第16章 あなたが許してくれるなら
暗闇の中で、エミルウは動かなかった。
いや、動けなかった。
(もう……なにもできない)
枯れ果てたはずの涙が、また頬を伝う。
自分がガスマン公爵家に引き渡された後、あの子はどうなってしまうのだろうか。
ファンシー・フェアの残酷な競売で、私に一筋の光をくれた、あの白檀の香りの紳士。
あの方に、名乗り出ることもお礼を言うこともできないまま、もう二度とお会いすることはないのだ。
心ばかりが空回りして、悲しみを拾い集める。
けれど、身体はもう指先ひとつ動かせない。
(この心すらも、いつか動かなくなる日が来るのかしら……)
すべてを奪われた暗闇の中で、エミルウは『絶望の朝』が明けるのを、ただ震えて怖れていた。
◇
屋根裏部屋へ続く狭い階段。
シシトラは、男爵から受け取った重たい真鍮の鍵を見つめていた。
「……では、私はこれで……」
ヒュッカテ男爵は、ランプを震える手で掲げながら、逃げるように階下へ降りていく。
(この鍵一つと借金の棒引きが引き換えか……。私の破滅は免れたが、あの居候、疫病神か幸運の女神か分からん奴め……!)
男爵の卑屈な足音が消えた後。
シシトラは、重厚な南京錠に鍵を差し込み、ガチャリと外した。
ひどく立て付けの悪い木の扉を、ゆっくりと、控えめな音でノックする。
コツ、コツ、コツ、コツ。
「……夜分にノックする無礼をお許しください。エミルウ=スキャルファ嬢。扉を開けてもよろしいですか」
ビクッ、と部屋の中で小さな物音がした。
やがて、震える声が返ってくる。
「……どうぞ……」
「失礼」
ギィッ、と軋む音と共に、シシトラが一歩、足を踏み入れた。
カビと埃の匂いが充満する、薄暗く窒息しそうな屋根裏部屋。
長身で肩幅の広いシシトラが入ると、ただでさえ狭い部屋がさらに窮屈に感じられた。
白いフロックコートが、暗闇の中で、芒、と光るように浮き上がる。
頼りない一本の蝋燭の灯り。
その傍らに、エミルウが亡霊のように立ち尽くしている。
香りが届く。
異国の香木の匂い。
なぜ。
屋根裏部屋の現実が歪む。
ファンシー・フェアの記憶が、脳裏で弾ける。
嘲笑。
恥辱。
絶望。
そして。
自分の魂の輪郭を撫ぜていった、異邦の紳士。
(まさか。あのお方が、どうしてこんな所に……!?)
凍りついていたエミルウの心臓が、再び動き出した。
エミルウの目には、暗闇に浮かぶ白いシルエットしか見えない。
「シシトラ=リュウノスです。その節は……ご迷惑をおかけしました」
シシトラは深く一礼し、努めて優しい口調で語りかけた。
しかし、顔を上げた彼の眼光が、部屋の惨状を捉えてピタリと止まる。
(こんな、窓すらない物置部屋で……何年も過ごしてきたというのか)
シシトラは、エミルウを怯えさせないようゆっくりと視線を動かし、部屋の中を眺め回す。
大きな刺繍枠。
すり減った刺繍道具。
床に転がる針と糸。
粗末なテーブルの上に広げられた紙片――『水鏡を繍う幽囚姫』の緻密な図案。
ドクン、と。
シシトラの心臓に、なにかが突き入れられた。
ファンシー・フェアで彼の魂を激しく叩いた、深く長い『夜』が縫い込まれたタペストリー。
その『真の作者』が誰であるか。
パズルの最後のピースが完璧に嵌った。
間違いない。この人間だ。
(オリンゼではない。この、みすぼらしい灰色のドレスを着た少女こそが……本当の『幽囚姫』だったのか……!)
同時に。
この男爵家は、彼女から奪ってきたのだ。
才能を。
名前を。
時間を。
尊厳を。
エミルウを安心させるために、柔和な笑顔を作って入ってきたシシトラだった。
もう、表情を作ることはできなくなっていた。
怒りが込み上げる。
だが、それ以上に。
理解した。
(あなたはここにいてはいけない人だ)
エミルウは目を細め、震える大きなシルエットを見上げた。
シシトラの表情はよく見えない。
(また、この目だ。――睨むような目つき)
暗い屋根裏部屋。
刺繍での酷使。
シシトラの中に、再び衝撃が走った。
(――この少女は、視力が、悪いのだ――)
怒りを通り越して、悪寒が走った。
――どれほどのものを奪われてきたのか。
(これ以上はもう奪わせない)
彼から発せられる空気が、氷のように冷たい。
恐ろしいほどの激情を、エミルウは『気配』で感じ取っていた。
「……シシトラ=リュウノス様。なぜ、怒っていらっしゃるの……?」
「……すみません。あなたに怒っているのではないのです。私は……ああ……」
シシトラは奥歯を噛み締め、ありったけの自制心をかき集めて、深く息を吐いた。
「私、この間のお礼も言えていなかったのです……シシトラ様……」
(もう一度お会いしたかった)
と言いたかったが、それは言葉にならなかった。
「指を」
「はい……?」
「あなたの指先を、見せていただけませんか。……あなたが、許してくださるなら」
エミルウはハッとして、両手を背中に隠した。
「だめ……。こんな指先を見られるのは、恥ずかしいです……」
「あの時のお礼の代わりだと、思ってください。あなたが許してくれるなら、どうしても確かめたいことがあるのです」
静かな声だった。
だが、逃げ場がない。
エミルウは戸惑いながらも、ゆっくりと、おずおずと両手を前に差し出した。
シシトラは、汚れた床に片膝をつき、彼女の目線より下から、その指先を『見た』。
長年の針糸の修練で硬く変色した皮膚。
無数についた針の古傷。
そして、刺繍糸を滑らかに保つための『蜜蝋』の独特な匂い。
彼女が何者なのか――その、何よりの証明だった。
シシトラの大きな手が、エミルウのこわれ物のような小さな手を、静かに、やさしく包み込む。
(そこまでは、許していません――)
しかし、声に出せない。
指先が、熱くなる。
エミルウの指は、シシトラの手を振りほどけなかった。
彼の手が、あたたかい。
このぬくもりを知ってしまった後で――。
冷たい、冷たいこの屋根裏部屋で、一人で生きていくことなど、できそうにない――。
(ファンシー・フェアでの自分の不用意な言葉――エミルウに聞こえてしまっていただろうか)
だとしたら――きっと、彼女を傷つけていた。
「……私は、何も分かっていなかった。……すまない」
震える低い声。
エミルウは目を見張った。
(もしかして、この方は……『私のために』怒ってくださっているのかしら)
信じられなかった。
自分の痛みに、こんなふうに怒り、寄り添ってくれる人がこの世界にいるなんて――。
揺るぎない確信とともに。
シシトラの中に、新しい信念が刻まれる。
(この指だけは――誰にも買えない)
やがて、シシトラは静かに立ち上がった。
その瞳にはもう怒りはない。
いたわりの色と、力強い決意の光が宿っていた。
「あなたの大事な刺繍の道具を、そこのケースに詰め込んでください」
シシトラは、エミルウの瞳を真っ直ぐに射抜いて、宣言した。
「あなたは今から――この家を出ていくのです」
(そんなことが、許されるのだろうか)
シシトラの言葉に、エミルウは恐怖した。
足元に、階下で叫ぶ声が響いてくる。
『お父様! これはいったい、どういうこと!?』
オリンゼの声。
エミルウの身がすくむ。
シシトラが静かに言う。
「さあ、行きましょう。オリンゼに『さようなら』を言うために」
次回投稿は2026年5月14日(木)です。




