最期の心音
水戸から那須へ向かう高速道路。
窓の外を流れる夜の景色は、速度を上げるほどに光の尾を引いて歪んでいく。
なつは助手席で、泥のついた航空券と色褪せたキーホルダーを、壊れ物を扱うように両手で包み込んでいた。
「……あきくん、はるとくん、どんな顔してそこにいるの?」
なつが、乾いた喉を震わせて尋ねた。
あきはハンドルを握りしめたまま、前方の闇を見据える。
「……正直に言うぞ。……ボロボロだ。お前が知ってるはるとは、もうどこにもいない。あいつは、お前に見せたくなかった姿で、それでも生きてる。お前がいつか、誰かの隣で笑う日が来るのを、地獄みたいな苦しみの中で待ち続けてるんだ」
あきの言葉が、なつの胸に深く刺さる。
あの日、千波湖で叩いたはるとの頬の感触。
冷たく言い放たれた「飽きた」という言葉。
そのすべてが、はるとが自らの命を削って差し出した、最も残酷で最も深い「愛」だったことを、なつはようやく理解していた。
那須の療養施設は、深い森の奥で沈黙を守っていた。
深夜の廊下には、無機質な機械の音と、微かな消毒液の匂いだけが漂っている。あきに導かれ、なつはある個室の前に立った。
「……入るぞ」
あきが静かにドアを開ける。
カーテンの引かれた薄暗い部屋。
ベッドの上に横たわっていたのは、なつの記憶にある「はると」とは、似ても似つきぬ姿だった。
かつて自分を抱きしめた逞しい腕は、枯れ木のように細くなり、いくつもの管に繋がれている。
頬はこけ、肌は土色に変色し、規則的な機械の呼吸に合わせて、かろうじて胸が上下している。
なつは、声を出すことも忘れ、その場に崩れ落ちそうになった。
「……は、ると……くん……?」
なつは、震える膝を付くようにしてベッドサイドへ歩み寄った。
はるとの睫毛が、微かに動いた。
ゆっくりと開かれた瞳。焦点は定まっておらず、その瞳にはもう、光すら届いていないように見えた。
けれど、なつがその細くなった手を、自分の頬に当てた瞬間――はるとの指先が、目に見えないほど小さく、ピクリと動いた。
「……な、つ……?」
掠れた、風の音のような声。
なつは、はるとの手を、あの日叩いた右頬に強く押し当てた。
「そうだよ、なつだよ。……はるとくん、馬鹿。大馬鹿野郎。……なによこれ。浮気して女と逃げたんじゃなかったの? 沖縄、行くって約束したじゃない」
なつの涙が、はるとの冷たい手の甲に滴り落ちる。
はるとの瞳に、ほんの一筋の、透き通るような光が宿った。彼は、混濁する意識の泥沼から、最後の力を振り絞って這い上がってきた。
「……あき……。……お前、……約束、破ったな……」
はるとが、苦しげに唇を動かし、微笑もうとした。
あきは、窓際で背中を向け、嗚咽をこらえながら答えた。
「……ああ。破ったよ。お前の計画なんて、穴だらけだ。……なつを救うのは俺じゃない。お前のその、最低で不器用な真実だけなんだよ」
はるとは、残された最後の力で、なつの指を握り返した。
「……なつ。……ごめん、な……。……君が、……泣かないように……、……君の季節を、……終わらせないように……。……でも、……最後になつに……会えて……」
「終わらせないよ! 終わるわけないじゃない!」
なつは、はるとの胸に顔を埋めた。弱々しく刻まれる、その不規則な心音。
「はるとくんが彫った文字、読んだよ。ベンチの裏、指が痛くなるくらいなぞったよ。……『Summer never ends』って……勝手に終わらせていいなんて、言ってない!」
はるとは、穏やかな、慈しむような表情を浮かべた。
彼の視線は、なつの背後にある窓の向こう、遠くの空を見つめていた。
そこには、夜明け前の深い群青色が広がっている。
「……なつ。……僕の、……季節は……。……ここで、……終わる……」
「終わらない! 私が、ずっと終わらせないから!」
「……いいんだ。……秋が、……隣に、いるから……。……冬を……。……2人で冬を、越えてくれ……」
モニターの心電図が、激しく乱れ、平坦な音へと変わり始める。
あきが駆け寄り、なつと共に、はるとの細い体を支えた。
「はると! 目を開けろ! なつに、最後になんて言ったんだよ!」
はるとは、最後になつを見つめた。
その瞳には、もう「嘘」の欠片もなかった。
十七歳で出会った時から、一秒も変わることのない、純粋で、深く、濁りのない愛情だけが、そこにあった。
「……愛して、……る……。……なつ」
それが、はるとの最後の一葉だった。
ピー、という平坦な音が室内に響き渡る。
はるとの右手が、なつの頬から力なく滑り落ちた。
窓の外では、夜が明けようとしていた。
秋の訪れを告げる冷たい風が、那須の森を揺らしている。
はるとの「季節」は、最愛の人に看取られながら、今、永遠に止まった。




