方の言葉』で、シシトラの耳元へ囁いた。
『――シシトラ。あなたは、この令嬢を絶対に手放してはいけない』
シシトラは、無言でリザイアの顔を見返した。
『彼女は天使かもしれませんが……なにかが壊れている』
エミルウ=スキャルファ。
この少女は――危ない。
シシトラの黒曜石の瞳の中で、なにかが激しく点火した。
『……ああ。こんな令嬢は、世界中に二人といない』
『龍』の馬車が、暗い男爵邸を置き去りにして、夜の帝都へと静かに走り出した。
――息ができる。
エミルウは、ゆっくりと目を閉じた。
(終わった……?)
違う。
小さく、首を振る。
確かに――
これは、はじまりだった。
帝国人のエミルウを乗せて、馬車は移民街へと向かっていた。
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次回投稿は2026年5月15日(金)です。




