第4話 いや待ってさすがにそれはない
……えーっと。
何も考えられなくなる時間が、しばらくあった。
俺は今しがた聞かされた話の内容を頭の中でもう一度並べ直そうとして、並べ直す以前に、そもそもどこから手をつければいいのか分からなくなっていた。
理解が追いつかないというより、理解しようとするたびに脳内のどこかから「いや待って」と別の俺が飛び出してきて、せっかく積み上げかけた思考を片っ端から蹴り倒し、その後ろからさらにもう一人の俺が現れて「そこ以前にこれもおかしいだろ」と別方向から机をひっくり返していくような、もはや会議ですらない大混乱が頭蓋骨の内側で開催されている。
いや。
単純に一線を越えたというだけなら、まだ話は分かる。
記憶がないにせよ、夜の営みというものにはそれなりの情緒があって、単なる欲望の産物ではないことくらい、この歳まで生きていれば知っている。
互いに惹かれ合っていた。
積み重ねてきた感情があった。
その夜だけはどうしても離れたくなかった。
酒や勢いが多少混ざったにせよ、最後に背中を押したのは本人たちの気持ちだった。
そういう、後から聞いた人間が「まあ、そういうこともあるか」と辛うじて納得できるだけの経緯が、普通はどこかに存在するものだ。
男女がそういう関係になること自体を、今さら清廉潔白ぶって問題視するつもりはない。
二人とも大人だ。
互いの意思でそうなったのなら、外野が横から口を挟む話でもない。
俺だって前世を含めればそれなりに長く生きてきた男であり、人間という生き物が理屈だけで動かないことくらい理解している。
問題はそこではない。
そこではないのだが――。
「……いや待って、さすがにそれはないだろ」
ようやく口から出てきた言葉がそれだったあたり、俺自身、この状況を説明するための語彙を完全に見失っていた。
壁に額を押しつけたまま、俺は深く息を吐く。
冷たい石壁の感触が妙に心地いい。
今の俺には、人肌より石のほうが信頼できる。
少なくとも石壁は、昨夜の俺が何をしたかを恥ずかしそうに告白してきたりしない。
「何が『ない』んだよ」
背後から、リゼルの不機嫌そうな声が飛んできた。
俺は振り向かない。
振り向いたら、またさっき聞いた話を思い出す。
そして思い出したら、今度こそ地面に埋まりたくなる。
「全部だよ」
「全部って何だ」
「全部は全部だ」
「説明になってねえぞ」
「説明できるか!」
俺は思わず壁から顔を離し、振り返った。
リゼルは腕を組んでこちらを睨んでいる。
頬はまだ赤い。
耳も赤い。
怒っているのか恥ずかしいのか、その両方なのか俺には判別できない。
たぶん両方だ。
「あのな」
俺はこめかみを押さえた。
「仮に、百歩譲って、昨夜俺たちがそういう流れになったとしよう」
「仮じゃねえよ」
「今は仮にしてくれ。俺の精神が持たない」
「面倒くせえおっさんだな」
「誰のせいだと思ってる」
「お前だよ!」
「そうだった!」
自分で言っておいて自分で刺さった。
つらい。
責任の所在が明確すぎる。
俺は咳払いして、話を戻す。
「とにかく、そういうことになったとしてもだな、普通もう少し段階というものがあるだろ」
「段階?」
「そうだ」
俺は指を一本立てた。
「まず、互いに好意がある」
二本目。
「少しずつ距離が縮まる」
三本目。
「相手を意識するようになる」
四本目。
「何かきっかけがあって、ようやくそういう関係になる」
五本目を立てようとして、手の指が足りなくなるほど先の段階を考えていた自分に気づき、やめた。
「それが普通じゃないのか?」
リゼルは少し首を傾げた。
「そうか?」
「そうだろ!」
「空賊にそんな手順書ねえぞ」
「空賊を基準にするな!」
俺は頭を抱えた。
この女と恋愛観について話すのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
リゼルにとって男女関係とは、船を奪う時と同じくらい勢いが重要なのだろうか。
「そもそもだ」
俺は再び顔を上げた。
「俺はお前とそういう関係になるつもりなんてなかった」
「知ってる」
「知ってるのかよ」
「あんだけ誘っても船に乗らねえ男が、女に誘われたくらいで急に人生変えるとは思ってねえよ」
「だったら――」
「それと昨夜の話は別だろ」
言葉が詰まった。
別なのか。
別なのだろう。
少なくともリゼルの中では。
「……いやいや」
また頭の中で別の俺が机を叩く。
「ちょっと待て」
「今度は何だよ」
「お前、本当にさっき言ったこと全部本当なんだよな?」
その言葉を口にすると、リゼルの眉間に皺が寄った。
「は?」
「いや、疑ってるわけじゃない」
「十分疑ってるだろ」
「状況が状況なんだよ!」
俺は両手を広げた。
「俺には記憶がない。お前は断片的に覚えてる。そして内容が、俺の想像してた範囲を軽々飛び越えてる。確認くらいさせろ!」
リゼルはしばらく黙った。
そして、さらに眉間へ皺を刻みながらも、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……本当だよ」
「一つも盛ってない?」
「盛るか!」
「話を面白くするために少し脚色したとか」
「何であたしが自分の恥ずかしい話を脚色すんだよ!」
「ごもっとも」
また反論できなかった。
それどころか、今の反応を見る限り、嘘をついているようには見えない。
リゼルは豪快で荒っぽく、口より先に剣を抜きそうな女ではあるものの、卑怯な嘘を平気でつくような人間ではない。
少なくとも俺が知る限りでは、そうだ。
腹が立てば怒鳴る。
気に入れば笑う。
嫌なら嫌と言う。
良くも悪くも分かりやすい。
そんな女が、ここまで顔を赤くしながらわざわざ作り話をする理由がない。
つまり。
事実。
「…………」
俺は再び壁へ向き直った。
さっきより額を強めに押しつけた。
痛い。
少しだけ安心する。
物理的な痛みは分かりやすい。
精神的な痛みよりずっと扱いやすい。
「おっさん」
「今は話しかけないでくれ」
「いつまでそうしてんだよ」
「俺の中で人生が崩れてる最中なんだよ」
「大げさだな」
「お前に言われたくない!」
俺は振り向きざまに叫んだ。
「責任取れって言ったのはお前だろ!」
「言ったよ!」
「そこだ!」
俺は指を差した。
「仮にお前の話が全部本当なら、その『責任』って言葉、こっちも冗談で流せなくなるんだぞ!」
リゼルの顔から、少しだけ勢いが消えた。
「……ああ」
その返事が妙に真面目だったせいで、俺の胃がまた縮む。
やめてくれ。
そういう声を出すな。
いつものように「酒奢れ!」とか「船乗れ!」くらいの軽さで言ってくれたほうが、こちらも適当にあしらえる。
「確認するぞ」
俺はゆっくり言った。
「お前の言う責任って、具体的に何だ」
リゼルは黙った。
「治療か?」
「違う」
「エンチャントの解除?」
「それだけじゃねえ」
「金?」
「いらねえ」
「じゃあ何だ」
また沈黙。
俺は嫌な予感がした。
この沈黙には見覚えがある。
朝からずっと俺を苦しめている種類の沈黙だ。
相手がこちらに言いづらい何かを抱えている時の沈黙。
「……まさか」
俺は喉を鳴らした。
「結婚とか言わないよな?」
リゼルがこちらを見る。
「…………」
「おい」
「…………」
「おい!」
「まだ何も言ってねえだろ!」
「その間が怖いんだよ!」
俺は後ずさった。
本当にやめてくれ。
俺は平穏を求めている。
結婚が平穏ではないと言うつもりはない。
世の中には幸せな夫婦が大勢いるだろうし、誰かと暮らすことで得られる喜びもあると思う。
問題は相手だ。
空賊船長。
帝国から賞金をかけられている女。
酒豪。
喧嘩好き。
俺の畑へ錨を落とした前科あり。
この女と結婚した場合、俺の望む「静かな田舎暮らし」が維持される未来が一ミリも見えない。
朝起きたら庭に空船が停まっている。
昼には追手が来る。
夕方には酒盛り。
夜には帝国艦隊と砲撃戦。
そんな生活のどこに畑へ水をやる時間がある。
「勘違いすんな」
リゼルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あたしだって、いきなり結婚しろなんて言ってねえ」
「……そうか」
少し安心した。
「ただ」
安心が終わった。
早い。
「ただ?」
「このまま何もなかったみたいに、『じゃあな』で帰られんのはムカつく」
「……」
「お前は覚えてないからいいかもしれねえけど、あたしは覚えてる」
リゼルはそこで言葉を切った。
視線が横へ逸れる。
「全部じゃねえけど」
「うん」
「……覚えてるとこは、覚えてんだよ」
その言い方が妙に生々しくて、俺は咄嗟に目を逸らした。
「いや、その辺は具体的に言わなくていい」
「言ってねえだろ!」
「雰囲気で十分なんだよ!」
本当に今日は精神が忙しい。
「だから」
リゼルは俺を真っ直ぐ見る。
「お前がどう思ってんのか、ちゃんと聞かせろ」
「どうって」
「あたしのことだよ」
俺は固まった。
「…………」
これは困る。
非常に困る。
今まで俺にとってリゼルは、面倒で、騒がしくて、勝手で、酒臭くて、畑へ被害を与える危険人物であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ただ。
昨夜何があったかを聞いたあとで、完全に今までと同じ目で見られるかと言われれば、それは難しい。
意識するなというほうが無理だ。
今だって、赤い髪や、少し赤くなった耳や、妙に落ち着かない視線が以前より目についてしまう。
「……分からん」
正直に答えた。
「は?」
「今聞かれても分からん」
「逃げんなよ」
「逃げてない」
俺はため息を吐いた。
「俺は昨日まで、お前を恋愛対象として見てなかった」
「知ってる」
「今朝起きたら状況が全部変わってた」
「まあな」
「しかも俺には肝心の記憶がない」
「……うん」
「そんな状態で、急に好きだ嫌いだ責任だと言われても、頭が追いつかないんだよ」
リゼルは黙って俺を見た。
俺も目を逸らさなかった。
ここだけは適当に答えたくなかった。
「ただ」
俺は続けた。
「お前が嘘をついてないことは分かった」
「……」
「昨夜のことで嫌な思いをしたなら、それは俺の責任だ」
「嫌だったわけじゃ……」
リゼルの声が急に小さくなる。
「ん?」
「何でもねえ!」
「今何か重要なこと言っただろ!」
「聞くな!」
また怒られた。
何なんだこの女。
「とにかく」
俺は頭を掻いた。
「すぐ結論出せって言われても無理だ」
「じゃあどうすんだよ」
「少なくとも、逃げはしない」
「……」
「俺が何をしたのか調べる。お前にエンチャントの影響が残ってるなら、それもちゃんと見る。その上で話す」
リゼルは少しだけ目を細めた。
「本当だな?」
「ああ」
「家帰って畑に逃げんなよ?」
「畑は逃げ場所じゃない。生活の中心だ」
「同じだろ」
「違う」
ここだけは譲れない。
リゼルは呆れたように息を吐いた。
「じゃあ、あたしも行く」
「…………は?」
俺は聞き間違えたと思った。
「どこに」
「お前ん家」
「何で」
「逃げないように見張る」
「いや待って」
俺は両手を上げた。
「さすがにそれはない」
「何が」
「お前が俺の家に来る」
「今まで何回も行ってるだろ」
「今までと今は状況が違う!」
「何が違うんだよ」
「全部だよ!」
俺はさっきと同じことを言った。
昨夜までは、畑へ勝手に来る迷惑な空賊だった。
今は違う。
何が違うか説明しろと言われたら困る。
とにかく違う。
「しかもお前、船長だろ?」
「そうだよ」
「部下は?」
「勝手にやってる」
「仕事は?」
「気が向いたらやる」
「組織として終わってる!」
「空賊だぞ?」
「またそれか!」
万能すぎる。
俺も何かあったら「農民だぞ?」で押し通せる人生がほしい。
「いいか、リゼル」
俺は諭すように言った。
「一度船に戻れ」
「嫌だ」
「即答するな」
「お前が逃げるかもしれねえ」
「逃げないって言っただろ」
「信用できねえ」
「俺の信用、昨夜だけでどれだけ暴落したんだよ……」
たぶん市場が開いていたら取引停止になるレベルだ。
リゼルは腕を組んだ。
「決めた」
「何を」
「お前ん家行く」
「決めるな」
「決めた」
「俺の家だぞ!」
「知ってる」
「家主の許可は!?」
「今取ってる」
「拒否する!」
「却下」
「お前に却下する権限はない!」
俺の声が朝の町に響いた。
通行人がこちらを見る。
まただ。
今日は一日で何度社会的に死ねば済むのだろう。
俺は頭を抱えた。
昨夜の責任。
エンチャントの後遺症。
リゼルとの関係。
そして今度は、俺の家へリゼルがついてくる。
静かな一日がほしい。
本当にそれだけなのに。
なぜ世界は、俺へ畑仕事以外の予定をここまで大量に押しつけてくるのだろう。
「……分かった」
俺は疲れ果てて言った。
「来るなら来い」
「おう」
「ただし条件がある」
「何だ」
「畑に入る時は靴の泥を落とせ」
「そこ!?」
「重要だ!」
昨夜どれほどとんでもないことをしでかしたとしても、畑の管理だけは別問題である。
人間としての責任。
男としての責任。
エンチャンターとしての責任。
そこへ畑主としての責任まで加わり、俺の人生は四十四歳にして急に業務過多になった。
前世であれほど残業を嫌っていた俺が、異世界でもまた責任に追われるとは思わなかった。
しかも今度の相手は上司ではなく、赤毛の空賊船長である。
会社員時代より悪化していないか。
そんな疑問を抱えながら、俺は東へ続く街道へ足を向けた。
その隣には当然のようにリゼルが並ぶ。
昨日まで一人で歩いていた道を、今日は二人で帰る。
ただそれだけのことなのに、妙に落ち着かない。
俺は横目で彼女を見た。
リゼルと目が合った。
彼女は少しだけ頬を赤くした。
俺も反射的に前を向いた。
「…………」
「…………」
気まずい。
とんでもなく気まずい。
やはり。
何度考えても。
俺の口から出てくる結論は、これしかなかった。
――いや待って、さすがにそれはない。




