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超えられない季節(僕の心臓がとまるとき)  作者: 秋山 冬夏


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2/13

地獄の盟約

その夜、水戸駅北口の、銀杏並木が続く通りを抜けた先。


古びた赤提灯が揺れる居酒屋『磯吉』の暖簾を、はるとはくぐった。

店内に満ちる焼き鳥の煙、安酒の匂い、仕事帰りの男たちが吐き出す濁った愚痴と笑い声。

昨日までなら、それらは人生の活力の象徴だった。

しかし今は、それらすべてが、吐き気を催すほどに苦々しく、遠い。


「おーい、はると!遅せえよ、何回生ビール追加したと思ってんだ!」


奥の座敷で、あきが豪快にジョッキを空けていた。

中学時代からの腐れ縁。建設現場で荒々しく働くあきは、いつも土と太陽の匂いがする、逞しく、そして誰よりも誠実な男だった。

不器用だが、仲間のためなら平気で泥をかぶれる。

そんな男であることを知っているからこそ、はるとは彼を選んだ。


「悪い、あき。……ちょっと、大事な話があってな」


はるとは、あきの正面に腰を下ろし、運ばれてきたウーロン茶のグラスを見つめた。

氷がカランとぶつかり合う音さえ、自分の心臓が内側から崩れていく音のように聞こえてならない。


「あき。……俺、死ぬんだってさ。あと一年だって」


あきのジョッキを持つ手が、空中で凍りついた。

冗談だろ、と笑い飛ばそうとして、あきははるとの瞳を見た。

そこには、死そのものを見た者だけが宿す、凍てついた静寂があった。あきは、ゆっくりとジョッキを置き、はるとが差し出した診断書を手に取った。


「……は?……おい、はると。何の悪い冗談だよ。一ヶ月前のキャンプでも、あんなに重い荷物運んでただろ」


あきの声が、小刻みに震え始める。

診断書に記された無機質な記号と余命の数字。それを追うごとに、あきの顔から血の気が引いていくのがわかった。


「……一年?……そんなの、そんなのありえねえだろ!」


あきの怒鳴り声に、周囲の客がぎょっとしてこちらを向いた。

しかし、あきは構わずに叫び続けた。

その大きな目には、もう涙が溜まっている。


「あき。……なつを頼みたいんだ。俺が死んだ後、あいつが一人にならないように」


「……当たり前だろ! 友達だろ! そんなこと、わざわざ言われなくたって……」


「違うんだ」


はるとは、あきの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「俺は、あいつに嫌われて死ぬ。……『浮気をして、別の女のところへ行った最低なクズ』として、なつの記憶から消えたい。なつの愛を、俺への恨みに書き換えなきゃいけないんだ。そうしないと、あいつは俺の死から立ち直れない」


はるとは、テーブルの下で膝を固く握りしめた。


「あき。お前が必要なんだ。お前は何も知らなくていい。

ただ、その時が来たら、俺の浮気の現場を『偶然』見つけて、なつに伝えてやってほしいんだ。そして、なつと一緒に、俺を罵倒してほしい」


「……ふざけんな!」


あきが立ち上がり、はるとの胸ぐらを掴み上げた。

ジョッキが倒れ、冷たいビールがテーブルを濡らしていく。


「俺に、お前を売れってのか? なつに一生の嘘をつけってのか! お前は、なつをバカにしてるのかよ!あいつがお前をどれだけ想ってるか、一番知ってるのはお前だろ!それを俺になすりつけるのかよ!」


「あいつを、俺と一緒に殺したくないんだ!」


はるとも、絞り出すような絶叫で応じた。初めて、感情が決壊した。


「俺が病死したなんて知ったら、なつは一生、その影を背負って生きていくんだ! 毎日仏壇の前で泣いて、自分の若さを捨てて、俺の死を供養するだけの人生になる。そんなの、愛じゃないだろ! ……それなら、俺を最低なクズだと思って、新しい恋をして、前を向いてくれた方がいいんだ。あき、お前なら、あいつを笑わせられる。俺の代わりに……あいつと季節を越えてやってくれ……頼む……」


あきの手から、力が抜けていく。

あきは、嗚咽を漏らしながら崩れ落ちるように座り直した。

居酒屋の片隅で、二人の男は肩を震わせて泣いた。周囲の喧騒が、遠い砂嵐のように鳴り響いていた。


「……呪ってやるよ、はると。……お前も、自分も。一生、この嘘を墓場まで持っていく。……わかったよ。お前の地獄に、俺も付き合ってやる」


窓の外には、水戸の街を走る銀河のような夜景が広がっていた。

しかしその光は、はるとにはもう届かない。

止まることのない砂時計の砂が、静かに、確実に、二人の足元を埋め始めていた。

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