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超えられない季節(僕の心臓がとまるとき)  作者: 秋山 冬夏


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心音(しんおん)の砂時計

県立中央病院の診察室。

その扉を隔てた瞬間、世界から一切の色彩が失われたかのような錯覚を、はるとは覚えた。


室内に漂うのは、鼻の奥を刺すような消毒液の匂いと、空調の微かな稼働音。

窓の外では、四月の瑞々しい陽光が中庭の芝生を青々と照らし、風に揺れる木々が穏やかな午後の訪れを告げている。

あまりに無垢な外景と、この部屋を支配する死の気配。その絶望的なまでの断絶に、はるとは激しい眩暈を覚えた。

自分の輪郭が、足元から崩れていくような感覚だった。


「……落ち着いて聞いてください、はるとさん」


初老の医師、佐藤の声は、どこか遠い銀河の彼方から届く残響のように聞こえた。

デスクに並べられた数枚のレントゲン写真。

そこには、はるとの胸に巣食う「怪物」が写っていた。

本来あるべき規則正しいリズムを失い、自らの重みで歪に膨れ上がった心臓。

それは、彼自身の若さと未来を食い潰して肥大した、呪わしい果実のように見えた。


「肥大型心筋症。それも、通常では考えられない速度で進行しています。あなたの心臓は、今、自らの重みで自らを押し潰そうとしている状態です。壁が厚くなりすぎたために、血液を送り出すスペースが物理的に消失しつつある。……余命は、持って一年。上手く騙せたとしても三年は生きれないでしょう」


医師がようやく顔を上げた。

その瞳には、憐れみすら削ぎ落とされた、冷徹な事実だけがあった。

医師としての誠実さが、逆に残酷な刃となってはるとの胸を切り裂く。


「明日、この部屋を出た瞬間に心臓が止まったとしても、私たちはそれを『医学的な想定内』と呼ぶしかありません。今日この瞬間から、あなたの人生は『安静』という名の檻の中に入ります。激しい運動はもちろん、強い感情の起伏、興奮、深い悲しみ――そのすべてが、あなたの命を直接削る行為になります。わかりますか。あなたは、生きるために、心を殺さなければならない」


「……一年、ですか」


はるとの声は、自分でも驚くほど冷めていた。もっと叫び出したかった。嘘だと言って笑ってほしかった。

しかし、喉の奥が石膏を流し込まれたように固まり、感情が音を立てて死んでいく。


診察室を出ると、廊下を歩く自分の足音がやけに大きく、卑屈に響いた。

すれ違う看護師の話し声、遠くで泣き叫ぶ子供、車椅子が床を刻む規則的な振動。

そのすべてが、はるとにとっては「生」の世界からの疎外感となって襲いかかる。昨日まで自分もその輪郭の中にいたはずなのに、今は透明な膜一枚を隔てて、死という深淵に一人で立ち尽くしている。


(なつ……)


脳裏に浮かぶのは、恋人・なつの、太陽のような笑顔だった。

彼女は、はるとが生きる理由そのものだった。

去年の夏、大洗の海で


「はるとくん、来年も絶対だよ!」


と小指を絡めてきた彼女の、その無垢な期待。海風に揺れる髪の匂い、指先の温もり。

そのすべてを、自分はたった今、裏切ることになったのだ。


病院の駐車場。

愛車のハンドルを握りしめると、シートに残ったなつの香水の香りが鼻を突いた。

甘く、どこか切ない花の香り。

それが、今の彼には毒薬のように感じられた。


彼女は、真っ直ぐで、そしてあまりに脆い。

自分が病気で衰弱し、日に日に光を失っていく姿を間近で見せれば、彼女は一生、その悲しみの檻から出られなくなるだろう。

彼女は優しい。

優しすぎるからこそ、自分を救えなかった不甲斐なさを一生背負って、ボロボロになっていく。


(そんなの、死んでも嫌だ)


自分の死という事実以上に、彼女の人生がそこで止まってしまうことが恐ろしかった。

彼女の「夏」を、自分のせいで終わらせたくない。たとえ、どれほど残酷な手段を使っても。


「……なら、俺を嫌いになればいい。俺を、最低の男だと思って、忘れてくれればいい。……憎しみの力でいいから、彼女を前へ進ませなきゃいけないんだ」


ハンドルを握る指先が、白くなるほど強まった。

それは、愛という名で包んだ、神様ですら許さないような「地獄の救済」の始まりだった。

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