第5話 俺がそんな変態であるはずが…
四十年以上生きてきて、女性経験があまりない。
こう書くと、なんとも悲しい人生経験の乏しさを証明する材料の一つに見えるかもしれないが、それでもこれまでの人生を振り返ってみて、ひとつや二つ、女性という存在に心を乱され、畑の畝を作りながら全然関係のない顔を思い出したり、夜になって布団へ入った途端に昼間交わした会話をもう一度頭の中で再生したり、我ながら四十を過ぎて何をやっているんだと枕へ顔を埋めた時期がなかったかと言われれば、それは嘘になる。
そりゃ俺だって女性に興味はある。
枯れてはいない。
質素な暮らしを好み、朝は鳥より早く起き、日中は畑で土にまみれ、夕飯には豆と根菜を煮込んだ汁物があれば十分幸せだと感じる生活を送っているからといって、精神まで山奥で百年修行した仙人になったわけではない。
美人を見れば美人だと思う。
距離が近ければ意識する。
いい匂いがすれば、鼻という器官が正常に仕事をする。
柔らかい笑顔を向けられれば少しくらい嬉しい。
そこまで否定したら、それは無欲ではなく生物として何か大事な部分を畑に埋めてきた男である。
この前だって、酒の席で隣へ座った女騎士に「少し酔ったから肩を貸してくれ」と頼まれ、仕方なく宿まで送ることになったところ、途中から肩どころか腕へがっちり抱きつかれたまま夜道を歩く羽目になり、こちらが「歩きにくいんだが」と訴えても「私は騎士だから転倒防止のため必要な措置だ」と意味の分からない理屈で押し切られた。
その数日前には、俺が森で魔物に引っかかれて腕へ小さな傷を作ったというだけで、知り合いの聖女から「傷口から呪気が侵入している可能性があります」と治療を申し出られ、腕だけ診れば済むはずなのに肩だの背中だの胸元だのを妙に念入りに確認され、最終的には「念のため心音も」と耳まで押し当てられたため、俺が「それは本当に必要なのか?」と聞いたところ、「聖女の治療方針へ口を挟むおつもりですか?」という宗教権力を最大限悪用した反論まで食らった。
そのさらに前には魔導師の女から、「あなたの魔力回路をもっと近くで観察したい」という、字面だけなら非常に研究熱心なのに距離感だけが完全に研究倫理を置き去りにした申し出を受け、何をどう観察するのか尋ねたら、「まず上半身の衣服を脱いでください」と真顔で言われた。
俺は帰った。
その日は逃げるように帰った。
いや、待ってほしい。
こうして並べると、まるで俺が日常的に女性とよろしくやっている男みたいではないか。
違う。
断じて違う。
俺はそんな女たらしではないし、ましてや手当たり次第に女性へ鼻の下を伸ばすような変態でもない。
ただ少々――本当に少々、俺の持っている能力がこの世界の基準からすると珍しすぎるらしく、それに興味を持った女性がなぜか俺本人にまで興味を持ち、さらにその中の何人かが「好意」という言葉の一般的な安全圏を軽々と飛び越え、こちらが後ずさった分だけ前へ詰めてくるだけなのだ。
俺から行ったわけではない。
ここは非常に重要なので二度言いたい。
俺から行ったわけではない。
「……何ぶつぶつ言ってんだ?」
隣から声がした。
俺は我に返った。
町を出て、村へ続く街道を歩き始めてからしばらく経っている。
右手には麦畑。
左手には小さな林。
遠くには俺の暮らす村を囲む低い丘が見えており、普段ならこの辺りまで来るだけで「帰ってきたな」と肩から力が抜けるのに、今日は隣を歩く赤毛の女の存在が強すぎて、田園風景の癒やし効果がほとんど機能していない。
「いや、自分の人生について考えていた」
「朝っぱらから重てえな」
「お前のせいだよ」
「何でだよ」
「何でって……」
俺はリゼルを見る。
見た。
昨夜の話を思い出した。
前を向いた。
駄目だ。
まだまともに顔を見られない。
「……何だよ」
「いや」
「今、あたしの顔見て何か思っただろ」
「思ってない」
「嘘つけ」
「頼むから追及しないでくれ」
「気持ち悪いおっさんだな」
「誰のせいでこうなったと思ってる!」
「お前だろ」
「そうだった!」
またこれである。
何度責任の所在を確認しても、最終的に矢印が俺へ戻ってくる。
俺はため息を吐いた。
問題は昨夜の行為そのものだけではない。
リゼルの言っていることが、誇張も勘違いも記憶違いも一切なく、最初から最後まで漏れなく本当だったとすれば、俺は今後、ある意味で俺自身を信用できなくなるかもしれない。
酒に酔って記憶を失った。
ここまでは分かる。
前世でも経験したことはあるし、翌朝財布の中身を確認して「なぜこんなに減っている」と青ざめた程度の失敗なら何度かあった。
問題は、記憶のない俺が何を考え、何を思いつき、どういう発想の果てにあんなエンチャントを組み上げたのかという部分である。
俺には、そんな大それた趣味も趣向もない。
少なくとも自覚はない。
今までの人生で、あんな――。
「…………」
思い出した。
歩調が遅くなる。
いや。
ない。
絶対ない。
あんな発想を実行へ移そうと思ったことなど、一度もない。
普通に生きていて思いつくか?
いや、能力的に可能か不可能かだけで言えば可能なのだろう。
俺のエンチャントは自由度が高すぎる。
高すぎるからこそ普段は自分で制限している。
人間へ干渉する時は特に慎重になり、効果の目的、対象への負荷、持続時間、本人の意思、そのすべてを確認してから術式を組む。
その俺が。
酒を飲んだだけで。
あれを?
「いやいやいやいや」
「だから何なんだよ!」
「おかしいだろ!」
「何が!」
「俺がだよ!」
リゼルが足を止めた。
俺も止まる。
「……お前、ついに自分に文句言い始めたのか?」
「俺だって言いたくなる!」
街道の真ん中で、俺は自分の胸を指差した。
「お前の言ってることが本当なら、昨夜の俺は俺じゃない!」
「意味分かんねえよ」
「俺はそんな変態じゃない!」
「…………」
リゼルが黙った。
やめろ。
「何だ、その顔」
「いや」
「何だよ」
「別に」
「絶対何か思ってるだろ」
「思ってねえよ」
「じゃあこっち見ろ」
リゼルは横を向いた。
「おい!」
「うるせえな!」
「なぜ目を逸らす!」
「知らねえよ!」
「昨夜の俺を知ってるのはお前だけなんだぞ! 証人として責任を持て!」
「そんな責任まで押しつけんな!」
俺は頭を抱えた。
最悪である。
自分が変態ではないと証明したいのに、唯一の証人が昨夜の被害――いや、被害という言葉でいいのかも分からない――とにかく唯一事情を知る人物であり、その人物が俺の主張へ力強く同意してくれない。
「そもそも相手はお前だぞ?」
「……は?」
リゼルの声が低くなった。
しまった。
言葉を選び間違えた。
「いや、違う。悪い意味じゃない」
「じゃあどういう意味だ」
「お前は、その……」
俺はリゼルを上から下まで見る。
赤い髪。
鋭い目。
黒革の外套。
腰の曲刀。
腕を組んだ立ち姿から漂う、下手な魔物なら目が合った時点で逃げ出しそうな圧力。
「……強いだろ?」
「それが?」
「普通、怖いだろ」
「ぶっ飛ばすぞ」
「ほらそれだよ!」
俺は思わず指を差した。
「俺が言ってるのはまさにそれだ!」
「何がだ!」
「昨夜の俺は、なぜお前を相手にそんな大胆なことができたんだ!?」
「知るかよ!」
「俺も知りたいんだよ!」
悲しいことに、二人とも答えを持っていない。
俺は再び歩き出した。
リゼルも不機嫌そうに後ろからついてくる。
「酒か……?」
俺は顎へ手を当てた。
「単純に酒の影響で理性が外れた?」
「だいぶ酔ってたぞ、お前」
「それだけで人間はあそこまで変わるものなのか?」
「知らねえよ」
「何か別の要因があった可能性もあるな」
「別の要因?」
「ああ」
俺は昨夜の記憶を可能な限り掘り返す。
酒場。
ジョッキ。
リゼル。
笑い声。
店主。
誰かの歌。
光。
俺が使ったエンチャント。
「……やっぱり順番が分からん」
「何の?」
「俺がエンチャントを使ったのが先なのか、酔っておかしくなったのが先なのか」
リゼルも少し考え込んだ。
「確か……」
「何か思い出したか?」
「いや」
「頑張れ」
「人の記憶を畑みてえに耕そうとすんな」
「今はお前しか頼れないんだ」
「都合いいな、おっさん」
それは否定できない。
しばらく二人で黙って歩いた。
風が麦を揺らす。
鳥の声がする。
遠くで農夫が牛を引いている。
平和だ。
本当に平和である。
こんな景色の中で話している内容だけが、朝の田園風景にまったく似つかわしくない。
「なあ、リゼル」
「今度は何だよ」
「昨夜の俺って……そんなに普段と違った?」
リゼルが足を止めた。
俺も少し先で止まり、振り返る。
彼女は何とも言えない顔をしていた。
「違った」
即答だった。
「そんなに?」
「ああ」
「具体的には」
「それ聞く?」
「重要だ」
俺としては、昨夜の自分がどの段階で正常な判断力を失ったのか知りたい。
原因が酒なら今後飲まなければいい。
何らかの術式干渉なら対策できる。
俺自身の深層心理が原因です、と言われた場合だけはどう対処すればいいのか分からない。
リゼルは少し考え、やがて口を開いた。
「いつものお前って、何つーか……枯れてんじゃん」
「喧嘩売ってる?」
「最後まで聞けよ」
「四十四歳に枯れてるは普通に悪口だぞ」
「女に興味なさそうだし、金にも興味ねえし、強いくせに偉くなりたいとも言わねえし、あたしが船に誘っても畑畑畑畑って」
「畑は大事だ」
「ほらそれ!」
リゼルは俺を指差した。
「いつもそんな感じだろ?」
「まあ」
「昨日は違った」
俺の喉が鳴った。
「どう違った」
「……妙に堂々としてた」
「堂々?」
「ああ」
「俺が?」
「お前が」
そんな馬鹿な。
普段の俺だって必要な時には堂々とする。
村の交渉事を任されたこともあるし、魔物が畑へ入ってきた時には一人で追い払う。
「それくらいなら普通だろ」
「距離も近かった」
「…………」
「やたら目ぇ見てくるし」
「…………」
「声もなんか低かった」
「待て」
「あと――」
「もういい」
「聞いたのお前だろ!」
俺は顔を覆った。
誰だ。
それ。
本当に誰だ。
俺の体を使っている別人ではないのか。
「俺がそんな変態であるはずが……」
思わず漏れた。
「別にそれだけで変態じゃねえだろ」
リゼルが呆れたように言う。
「その後を含めたら話が変わるだろ!」
「……まあ」
「そこで納得するな!」
つらい。
俺はもう、自分が何者なのか分からなくなってきた。
元サラリーマン。
四十四歳。
畑持ち。
独身。
最強のエンチャンター。
そして酒を飲ませると人格が変わる疑惑あり。
最後の一行が致命的すぎる。
「決めた」
俺は言った。
「何を?」
「酒はやめる」
「さっきも言ってたじゃねえか」
「今度こそ本気だ」
「一生?」
「少なくとも原因が判明するまで」
酒が悪いのか。
エンチャントが悪いのか。
俺の内側に眠っていた何かが悪いのか。
その答えが出るまで、一滴たりとも口にしない。
もし最後の可能性だったら。
もし、酒によって理性の蓋が外れ、普段抑え込んでいた俺の本性が姿を現しただけだったら。
「…………」
怖い。
魔王より怖い。
自分自身ほど正体不明な敵はいない。
「おっさん」
「何だ」
「顔、青いぞ」
「今、自分の人生で一番恐ろしい可能性に気づいた」
「何だよ」
俺はリゼルを見た。
「もし昨夜の俺が、本性だったらどうしよう」
数秒。
リゼルは黙った。
そして。
「……まあ、あたしは嫌いじゃなかったけどな」
「…………」
俺の思考が止まった。
リゼルも、自分が何を口走ったのか理解したらしい。
「…………」
見る見るうちに顔が赤くなる。
「今のなし!」
「お前――」
「忘れろ!」
「いや待て!」
「忘れろっつってんだろ!」
リゼルが早足で俺を追い越していく。
「待て待て待て! それはどういう意味だ!」
「知らねえ!」
「言った本人が知らないわけあるか!」
「うるせえ!」
「そこ重要だから!」
「追ってくんな!」
「俺の家そっちなんだよ!」
逃げるリゼル。
追う俺。
朝の街道を、四十四歳のおっさんと赤毛の空賊船長が何とも説明しづらい理由で走っていく。
俺は一人が好きだ。
静かな暮らしが好きだ。
畑と季節と、たまに村人と世間話をする程度の人生でいい。
昨日まで、本気でそう思っていた。
今も基本的には変わっていない。
それなのに。
俺の少し前を走るリゼルの赤い髪を眺めながら、俺はどうしても考えてしまう。
――嫌いじゃなかった、とは。
一体どの部分の話なんだ。
「……いや、聞かないほうがいいな」
絶対に。
たぶん。
おそらく。
そう思いながらも足だけはリゼルを追い続けているあたり、俺も俺で、昨夜の自分を変態呼ばわりできるほど立派な人間ではないのかもしれなかった。




