千波湖の断罪
梅雨の走り。
水戸の街を、重苦しい湿気が支配していた。
はるとの体調は限界に達していた。
朝、鏡を見ると、そこに映っているのは生気のない幽霊のような男だった。
「……はると、本当に、今からやるのか。もう、顔色が死人みたいだぞ。中止だ。打ち明けて病院へ行こう」
隣に座るあきの声が、悲痛な響きを帯びて震えている。
「……やれ、あき。……俺の心臓は、……もう一晩も、待ってくれないかもしれないんだ」
千波湖を一望できるテラスカフェ。
窓の外では、灰色に濁った湖面に、激しい雨粒が波紋を広げている。
はるとの隣には、あきが無理を言って頼み込んだ、知り合いの女性・マキが座っている。
はるとはわざと、彼女の肩を抱き寄せ、なつが見れば一瞬で絶望するような親密な距離を保った。
「……来るぞ」
あきの視線の先に、傘も差さずに走ってくる、小さな、けれど必死ななつの姿が見えた。
あきは、自分の心を殺し、震える手でスマートフォンを取り出した。
「……なつ。今すぐ、千波湖のあのカフェに来い。……はるとの正体を見せてやる」
あきの言葉は、怒りに満ちた演技ではなかった。
それは、親友を「死」へと追いやる自分自身への、止めることのできない断罪の絶叫だった。
十分後。
店内のカウベルが、死を告げる鐘のように鳴った。
全身を濡らし、髪を顔に張り付かせたなつが飛び込んできた。
窓側の、かつて二人で座ったあの席。
そこで、見知らぬ女の肩を抱き、楽しげに笑うはるとの姿。
「……はるとくん……?」
なつの声は、風にかき消されそうなほど細かった。
はるとは、ゆっくりとなつの方を向いた。
その瞳には、三年間愛し合ってきた恋人を見る色は、欠片も、一滴も残っていなかった。
「……なつか。何しに来たんだよ。見ての通りだ。俺、もうお前には飽きたんだ。マキの方が、刺激があるしな」
「その人は誰……? あきくん、これどういうこと!? 嘘だって言ってよ!!」
なつの矛先があきに向いた。
あきは、唇を血が滲むほど噛み締め、立ち上がってはるとの胸ぐらを掴み上げた。
「……見たまんまだよ、なつ! こいつ、最低なクズなんだよ! お前が一人で飯作って待ってる間、ずっとこの女と会ってたんだ。俺も、さっきこいつから聞いたんだよ! 『なつなんて重いだけの女、もう飽きた。適当に別れ話を作ってくれ』ってな!」
あきは、はるとを罵倒しながら、自分の心が音を立てて崩壊していくのを感じていた。
はるとの胸ぐらを掴む手に、殺意に近い力がこもる。
「おい、はると! お前、なつに謝れよ! ずっと俺を騙して、なつのことバカにして……死ねよ、お前みたいな奴は!」
「……離せよ、あき。うぜえんだよ」
はるとは冷たくあきの手を振り払い、なつを見据えた。
「なつ、あきの言う通りだよ。お前と一緒にいても、もう刺激がないんだ。消えろよ。お前の顔、もう見たくないんだ。……本当に、迷惑なんだよ、お前」
なつの手が、震えながら上がった。
乾いた音がカフェに響く。
はるとの右頬が赤く染まる。その痛みすら、はるとには心地よかった。
「……最低。一生許さない! 死んじゃえばいいんだ、はるとなんて!!」
なつは泣きながら、土砂降りの雨の中へ飛び出していった。
その背中を、はるとは追いかけることができない。
「なつ! 待て!」
あきは、はるとの「追え」という執念の籠もった視線に背中を押され、なつの後を追って走り出した。
カフェに残されたはるとは、なつの姿が見えなくなった瞬間に、糸が切れたように崩れ落ちた。
「……ガハッ……! あ……っ……」
白いテーブルクロスに、どす黒い鮮血が飛び散る。
あきと共に自分を罵倒した、あの瞬間の。
親友を裏切り、恋人を絶望させた、あの瞬間の。
はるとは、遠のく意識の中で、自分に与えられた「死」という刑罰を、最高に幸福な愛の形として受け入れていた。




