空白の弔い
あの日、千波湖のカフェから逃げるように飛び出したなつの背中を見送ってから、はるとの時間は「停止」へと向かった。
はるとはそのまま水戸の病院へは戻らず、あきが事前に手配していた、人里離れた那須の療養施設へと移送された。
そこは、深い森に囲まれた、死を待つ者たちのための沈黙の聖域だった。
「……もう、十分だよ。あき。あとは、頼んだぞ」
移送される救急車の中で、薄れゆく意識を繋ぎ止めながら、はるとはあきの震える手を握った。
それが、親友にかけた最後のリレーの言葉となった。
一方、水戸の街に残されたなつにとっては、地獄のような「空白」が始まった。
「あいつ、あの女とそのまま姿を消したらしい」
数日後、なつの部屋を訪れたあきは、土の匂いをさせたまま、玄関先でそう告げた。
あきの顔には、なつを裏切ったことへの罪悪感と、はるとの計画を完遂しなければならないという義務感が、複雑な影となって張り付いていた。
「……そう。勝手にすればいいわ。あんなクズ、もう死んじゃえばいいのよ」
なつは、幽霊のような足取りでキッチンへ向かった。
冷蔵庫には、あの日、はるとのために作るはずだった煮物の残りが、腐りかけたまま放置されている。
なつはそれを無造作に掴み、ゴミ箱へ叩きつけた。
「あきくんも、もう来ないで。……はるとの浮気を知っていながら、私をあの場所に連れて行って、あんなの見せつけるなんて……あなたも、あいつと同罪よ」
なつの冷徹な瞳が、あきを貫く。あきは言い訳を飲み込んだ。
本当は、今すぐこの場で叫びたかった。
「はるとは死ぬんだ! お前を愛しすぎて、あいつは自分の人生をゴミ箱に捨てたんだ!」
と。
けれど、はるとが命を削って遺した「なつの取扱説明書」の第一ページには、血の滲むような筆跡でこう書かれていた。
『なつが俺を呪い、憎んでいる間だけ、彼女は「死」の重圧から自由でいられる。あき、頼む。お前がどんなに嫌われてもいい。彼女の憎しみの標的であり続けてくれ』
「……ああ。そうだな。俺もクズだよ」
あきはそれだけを言い残し、部屋を出た。
一人になったなつは、はるととの思い出が詰まった家具を一つずつ、狂ったように破壊した。
ペアのマグカップを床に叩きつけ、二人の写真が入ったフレームを真っ二つに割り、はるとの香りが残るシャツを鋏で切り刻む。
けれど。
どれだけ壊しても、どれだけ呪っても。
心臓の奥底、はるとが刻んだあの「痛み」だけは、どうしても消し去ることができなかった。




