第6話 一緒に空を飛ばねえか?
「で、これからどうするんだよ?」
家へ戻って最初に聞かれた言葉が、それだった。
知らん。
俺が聞きたい。
町から東へ延びる街道を歩き、途中で何度か妙な沈黙を挟み、村へ入ったところでは顔見知りの婆さんから「あらロウさん、今日は随分と綺麗な人を連れてるねえ」と意味深な笑顔を向けられ、さらに家の前まで来たところで隣家の子供がリゼルを指差して「あの赤い人、前に畑壊した人だ!」と大声で過去の罪状を暴露してくれた結果、俺の精神は帰宅した時点ですでに午前の仕事を一日分終えたくらい疲れていた。
そんな状態で、これからどうする、と聞かれても困る。
「どうするって……」
俺は靴を脱ぎながら振り返った。
リゼルは勝手知ったる他人の家とでも言わんばかりに中へ入り、壁へ立て掛けていた剣を邪魔そうに避け、そのまま居間へ向かっている。
いや、お前の家じゃないぞ。
何度か押しかけてきたことはあるにせよ、そこまで堂々と入っていい許可を出した覚えはない。
「俺は普通に生活するけど」
「普通に?」
「ああ」
「この状況で?」
「この状況だからこそだよ」
俺は戸棚から湯飲みを二つ出した。
朝から散々振り回され、昨夜の件については思い出したくもない情報を聞かされ、自分自身へ向ける信用まで大暴落している今こそ、必要なのは日常である。
湯を沸かす。
茶を淹れる。
畑を見る。
土を触る。
鶏に餌をやる。
夕方になったら飯を作る。
人間、混乱した時ほど生活の手順へ戻るべきなのだ。
前世でも仕事で大事故が起きた日は、とりあえず机の上を片付けてコーヒーを淹れるところから始めていた。
現実逃避ではない。
儀式である。
「ほら」
俺はリゼルの前へ湯飲みを置いた。
「茶」
「酒じゃねえのか」
「朝から飲むな」
「もう昼前だろ」
「昼前でも飲むな」
「細けえな」
「昨夜のことを忘れたのか」
「覚えてるから言ってんだよ」
俺は黙った。
負けた。
この話題では、しばらく俺に勝ち目がない。
リゼルは湯飲みを手に取り、中身を覗き込んだあと、あからさまに期待外れという顔をしながら一口飲んだ。
「薄い」
「茶というのはそういうものだ」
「酒ならもっと味がある」
「比較対象がおかしい」
「せめて蜂蜜入れろよ」
「自分で入れろ」
「客だぞ?」
「押しかけてきた客な」
そこまで言って、俺はふと手を止めた。
押しかけてきた。
そう。
こいつは俺が連れてきたのではない。
本人が「逃げないように見張る」と言って勝手についてきたのである。
そして今。
リゼルは俺の家の椅子へ深く腰を下ろし、脚を組み、完全にくつろいでいる。
まさか。
「……お前」
「あ?」
「ここに居座るつもりじゃないよな?」
リゼルは湯飲みを口元へ運びながら、俺を見た。
「なんで?」
「なんでじゃない」
「別にいいだろ」
「よくない」
「部屋余ってんじゃん」
「そういう問題じゃない」
「飯くらい自分でどうにかする」
「そこでもない」
「風呂も勝手に借りる」
「もっと駄目だ」
「じゃあ何が問題なんだよ」
全部だよ。
俺は額を押さえた。
一晩とんでもないことがあったらしい男女が、翌日から同じ家で暮らし始めたら、周囲からどう見えるかくらいこいつにも分かるだろう。
いや。
分からないかもしれない。
空賊だし。
「お前、船はどうするんだ」
「あいつらなら勝手に飛んでる」
「船長不在で?」
「副長いるし」
「お前いなくても成立してるじゃないか」
「うるせえ」
少し傷ついた顔をした。
そこは気にするのか。
「そもそも責任って何なんだよ……」
俺は小さく呟いた。
朝からそこだけがずっと分からない。
責任を取れ。
逃げるな。
家までついていく。
昨夜の件を考えれば、俺が何らかの形で向き合う必要があるのは理解している。
理解しているのに、リゼル本人が具体的に何を求めているのかがまるで見えない。
結婚しろというわけではない。
金でもない。
謝罪だけでもなさそうだ。
一緒に暮らせという話でも、今のところ本人から明言されていない。
なら何だ。
俺は何をすれば正解なんだ。
「……とりあえず畑仕事していいか?」
俺は妙に低姿勢で尋ねた。
なぜ自分の家で、自分の仕事をする許可を他人へ求めているのか分からない。
リゼルは椅子へ座ったまま、片手を雑に上げた。
「勝手にしろ」
「俺の家なんだけどな」
「だから勝手にしろって」
「お前が言うのか……」
まあいい。
畑へ行こう。
土は俺を裏切らない。
昨日の俺がどれだけ酔っ払って妙なことをしていても、畑は「責任取れ」とは言わない。
水が足りなければ葉が萎れる。
肥料が足りなければ育ちが悪くなる。
実に分かりやすい。
俺は納屋から鍬を取り出し、裏手の畑へ向かった。
空は晴れている。
風も弱い。
土の湿り具合も悪くない。
昨日一晩空けただけなので大きな問題はなさそうだったが、南側の畝だけ少し乾いていたため、まず水路を開けることにする。
鍬を土へ入れる。
ざく。
もう一度。
ざく。
いい。
落ち着く。
この音だ。
人間関係に疲れた時ほど、鍬が土へ入る音は心に優しい。
問いかけてこない。
責めてこない。
昨夜の記憶を要求してこない。
「……最高だな」
「何が?」
「うわっ!」
真後ろから声がして、俺は鍬を落としかけた。
振り返る。
リゼルがいた。
「お前、いつからそこにいた」
「今来た」
「気配消すなよ!」
「消してねえよ」
「空賊ってもっと足音うるさいだろ!」
「どんな偏見だ!」
俺は胸を押さえた。
本気で驚いた。
この歳になると急な驚きは心臓に悪い。
「何しに来たんだ」
「暇」
「知らん」
「何もねえな、ここ」
「だから言っただろ」
家が一軒。
その前に畑があり、少し外れたところに井戸と納屋があって、その隣には鶏小屋。さらに歩けば小さな林へ入り、その向こうには村へ続く道が伸びている。
俺の生活圏というものは、だいたいそれで全部だった。
芝居小屋もなければ、賭場もない。毎晩騒げる酒場など当然なく、村の市場が開くのも週に二度だけで、日が沈めば家々の明かりまで早々に消えていく。
その代わり、夜になると星がよく見えた。
雲さえなければ天の端まで見渡せるほどで、季節が変われば昇ってくる星座の位置まで少しずつ変わる。
俺にとっては、これ以上ない環境である。
もっとも、リゼルに言わせれば拷問施設と大差ないらしい。
「なあ、お前さ」
畑の端で鍬を振るっていた俺の後ろから、呆れたような声が飛んできた。
「毎日ここで何してんだ?」
「見れば分かるだろ。畑仕事」
「いや、それは見りゃ分かるよ。そうじゃなくて、畑以外」
「鶏の世話」
「ほか」
「飯を作る」
「ほか」
「本を読む」
「まだあるだろ」
「寝る」
そこでリゼルは黙った。
何かを待つようにこちらを見ている。
「……終わり?」
「終わり」
「嘘だろ」
「何がだよ」
「人間の一日って、もっとこう……色々あるだろ。遊びに行くとか、飲みに行くとか、誰かと騒ぐとか」
「色々やった結果、こういう生活に落ち着いたんだよ」
俺は土へ刺していた鍬を抜き、肩へ担ぎ直した。
前世から数えれば、もう十分すぎるほど「色々」はやっている。
人の顔色を窺い、意味の分からない数字に追われ、締め切りを気にしながら食事を済ませ、こちらに非がなくても頭を下げ、金を稼いでは物を買い、その買った物を使う時間すらなく、ようやく来た休日には疲れ切って一日眠って終わる。
忙しいことそのものを、人生が充実している証拠だと勘違いするような時間を、嫌というほど経験した。
だから今は、これくらいでいい。
土に触れる。
腹が減ったら飯を食う。
夜になれば眠る。
春に種を播き、夏に水を見て、秋に収穫し、冬になれば土を休ませる。
それだけで十分だった。
「……つまんなくねえの?」
「全然」
「だって毎日ほとんど同じだろ」
「同じじゃない」
「どこが?」
俺は鍬の先で、足元の畝を軽く示した。
「昨日より土の表面が少し白い」
「白い?」
「乾いてるってことだよ。この辺の土は水を含むと色が濃くなる。表面だけ乾いて中に湿り気が残ってるなら、まだ水を足さなくてもいいけど、指を二、三センチ入れてそこまで乾いてるなら灌水したほうがいい」
リゼルが俺の指した場所を睨む。
本当に睨んでいる。
「……全部ただの茶色に見える」
「慣れれば分かる」
「ほんとかよ」
「葉の色だってそうだ。水が足りなければ張りがなくなるし、窒素が足りなければ古い葉から薄くなる。逆に肥料をやりすぎれば葉だけ妙に濃くなって、今度は実がつきにくくなることもある」
「待て待て。畑ってそんな面倒なのか?」
「生き物だからな」
俺は豆の株を一本摘まみ、葉の裏を見せた。
「虫も毎日同じじゃない。気温が上がれば増えるやつもいれば、乾燥すると出やすいやつもいる。風向きが変われば飛んでくる虫の種類まで変わる。昨日と今日で景色が同じに見えても、中身は結構動いてるんだよ」
リゼルはしばらく葉を眺めたあと、素直に首を振った。
「……分かんねえ」
「だろうな」
「今ちょっと馬鹿にした?」
「してない」
「口元がしてたぞ」
「気のせいだ」
実際、少しだけしていた。
そのあと俺は水路の堰を開き、流れ込む水量を確かめた。
水は多ければいいわけではない。
根が呼吸できないほど土の隙間を水で埋めてしまえば、根腐れを起こす。反対に少なすぎれば、植物は葉から逃げていく水分を補えず、生長そのものを止める。
要するに、水やりも「たくさん与える」仕事ではなく、土と根が必要としている量を見極める仕事だった。
その横で、リゼルが暇そうにしゃがみ込む。
「これ何?」
「豆」
「これは?」
「芋」
「これは?」
「大根」
「あ」
嫌な声だった。
「何だ」
「前にあたしが潰したやつ」
「思い出すな」
「でも美味かったよな、あれ」
「お前は食ってないだろ」
「あとで一本もらった」
俺の手が止まった。
「誰に」
「村の子供」
「……俺の畑から?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「持ってたから」
なるほど。
空賊より先に、村の子供による農作物の非公式流通経路を調査する必要が出てきた。
俺は何も言わず作業へ戻る。
雑草を抜き、畝の崩れを直し、風で傾いた支柱を起こす。畑を一通り見終えてから鶏小屋へ回ると、こちらに気づいた鶏たちが、餌の時間だと勝手に判断して騒ぎ始めた。
「お前、鶏にも名前つけてんの?」
「つけてる」
「どれがどれ?」
「あれがマル。隣がシロ。奥で砂浴びしてるのがゴン」
リゼルは三羽を交互に見た。
「全部茶色じゃねえか」
「顔が違う」
「同じにしか見えねえ」
「違う」
「どこが」
「目の周りとか、鶏冠の形とか、歩き方とか」
「そんなの覚えてんの?」
「お前だって船員を顔で見分けるだろ」
「そりゃ見分けるけど」
「それと同じだ」
「ああ、なるほど」
そこで納得するのか。
むしろ豆の話より早い。
リゼルは柵へ肘を置き、餌をついばむ鶏たちをぼんやり眺めた。
「……平和だな」
「そうだろ」
「ほんとに何も起きねえ」
「それがいい」
「でも、やっぱちょっと退屈じゃねえ?」
「退屈でいいんだよ」
俺は餌をもう一掴み撒いた。
「何も起きないって、結構な贅沢なんだぞ」
「そうか?」
「そうだよ」
病気にならない。
事故が起きない。
誰かと争わなくて済む。
今日の夕飯があり、明日の朝もたぶん普通に起きられる。
畑へ行けば昨日植えたものがそこにあって、鶏小屋を開ければいつもの連中が騒いでいる。
人間は刺激に慣れる生き物だから、何も起きない状態が続くと、それをすぐ「退屈」と呼ぶ。
だが、本当は逆だ。
日常が安定しているというのは、食料、水、治安、健康、人間関係、そのあたりが大きく崩れていないということでもある。
退屈を退屈として感じられる時点で、生活はそれなりにうまく回っている。
「明日も今日と似た日が来るって、保証されてるわけじゃないからな」
「……お前、たまに妙なこと言うよな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
リゼルはそれきり少し黙った。
珍しい。
「お前は?」
今度は俺から聞いた。
「何が」
「空にいる時、退屈しないのか?」
「する暇ねえよ」
「毎日そんなに何か起きるのか」
リゼルは指を折り始めた。
「帝国の船に追われる。魔物に襲われる。嵐に突っ込む。船員が喧嘩する。航路を間違える。食料が腐る。酒が切れる」
「最後だけ声が重かったぞ」
「一番大事だからな」
「お前たち、本当によく今まで生きてるな」
「楽しいぞ?」
「その感覚だけは分からん」
本当に分からない。
こいつから見れば、畑と家を往復する俺の生活など、理解不能なほど退屈なのだろう。
だが俺からすれば、わざわざ地面を離れ、墜ちたら死ぬ高さを飛び回り、帝国軍や魔物や嵐と付き合いながら暮らす理由のほうが理解し難い。
「なあ」
「ん?」
「何でそこまで空が好きなんだ?」
深い意味はなく聞いたつもりだった。
リゼルはすぐには答えず、柵へ置いていた腕を外して空を見上げた。
薄い雲が、ゆっくり西へ流れている。
「……広いから」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」
そう言った顔には、いつもの豪快な笑い方とは違う、小さな笑みが浮かんでいた。
「地面にいるとさ、道があるだろ」
「ああ」
「道だけじゃねえ。ここから先は領地だ、そこは国境だ、この橋を通るなら金を払え、町へ入るなら身分を見せろ、荷物を運ぶなら許可を取れって、どこへ行っても誰かが引いた線ばっかりだ」
俺は黙って聞いた。
言われてみれば、その通りではある。
地上の交通は、道に強く縛られる。
森や崖を好きに横切れるわけではないし、大きな川には橋が必要だ。街道があれば関所ができ、関所があれば管理する国や領主がいる。
移動経路が限られるからこそ、支配する側もそこを押さえれば人や物の流れを管理できる。
「でも、空には道がない」
リゼルが言った。
「少なくとも、地面みたいな線は見えねえ。船が飛べて、風を読めて、燃料と食料が持てば、山も川も関所もまとめて越えられる」
「帝国の巡空船に追われるけどな」
「それはそれ」
「かなり重要な問題じゃない?」
「細けえなあ」
「細かくない。たぶん命に関わる」
リゼルは笑いながら柵から身体を起こした。
「おっさん」
「何だ」
「前から思ってたんだけどさ」
嫌な予感しかしない。
「お前、その力があったら世界中どこでも行けるぞ」
「行かない」
「早えよ!」
「何回聞かれても同じだ」
「海の向こうは?」
「興味ない」
「浮遊大陸」
「ここでいい」
「竜の巣」
「絶対に嫌だ」
「魔王領」
「もっと嫌だ」
「じゃあ天界」
「神に用はない」
リゼルが両手で額を押さえた。
「夢がねえなあ、お前!」
「あるぞ」
「何だよ」
「今年の豆を去年より一割多く採る」
「小せえ!」
「堅実と言え」
俺は胸を張った。
世界征服より、豆の収量。
大陸制覇より、病害虫の少ない畑。
俺にとっては、そのほうがよほど切実で、しかも達成した時の満足感まで大きい。
「……ほんっと、変な奴」
リゼルが肩を揺らして笑った。
「それはこっちの台詞だ」
「なあ」
「今度は何だ」
軽口の続きを待っていたのだが、リゼルは少しだけ黙った。
さっきまでとは違う。
目が真面目になっている。
「お前、一回くらい見てみたくねえの?」
「何を」
「空の上から、この世界を」
俺はすぐには答えなかった。
高い場所そのものなら経験はある。
山へ登ったこともあるし、魔術で浮かび上がったこともある。上から地面を眺めれば、家や道が小さく見える程度のことなら知っている。
ただ、空船に乗り、地上から何百メートル、あるいはもっと高い場所を、何日も移動し続ける旅という意味なら経験がない。
「別に」
少し考えてから答える。
「地面からでも世界は見える」
「そういう意味じゃねえんだよ」
リゼルは首を振った。
「お前、ずっとここで暮らしてんだろ」
「悪いか」
「悪くねえよ」
俺は少しだけ眉を上げた。
以前なら、ここで間違いなく「そんな畑捨てろ」と言っていたはずだ。
「たださ」
リゼルは畑の向こうへ目を向ける。
「お前が守りたいって言ってるこの暮らしも、一回外から見たら、今までと違って見えるかもしれないだろ」
「……どういう意味だ」
「人ってさ、ずっと同じ場所にいると、それが普通になるじゃん」
珍しく言葉を探しながら、リゼルは続けた。
「良いところも、悪いところも、毎日見てると見えなくなる。船だってそうだよ。ずっと乗ってると狭いとか臭いとか気にならなくなるけど、一回陸に降りて戻ると『こんな狭かったっけ』って思う時がある」
なるほど。
慣れという意味なら理解できる。
人間の感覚は、同じ刺激が続けば反応を弱める。臭いでも音でも景色でも、最初は意識していたものを脳が「いつもの情報」と判断すれば、少しずつ注意の外へ追い出していく。
だから環境を変えると、それまで当たり前すぎて見えなかったものへ、もう一度気づくことがある。
「畑を捨てろって言ってんじゃねえ」
リゼルが言った。
その言葉には、少し驚いた。
「一生空賊やれとも言わねえ」
「じゃあ何だよ」
リゼルはこちらを向いた。
赤い髪が風を受け、頬の横で揺れている。
「一回だけでもいい」
言ってから少し照れたらしく、鼻の脇を指で掻いた。
「あたしと一緒に、空を飛んでみねえか?」
「…………」
答えが出なかった。
以前なら、考えるより先に断っていたはずだ。
嫌だ。
行かない。
畑がある。
それで終わり。
今だって、答えそのものはたぶん変わっていない。
変わっていないはずなのに、なぜか今日だけは、その三つの言葉がすぐ喉まで上がってこなかった。
「何だよ」
リゼルの口元がゆっくり持ち上がる。
「いつもなら、俺が言い終わる前に断るくせに」
「……考えてるだけだ」
「へえ」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「勝ったみたいな顔」
「してねえよ」
している。
ものすごくしている。
俺は逃げるように鍬へ視線を落とした。
畑。
家。
鶏小屋。
井戸。
どれも見慣れた景色で、俺がようやく手に入れ、できることならずっと守っていたいと思ったものだ。
そのすぐ向こうに、今まで必要ないと決めつけていた世界が広がっている。
そして隣には、その世界を文字通り飛び回ってきた女が立っている。
「……一回だけ、か」
思わず口に出すと、リゼルの笑みがさらに深くなった。
「そう。一回だけ」
「その台詞、酒の時にも聞いた覚えがあるんだよな」
「あ」
「一杯だけって言ったよな」
「……まあ、言ったな」
「結果は?」
「細けえことは忘れろ」
「そこ忘れたら駄目だろ!」
やっぱり信用ならない。
本当に信用ならない。
こんな奴の言う「一回だけ」ほど、統計的に信頼できない言葉も珍しい。
それでも俺は、しばらくしてから空を見上げた。
青い。
どこまでも広い。
畑のように畝はなく、村境の柵もなければ、ここから先は誰の土地だと知らせる杭も立っていない。
実際には風の層があり、高度によって向きも速さも違い、雲や気圧や魔力流まで読まなければまともな航行などできないのだろう。
つまり空だって、本当は何もない場所ではない。
見えない道がある。
ただ、その道は誰かが地面へ線を引いて作ったものではなく、風と天候を読みながら、自分で選んでいくものなのかもしれない。
「……返事、今じゃなくてもいいんだな?」
「ああ」
「なら、考える」
リゼルの目が丸くなった。
「マジで?」
「考えるだけだ」
「おお……」
「期待するなよ」
「してねえって」
「顔がしてる」
「してねえよ」
どう見てもしている。
俺は深く息を吐き、鍬を肩へ担いだ。
昨夜までなら、自分の生活へ余計な何かが入り込んでくること自体が嫌だった。
今だって面倒事は嫌いだ。
危険はもっと嫌いだ。
空賊船など、乗らずに一生を終えられるなら、そのほうが平和に決まっている。
なのに。
ほんの少しだけ。
本当に、笑って誤魔化せるくらいわずかなものだったけれど。
空の上から見たこの畑は、いったいどんな形をしているのだろう。
家と井戸と鶏小屋は、どれくらい小さく見えるのだろう。
そして、毎日歩いているこの場所を遠くから眺めた時、俺は同じように「ここでいい」と思うのだろうか。
そんなことを考えてしまった自分がいた。
これはきっと。
昨夜の酒がまだ残っているせいだ。
そういうことにしておこう。
少なくとも今のところ、俺はそれ以外の説明を採用するつもりはなかった。




