表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
超えられない季節(僕の心臓がとまるとき)  作者: 秋山 冬夏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/13

愛という名の冒涜

病院での余命宣告から、二週間が過ぎた。


水戸の街を彩っていた桜は、いつの間にか無残なほどに散り果て、アスファルトには泥にまみれた薄桃色の花びらが、無数の足跡に踏みにじられてへばりついている。

はるとにとって、その光景は自分自身の未来の縮図に見えてならなかった。


「はるとくん、今日もお仕事遅いの? 無理しないでね。最近、顔色も悪いし……」


朝の食卓、なつが心配そうに覗き込んでくる。

彼女が丹精込めて作った味噌汁の湯気が、はるとの顔を優しく包む。

かつては世界で一番愛おしかったはずのこの温もりが、今は自分の心臓を締め上げる、逃げ場のない絞首刑の縄のように感じられた。


「……ああ、プロジェクトが大詰めなんだ。夕飯はいらないから、先に寝ててくれ」


はるとは、なつの瞳を一度も見ずに、冷え切ったトーストを喉の奥に押し込んだ。


「……はるとくん? 私、何か怒らせることしたかな。最近、全然目も合わせてくれないし……」


なつの声が微かに震える。

その震えを止める権利は、もう自分にはない。


「……しつこいな。ただ疲れてるだけだって言ってるだろ。仕事の話、家でするの嫌なんだよ」


あえて乱暴に椅子を弾き、背中を向けて家を出る。

ドアが閉まる鈍い音。

なつの押し殺したすすり泣きが、薄い壁の向こうから聞こえた気がした。

階段を駆け下りながら、はるとは自分の胸を強く叩いた。激しい動悸が、肋骨を内側から突き破らんばかりに暴れている。

口の中に、鉄の味が広がった。


(これでいいんだ、なつ……。俺を嫌いになれ。優しい思い出なんて、今のうちに、一つ残らず捨ててくれ)


はるとの「仕掛け」作りは、人知れず始まった。

彼はあきに、なつの将来を託すための膨大な「指示書ノート」を渡し、並行して自分にしかできない作業を水戸の各地で行った。それは、二人の思い出の場所を巡り、一つずつ「愛」を「憎しみ」へと書き換えるための、孤独な葬列でもあった。


1. 備前堀:沈黙の石垣

江戸時代の情緒を残す備前堀。柳の葉が水面に触れ、涼しげな音を立てている。

ここは、二人が一度だけ、本気で別れを意識するほどの大喧嘩をした場所だ。

原因は、はるとの些細な、けれどなつにとっては重大な隠し事だった。なつは


「嘘をつかれるのが一番悲しい。隠し事なんてしないで」


と泣きじゃくり、その拍子に、大切にしていたアンティークのキーホルダーを堀沿いの石垣の中に落としてしまったのだ。


あの時、なつは


「不吉だ、私たちの仲もこれで終わりだ」


と数日間落ち込んでいた。はるとは、実は翌朝、夜明けと共に一人でそこを訪れ、石垣の隙間に挟まっていたそれを見つけ出していた。

けれど、仲直りのきっかけを逃し、謝りそびれたまま、そのキーホルダーはずっとはるとの机の奥で眠り続けていた。


はるとは、震える指先でそのキーホルダーを防水ケースに入れ、再びあの石垣の隙間に戻した。

指先で、ひんやりとした石の感触を確かめる。冷たい石の拒絶が、今は心地よかった。


(なつ、探し物は、ずっとここにあったんだ。……でも、これを見つけるのは、僕じゃないんだよ。あきが君をここに連れてきた時、僕はもう、この世にいない)


その隙間のさらに奥に、彼は一通のメモを押し込んだ。


『あき、このキーホルダーを見つけた時、なつはきっと泣く。その涙を拭うのは、俺じゃない。お前だ。お前が、彼女の新しい笑顔を作ってくれ』


2. 千波湖:三番目のベンチの刻印

水戸のシンボル、千波湖。


湖畔の三番目のベンチは、二人の「作戦会議室」だった。

結婚したらどんな家に住みたいか、子供の名前は何にするか。

なつはいつも、ここで楽しそうに未来を語っていた。


「私ね、はるとくん。おばあちゃんになっても、このベンチで一緒に白鳥を見ていたいな」


はるとは、人気のない夜の千波湖にいた。

ベンチに座り、なつがいつもそうしていたように、背もたれの縁を指でなぞる。なつは考え事をするとき、無意識にこの木材の感触を確かめる癖がある。


彼はポケットから小さな彫刻刀を取り出した。


(ごめん、なつ。……君がなぞる場所に、呪いを残していくよ)


彼はベンチの裏側に手を回し、刃先を木に突き立てた。

ガリッ、と硬い音が夜の静寂に響く。

一文字刻むごとに、心臓を直接針で刺されるような激痛が走る。

息を止める。

脂汗が額を伝い、地面に落ちる。

木片が飛び散り、指先に刺さる。

その痛みすら、なつへの罪悪感に比べれば微々たるものだった。

彼は狂ったように、自らの命を削り出すように、文字を彫り続けた。


『Summer never ends(夏は終わらない)』


なつの名前の由来であり、彼女の命そのものである「夏」。

自分の死によって、彼女の時間が永遠に止まってしまわないように。


あきという「秋」が、彼女の「冬」を支え、また新しい「春」へと繋いでいけるように。


彫り終えた文字を指でなぞると、まだ荒削りな木のささくれが、はるとの指先から血を奪った。


「……はあ、……はあ、……っ」


はるとはその場に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。手のひらには、どす黒い鮮血が、月明かりに照らされて光っていた。


3. 弘道館:叶わない約束の埋設

水戸藩の藩校、弘道館。

ここは、二人が大学生の頃、初めてのデートで待ち合わせた場所だ。

あの日のなつの、寝坊して顔を赤らめて走ってきた姿。

髪に乗った梅の花びら。

その光景を、はるとは今でも網膜の奥に焼き付けている。


「いつか、沖縄に行きたいね。二人で、真っ青な海を見たい」


そう言って笑った弘道館の梅の木の下。

はるとは、ひっそりとした茂みに小さな穴を掘った。

土を掘る爪が剥がれそうになっても、構わなかった。

中に入れたのは、来年の八月――自分の命が尽きているであろう日付が刻まれた、沖縄行きのペア航空券。

そして、あきへの最後の手紙。


「……あき。お前が、俺の代わりになつを連れて行ってやれ。……俺が見せてやれなかった景色を、全部、お前が見せてやってくれ」


土を戻し、目印に小さな石を置く。


思い出の場所に、新しい記憶を「上書き」する作業。

それは、なつの記憶から自分を消去し、あきという存在を植え付けるための、あまりにも残酷な外科手術だった。


余命十ヶ月。


はるとの身体は、確実に終わりの時を刻んでいた。

けれど、彼の仕掛けた「愛という名の呪い」は、水戸の街の奥深くに、静かに、そして強固に根を張り巡らせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ