3-4話 ほう!!値段は!!
俺は、両手に黒い手袋をはめたまま、拠点の中を歩き回っていた。
石垣に触れた。何も起きない。
崩れかけた建物の木材を触った。何も起きない。
地面を思い切り踏みしめた。関係ないか。
「最高だ〜!!」
誰も聞いていないのに、呟いた。
これまで、何かに触れるたびに、心のどこかで身構えていた。集落に行く時も、荷物を運ぶ時も、寝る時でさえも。
それが、なくなった。
ただ、それだけのことなのに。
「神、本日もお勤めご苦労様でち」
御座衆の小鬼が一体、深々と頭を下げながら通り過ぎた。
「ありがとう……俺、今日もフル稼働だぞっ♪」
「おおでち」
小鬼は軽く拍手した後、涼しい顔で去っていった。
まず、拠点の中を一通り見て回ることにした。
これまでは、なんとなく全体像を把握していたつもりだったが、手袋をはめて"触れても大丈夫"な状態で歩き回ると、見え方が全然違う。
崩れた石垣を手で押してみると、意外としっかりしている部分と、触れただけで崩れそうな部分がある。
井戸の石組みに手を当てると、まだ使えそうだと分かった。
棚田の跡を踏み歩くと、土の具合が場所によって全然違う。水が通っていた跡、そうでない跡。
「……御座」
「はい、殿」
御座が、静かにやってきた。
「この棚田、使えそうな場所と、そうでない場所がある。一緒に確認してくれるか」
御座は、少しだけ間を置いた。
「……殿が、ご自身で確認されたのですか」
「ああ!皆んなにばかり、任せておけないさ」
御座が、静かに頭を下げた。
「……承知しました。ご案内いただけますか」
俺は、御座を連れて棚田の跡を歩いた。
踏みしめた土の感触、手で掘り起こした時の湿り気、水が流れていた溝の深さ。一つ一つ確かめながら進む。
「ここは使えそうだ。 ここは難しいかもしれない」
御座は、俺の言葉を一言も逃さず聞いていた。
「……殿」
「なんだ?」
「良い顔をしておられます」
褒め言葉、なのかな。まあ、悪い気はしない。
夕方、拠点に戻ると、柵が筋肉をバキバキに膨らませながら出迎えた。
「殿!!今日は大型の獣を三頭仕留めたぞ!!」
「お疲れ、柵」
「殿も今日はお疲れのようですね!!どこへ行かれたので!!」
「棚田の視察さ!」
「おお!!さすが殿!!!」
なぜそこで感動するのか。
鍬が、川の方向から戻ってきた。
「殿〜!今日の魚、特大っすよ〜!」
「よくやったな!」
「あ、殿、手袋してるっすね〜。いつから?」
「昨日からさ!」
「似合うっすね〜!」
大樹が、蔦をぶわりと広げながら言った。
「主よ!!その手袋、我も気になっていたぞ!!どこで手に入れた!!」
「集落の露店で!」
「ほう!!値段は!!」
「……聞くな」
大樹が、蔦をもじもじさせた。
「……そうか」
なぜか察した顔をしている。こいつ、意外と空気読むな。
夜、焚き火の前で、俺は手袋を眺めた。
黒くて、少し厚みがある、ごく普通の手袋。
でも。
これをはめている間、俺は——普通の人間でいられる。
石を触っても、木を触っても、土を触っても、何も起きない。
当たり前のことが、当たり前にできる。
それがこんなに、嬉しいとは思わなかった。
「殿」
御座が、隣に来た。
「なんだ」
「本日の視察、大変助かりました。棚田の整備、優先順位を立てることができます」
「そうか」
「それと」
御座は、少し間を置いた。
「手袋を手に入れたことで、殿の行動の幅が大きく広がるかと思います。ただ」
「ただ?」
「手袋は、あくまで補助です。殿の力の本質は、まだ誰も——殿自身も——理解しきれていない」
俺は、手袋を握りしめた。
「……分かってる」
「はい」
御座が、静かに伏せた。
焚き火が、ぱちぱちと音を立てている。
手袋の下の手のひらを、俺はそっと見つめた。
「マ」。
たった一文字。俺はまだ、何も分かっていない。
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