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第16章 あなたが許してくれるなら

暗闇の中で、エミルウは動かなかった。

 いや、動けなかった。


(もう……なにもできない)


枯れ果てたはずの涙が、また頬を伝う。


自分がガスマン公爵家に引き渡された後、あの子(パイネ)はどうなってしまうのだろうか。

 ファンシー・フェアの残酷な競売(オークション)で、私に一筋の光をくれた、あの白檀(サンダルウッド)の香りの紳士。

 あの方に、名乗り出ることもお礼を言うこともできないまま、もう二度とお会いすることはないのだ。


心ばかりが空回りして、悲しみを拾い集める。

 けれど、身体はもう指先ひとつ動かせない。


(この心すらも、いつか動かなくなる日が来るのかしら……)


すべてを奪われた暗闇の中で、エミルウは『絶望の朝』が明けるのを、ただ震えて怖れていた。



屋根裏部屋へ続く狭い階段。

 シシトラは、男爵から受け取った重たい真鍮の鍵を見つめていた。


「……では、私はこれで……」


ヒュッカテ男爵は、ランプを震える手で掲げながら、逃げるように階下へ降りていく。


(この鍵一つと借金の棒引きが引き換えか……。私の破滅は免れたが、あの居候、疫病神か幸運の女神か分からん奴め……!)


男爵の卑屈な足音が消えた後。

 シシトラは、重厚な南京錠に鍵を差し込み、ガチャリと外した。


ひどく立て付けの悪い木の扉を、ゆっくりと、控えめな音でノックする。


コツ、コツ、コツ、コツ。


「……夜分にノックする無礼をお許しください。エミルウ=スキャルファ嬢。扉を開けてもよろしいですか」


ビクッ、と部屋の中で小さな物音がした。

 やがて、震える声が返ってくる。


「……どうぞ……」


「失礼」


ギィッ、と軋む音と共に、シシトラが一歩、足を踏み入れた。


カビと埃の匂いが充満する、薄暗く窒息しそうな屋根裏部屋。

 長身で肩幅の広いシシトラが入ると、ただでさえ狭い部屋がさらに窮屈に感じられた。

 白いフロックコートが、暗闇の中で、(ぼう)、と光るように浮き上がる。


頼りない一本の蝋燭の灯り。

 その傍らに、エミルウが亡霊のように立ち尽くしている。


香りが届く。

 異国の香木の匂い。

 なぜ。

 屋根裏部屋の現実が歪む。

 ファンシー・フェアの記憶が、脳裏で弾ける。

 嘲笑。

 恥辱。

 絶望。

 そして。

 自分の魂の輪郭を撫ぜていった、異邦の紳士。


(まさか。あのお方が、どうしてこんな所に……!?)


凍りついていたエミルウの心臓が、再び動き出した。

 エミルウの目には、暗闇に浮かぶ白いシルエットしか見えない。


「シシトラ=リュウノスです。その節は……ご迷惑をおかけしました」


シシトラは深く一礼し、努めて優しい口調で語りかけた。

 しかし、顔を上げた彼の眼光が、部屋の惨状を捉えてピタリと止まる。


(こんな、窓すらない物置部屋で……何年も過ごしてきたというのか)


シシトラは、エミルウを怯えさせないようゆっくりと視線を動かし、部屋の中を眺め回す。


大きな刺繍枠。

 すり減った刺繍道具。

 床に転がる針と糸。

 粗末なテーブルの上に広げられた紙片――『水鏡を()幽囚姫(ゆうしゅうき)』の緻密な図案。


ドクン、と。

 シシトラの心臓に、なにかが突き入れられた。

 ファンシー・フェアで彼の魂を激しく叩いた、深く長い『夜』が縫い込まれたタペストリー。

 その『真の作者』が誰であるか。

 パズルの最後のピースが完璧に(はま)った。


間違いない。この人間だ。


(オリンゼではない。この、みすぼらしい灰色のドレスを着た少女こそが……本当の『幽囚姫』だったのか……!)


同時に。

 この男爵家は、彼女から奪ってきたのだ。

 才能を。

 名前を。

 時間を。

 尊厳を。


エミルウを安心させるために、柔和な笑顔を作って入ってきたシシトラだった。

 もう、表情を作ることはできなくなっていた。

 怒りが込み上げる。

 だが、それ以上に。

 理解した。


(あなたはここにいてはいけない人だ)


エミルウは目を細め、震える大きなシルエットを見上げた。

 シシトラの表情はよく見えない。


(また、この目だ。――睨むような目つき)


暗い屋根裏部屋。

 刺繍での酷使。

 シシトラの中に、再び衝撃が走った。


(――この少女は、視力が、悪いのだ――)


怒りを通り越して、悪寒が走った。

――どれほどのものを奪われてきたのか。


(これ以上はもう奪わせない)


彼から発せられる空気が、氷のように冷たい。

 恐ろしいほどの激情を、エミルウは『気配』で感じ取っていた。


「……シシトラ=リュウノス様。なぜ、怒っていらっしゃるの……?」


「……すみません。あなたに怒っているのではないのです。私は……ああ……」


シシトラは奥歯を噛み締め、ありったけの自制心をかき集めて、深く息を吐いた。


「私、この間のお礼も言えていなかったのです……シシトラ様……」


(もう一度お会いしたかった)


と言いたかったが、それは言葉にならなかった。


「指を」


「はい……?」


「あなたの指先を、見せていただけませんか。……あなたが、許してくださるなら」


エミルウはハッとして、両手を背中に隠した。


「だめ……。こんな指先を見られるのは、恥ずかしいです……」


「あの時のお礼の代わりだと、思ってください。あなたが許してくれるなら、どうしても確かめたいことがあるのです」


静かな声だった。

 だが、逃げ場がない。

 エミルウは戸惑いながらも、ゆっくりと、おずおずと両手を前に差し出した。


シシトラは、汚れた床に片膝をつき、彼女の目線より下から、その指先を『見た』。

 長年の針糸の修練で硬く変色した皮膚。

 無数についた針の古傷。

 そして、刺繍糸を滑らかに保つための『蜜蝋』の独特な匂い。

 彼女が何者なのか――その、何よりの証明だった。


シシトラの大きな手が、エミルウのこわれ物のような小さな手を、静かに、やさしく包み込む。


(そこまでは、許していません――)


しかし、声に出せない。

 指先が、熱くなる。

 エミルウの指は、シシトラの手を振りほどけなかった。

 彼の手が、あたたかい。

 このぬくもりを知ってしまった後で――。

 冷たい、冷たいこの屋根裏部屋で、一人で生きていくことなど、できそうにない――。


(ファンシー・フェアでの自分の不用意な言葉――エミルウに聞こえてしまっていただろうか)


だとしたら――きっと、彼女を傷つけていた。


「……私は、何も分かっていなかった。……すまない」


震える低い声。


エミルウは目を見張った。


(もしかして、この方は……『私のために』怒ってくださっているのかしら)


信じられなかった。

 自分の痛みに、こんなふうに怒り、寄り添ってくれる人がこの世界にいるなんて――。


揺るぎない確信とともに。

 シシトラの中に、新しい信念が刻まれる。


(この指だけは――誰にも買えない)


やがて、シシトラは静かに立ち上がった。

 その瞳にはもう怒りはない。

 いたわりの色と、力強い決意の光が宿っていた。


「あなたの大事な刺繍の道具を、そこのケースに詰め込んでください」


シシトラは、エミルウの瞳を真っ直ぐに射抜いて、宣言した。


「あなたは今から――この家を出ていくのです」


(そんなことが、許されるのだろうか)


シシトラの言葉に、エミルウは恐怖した。

 足元に、階下で叫ぶ声が響いてくる。


『お父様! これはいったい、どういうこと!?』


オリンゼの声。

 エミルウの身がすくむ。


シシトラが静かに言う。


「さあ、行きましょう。オリンゼに『さようなら』を言うために」

次回投稿は2026年5月14日(木)です。

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