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超えられない季節(僕の心臓がとまるとき)  作者: 秋山 冬夏


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8/13

最期の心音

水戸から那須へ向かう高速道路。

窓の外を流れる夜の景色は、速度を上げるほどに光の尾を引いて歪んでいく。

なつは助手席で、泥のついた航空券と色褪せたキーホルダーを、壊れ物を扱うように両手で包み込んでいた。


「……あきくん、はるとくん、どんな顔してそこにいるの?」


なつが、乾いた喉を震わせて尋ねた。

あきはハンドルを握りしめたまま、前方の闇を見据える。


「……正直に言うぞ。……ボロボロだ。お前が知ってるはるとは、もうどこにもいない。あいつは、お前に見せたくなかった姿で、それでも生きてる。お前がいつか、誰かの隣で笑う日が来るのを、地獄みたいな苦しみの中で待ち続けてるんだ」


あきの言葉が、なつの胸に深く刺さる。

あの日、千波湖で叩いたはるとの頬の感触。

冷たく言い放たれた「飽きた」という言葉。

そのすべてが、はるとが自らの命を削って差し出した、最も残酷で最も深い「愛」だったことを、なつはようやく理解していた。


那須の療養施設は、深い森の奥で沈黙を守っていた。

深夜の廊下には、無機質な機械の音と、微かな消毒液の匂いだけが漂っている。あきに導かれ、なつはある個室の前に立った。


「……入るぞ」


あきが静かにドアを開ける。

カーテンの引かれた薄暗い部屋。

ベッドの上に横たわっていたのは、なつの記憶にある「はると」とは、似ても似つきぬ姿だった。


かつて自分を抱きしめた逞しい腕は、枯れ木のように細くなり、いくつもの管に繋がれている。

頬はこけ、肌は土色に変色し、規則的な機械の呼吸に合わせて、かろうじて胸が上下している。

なつは、声を出すことも忘れ、その場に崩れ落ちそうになった。


「……は、ると……くん……?」


なつは、震える膝を付くようにしてベッドサイドへ歩み寄った。

はるとの睫毛が、微かに動いた。

ゆっくりと開かれた瞳。焦点は定まっておらず、その瞳にはもう、光すら届いていないように見えた。

けれど、なつがその細くなった手を、自分の頬に当てた瞬間――はるとの指先が、目に見えないほど小さく、ピクリと動いた。


「……な、つ……?」


掠れた、風の音のような声。

なつは、はるとの手を、あの日叩いた右頬に強く押し当てた。


「そうだよ、なつだよ。……はるとくん、馬鹿。大馬鹿野郎。……なによこれ。浮気して女と逃げたんじゃなかったの? 沖縄、行くって約束したじゃない」


なつの涙が、はるとの冷たい手の甲に滴り落ちる。

はるとの瞳に、ほんの一筋の、透き通るような光が宿った。彼は、混濁する意識の泥沼から、最後の力を振り絞って這い上がってきた。


「……あき……。……お前、……約束、破ったな……」


はるとが、苦しげに唇を動かし、微笑もうとした。

あきは、窓際で背中を向け、嗚咽をこらえながら答えた。


「……ああ。破ったよ。お前の計画なんて、穴だらけだ。……なつを救うのは俺じゃない。お前のその、最低で不器用な真実だけなんだよ」


はるとは、残された最後の力で、なつの指を握り返した。


「……なつ。……ごめん、な……。……君が、……泣かないように……、……君の季節を、……終わらせないように……。……でも、……最後になつに……会えて……」


「終わらせないよ! 終わるわけないじゃない!」


なつは、はるとの胸に顔を埋めた。弱々しく刻まれる、その不規則な心音。


「はるとくんが彫った文字、読んだよ。ベンチの裏、指が痛くなるくらいなぞったよ。……『Summer never ends』って……勝手に終わらせていいなんて、言ってない!」


はるとは、穏やかな、慈しむような表情を浮かべた。

彼の視線は、なつの背後にある窓の向こう、遠くの空を見つめていた。

そこには、夜明け前の深い群青色が広がっている。


「……なつ。……僕の、……季節は……。……ここで、……終わる……」


「終わらない! 私が、ずっと終わらせないから!」


「……いいんだ。……あきが、……隣に、いるから……。……冬を……。……2人で冬を、越えてくれ……」


モニターの心電図が、激しく乱れ、平坦な音へと変わり始める。

あきが駆け寄り、なつと共に、はるとの細い体を支えた。


「はると! 目を開けろ! なつに、最後になんて言ったんだよ!」


はるとは、最後になつを見つめた。

その瞳には、もう「嘘」の欠片もなかった。

十七歳で出会った時から、一秒も変わることのない、純粋で、深く、濁りのない愛情だけが、そこにあった。


「……愛して、……る……。……なつ」


それが、はるとの最後の一葉だった。


ピー、という平坦な音が室内に響き渡る。


はるとの右手が、なつの頬から力なく滑り落ちた。

窓の外では、夜が明けようとしていた。

秋の訪れを告げる冷たい風が、那須の森を揺らしている。

はるとの「季節」は、最愛の人に看取られながら、今、永遠に止まった。

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