1.商会の日常
王都の商工会議所の事務室で、エミリーは帳簿をめくっていた。
数字も、日付も、記入者の印も――すべて整っている。
それをもう一度だけ目で追い、彼女は静かに息を吐いた。
今日も、問題はない――そう判断して、帳簿を閉じる。
「終わったの?」
声をかけてきたのは、隣の席のソフィアだった。
ふわりと香水の匂いが漂う。
彼女は華やかな巻き髪を揺らしながら、椅子の背にもたれかかっている。
「はい。本日分の整理はすべて」
「相変わらずねぇ。真面目というか、堅いというか」
くすり、と笑われる。
悪意があるわけではない。
ただ、少し面白がっているだけだ。
「もう少し肩の力を抜いたら? 帳簿なんて、あとで辻褄を合わせればいいのに」
「……いえ、それでは意味がありませんので」
エミリーはそう答え、再び机の上に視線を落とした。
その反応に、ソフィアは小さく肩をすくめる。
「そういうところよ。面白くないの」
ひらひらと手を振って、彼女は立ち上がった。
「私、今日はもう帰るわ。今夜はライオット伯爵邸の夜会に呼ばれているのよ。早く帰ってお洒落しなくちゃ」
軽やかな足取りで部屋を出ていく。
残されたのは、紙とインクの匂いだけだった。
エミリーは静かにペンを取り直す。
先ほど整理した帳簿とは別に、小さな控え帳を開いた。
今日の納品数、支出、受領印――。
一つずつ、丁寧に書き写していく。これは、誰に頼まれた仕事でもない。
ただ、自分のための記録だった。
(原本の差し替えがあったときにも、元の控えがあれば比較ができますものね)
それだけの理由で、続けている。
「おい、エミリー」
低い声に顔を上げると、上司の男が立っていた。
帳簿の束を片手に、少し面倒そうな顔をしている。
「このへんの整理、全部やっておけ」
どさりと机に置かれたそれは、まだ手もつけられていない書類だった。
「本日分はすでに――」
「いいから、やれ」
言葉を遮られる。
「お前はそういう細かい仕事だけ、していればいいんだ」
それだけ言うと、男はさっさと踵を返した。
追加の説明も、確認もない。
エミリーは一瞬だけ手を止めた。
男の言葉が胸の奥にほんのわずかに引っかかる。
(――“だけ”、なのですね……)
だが、すぐにペンを持ち直す。
「……承知しました」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
(今は、”だけ”でも構いません)
部屋の奥ではそんなエミリーの様子を見た職員たちが談笑していた。
「ソフィア嬢、今日も侯爵邸の夜会に呼ばれたんだって?」
「あの子は華があるからな。帳簿ばっかり見ている、地味な娘じゃない」
「せっかく王都に娘を送り出したのに、夜会にも行かず、紙ばっかり見ているんじゃ、親御さんもがっかりだろ」
「まあ、俺たちは助かるけどなあ。安い金でよく働いてくれて。――嫁に行かず、ずっとここで俺のために働いてくれ……」
ごほっごほっと大袈裟に咳き込むような真似。
「お前、小説に出てくる”故郷の病気の父親”かよ」
そんなツッコミに笑い声が上がる。
視線を感じながらも、エミリーは顔を上げなかった。
聞こえていないふりをすることには、慣れていた。
新しく渡された帳簿を開く。
並んだ数字は、雑に書かれた跡も多い。
――インクのにじみ、消し跡、書き直し。
伝票と照合しながら、それらを一つずつ整えていく。
誤差があれば確認し、足りなければ補う。
――それが、エミリーの仕事だった。
(……正しく記録する)
それだけは、誰にも任せられない。
ふと、視線の端に、乱れた書類の束が入る。
誰も触れていないそれを見て、エミリーは椅子から立ち上がった。
紙を揃え、順番を整え、必要なものと不要なものを分ける。
自然と手が動く。
そうして整えられた机の上は、どこか静かだった。
誰も褒めない。誰も気づかない。
――それでも、仕事は減っていく。
エミリーはペンを走らせながら、ふと考える。
(……今は、それで、いいのだと思います)
自分が目立つ必要はない。
正しく動いていれば、それでいい。
それが、仕事だから。
「――できました」
帳簿が整う頃には、外は暗くなっていた。
整然と並べられた紙の束を見て、エミリーは微笑み、満足感に浸る。
ほとんどの職員が既に帰宅していた。
職場を出て、暗い道を帰り、裏通りに間借りしている我が家に帰宅する。
小さなキッチンでパンを温めスープに火を入れ夕食を食べ、ベッドに入る前に、エミリーはランプに火をつけ、机に向かった。
『お父様、お母様、お兄様。お元気ですか?
私は元気にしております。今日、同僚のソフィアに誘われて、ライオット伯爵邸の夜会に行ってまいりました……』
故郷の家族への手紙だった。エミリーの実家は、地方で地主をしている。
王都で娘が仕事をすることを両親が承諾したのは、王都にいる官僚貴族と娘が懇意になることを期待してのことだというのを、エミリーもわかっていた。
だから今日の職員の会話を思い出し、筆をとったのだ。
たまにこうした連絡を入れておけば、両親からの“成果がないなら戻ってきて、見合いをしろ”という催促を遠ざけることができる。
「――だって、私は、まだ、帳簿をつけていたいのですから」
王都の商工会議所の帳簿は、エミリーにとっては宝箱のように見えた。
海を渡って異国から届いた高価な香辛料や工芸品、貴族の夜会に招かれる楽芸師に払われる対価。地元では見ることのない、さまざまな物の動きが一冊の帳簿の中に詰まっている。
誰がそれを買ったのか、想像しながら整理し、記録していく。
それは壮大な劇を演出する監督になったような気持ちで、エミリーにとって至福の時間だった。
だが――そのとき、エミリーはまだ知らなかった。
この帳簿の中に、“ただの誤差”では済まされないものが混ざっていることを。
――それが、誰かの失敗ではなく。
意図的に作られた“ズレ”であることに、ただ一人、気づいてしまうことを。




