愛という名の冒涜
病院での余命宣告から、二週間が過ぎた。
水戸の街を彩っていた桜は、いつの間にか無残なほどに散り果て、アスファルトには泥にまみれた薄桃色の花びらが、無数の足跡に踏みにじられてへばりついている。
はるとにとって、その光景は自分自身の未来の縮図に見えてならなかった。
「はるとくん、今日もお仕事遅いの? 無理しないでね。最近、顔色も悪いし……」
朝の食卓、なつが心配そうに覗き込んでくる。
彼女が丹精込めて作った味噌汁の湯気が、はるとの顔を優しく包む。
かつては世界で一番愛おしかったはずのこの温もりが、今は自分の心臓を締め上げる、逃げ場のない絞首刑の縄のように感じられた。
「……ああ、プロジェクトが大詰めなんだ。夕飯はいらないから、先に寝ててくれ」
はるとは、なつの瞳を一度も見ずに、冷え切ったトーストを喉の奥に押し込んだ。
「……はるとくん? 私、何か怒らせることしたかな。最近、全然目も合わせてくれないし……」
なつの声が微かに震える。
その震えを止める権利は、もう自分にはない。
「……しつこいな。ただ疲れてるだけだって言ってるだろ。仕事の話、家でするの嫌なんだよ」
あえて乱暴に椅子を弾き、背中を向けて家を出る。
ドアが閉まる鈍い音。
なつの押し殺したすすり泣きが、薄い壁の向こうから聞こえた気がした。
階段を駆け下りながら、はるとは自分の胸を強く叩いた。激しい動悸が、肋骨を内側から突き破らんばかりに暴れている。
口の中に、鉄の味が広がった。
(これでいいんだ、なつ……。俺を嫌いになれ。優しい思い出なんて、今のうちに、一つ残らず捨ててくれ)
はるとの「仕掛け」作りは、人知れず始まった。
彼はあきに、なつの将来を託すための膨大な「指示書」を渡し、並行して自分にしかできない作業を水戸の各地で行った。それは、二人の思い出の場所を巡り、一つずつ「愛」を「憎しみ」へと書き換えるための、孤独な葬列でもあった。
1. 備前堀:沈黙の石垣
江戸時代の情緒を残す備前堀。柳の葉が水面に触れ、涼しげな音を立てている。
ここは、二人が一度だけ、本気で別れを意識するほどの大喧嘩をした場所だ。
原因は、はるとの些細な、けれどなつにとっては重大な隠し事だった。なつは
「嘘をつかれるのが一番悲しい。隠し事なんてしないで」
と泣きじゃくり、その拍子に、大切にしていたアンティークのキーホルダーを堀沿いの石垣の中に落としてしまったのだ。
あの時、なつは
「不吉だ、私たちの仲もこれで終わりだ」
と数日間落ち込んでいた。はるとは、実は翌朝、夜明けと共に一人でそこを訪れ、石垣の隙間に挟まっていたそれを見つけ出していた。
けれど、仲直りのきっかけを逃し、謝りそびれたまま、そのキーホルダーはずっとはるとの机の奥で眠り続けていた。
はるとは、震える指先でそのキーホルダーを防水ケースに入れ、再びあの石垣の隙間に戻した。
指先で、ひんやりとした石の感触を確かめる。冷たい石の拒絶が、今は心地よかった。
(なつ、探し物は、ずっとここにあったんだ。……でも、これを見つけるのは、僕じゃないんだよ。あきが君をここに連れてきた時、僕はもう、この世にいない)
その隙間のさらに奥に、彼は一通のメモを押し込んだ。
『あき、このキーホルダーを見つけた時、なつはきっと泣く。その涙を拭うのは、俺じゃない。お前だ。お前が、彼女の新しい笑顔を作ってくれ』
2. 千波湖:三番目のベンチの刻印
水戸のシンボル、千波湖。
湖畔の三番目のベンチは、二人の「作戦会議室」だった。
結婚したらどんな家に住みたいか、子供の名前は何にするか。
なつはいつも、ここで楽しそうに未来を語っていた。
「私ね、はるとくん。おばあちゃんになっても、このベンチで一緒に白鳥を見ていたいな」
はるとは、人気のない夜の千波湖にいた。
ベンチに座り、なつがいつもそうしていたように、背もたれの縁を指でなぞる。なつは考え事をするとき、無意識にこの木材の感触を確かめる癖がある。
彼はポケットから小さな彫刻刀を取り出した。
(ごめん、なつ。……君がなぞる場所に、呪いを残していくよ)
彼はベンチの裏側に手を回し、刃先を木に突き立てた。
ガリッ、と硬い音が夜の静寂に響く。
一文字刻むごとに、心臓を直接針で刺されるような激痛が走る。
息を止める。
脂汗が額を伝い、地面に落ちる。
木片が飛び散り、指先に刺さる。
その痛みすら、なつへの罪悪感に比べれば微々たるものだった。
彼は狂ったように、自らの命を削り出すように、文字を彫り続けた。
『Summer never ends(夏は終わらない)』
なつの名前の由来であり、彼女の命そのものである「夏」。
自分の死によって、彼女の時間が永遠に止まってしまわないように。
あきという「秋」が、彼女の「冬」を支え、また新しい「春」へと繋いでいけるように。
彫り終えた文字を指でなぞると、まだ荒削りな木のささくれが、はるとの指先から血を奪った。
「……はあ、……はあ、……っ」
はるとはその場に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。手のひらには、どす黒い鮮血が、月明かりに照らされて光っていた。
3. 弘道館:叶わない約束の埋設
水戸藩の藩校、弘道館。
ここは、二人が大学生の頃、初めてのデートで待ち合わせた場所だ。
あの日のなつの、寝坊して顔を赤らめて走ってきた姿。
髪に乗った梅の花びら。
その光景を、はるとは今でも網膜の奥に焼き付けている。
「いつか、沖縄に行きたいね。二人で、真っ青な海を見たい」
そう言って笑った弘道館の梅の木の下。
はるとは、ひっそりとした茂みに小さな穴を掘った。
土を掘る爪が剥がれそうになっても、構わなかった。
中に入れたのは、来年の八月――自分の命が尽きているであろう日付が刻まれた、沖縄行きのペア航空券。
そして、あきへの最後の手紙。
「……あき。お前が、俺の代わりになつを連れて行ってやれ。……俺が見せてやれなかった景色を、全部、お前が見せてやってくれ」
土を戻し、目印に小さな石を置く。
思い出の場所に、新しい記憶を「上書き」する作業。
それは、なつの記憶から自分を消去し、あきという存在を植え付けるための、あまりにも残酷な外科手術だった。
余命十ヶ月。
はるとの身体は、確実に終わりの時を刻んでいた。
けれど、彼の仕掛けた「愛という名の呪い」は、水戸の街の奥深くに、静かに、そして強固に根を張り巡らせていた。




