第3話 どう責任取ってくれんだよ
朝の町というものは、昨夜どこかの宿屋で人生最大級の失敗をやらかしたかもしれない中年男の事情など一切考慮してくれない。
通りのパン屋からは焼きたての小麦とバターの香りが漂い、露店商は威勢よく果物を並べ、荷車を引く馬は石畳へ規則正しく蹄を打ちつけ、頭上では小鳥まで爽やかに鳴いており、これほど世界が健全に朝を迎えているというのに、俺の頭の中だけは昨夜から続く大規模災害の復旧作業で手一杯だった。
とりあえず水を飲んだ。
井戸端で顔も洗った。
朝飯については、胃が「今は固形物を受け入れる余裕などない」と全力で訴えてきたので諦めた。
宿屋を出てからしばらく町を歩いたところで、俺とリゼルは中央広場の端まで来ていた。
ここから道が分かれる。
東へ向かえば俺の暮らす村。
西側の街道を抜ければ、リゼルたち空賊団《紅鴉》が空船を停泊させている丘へ続く。
つまり、ようやく別れられる。
「それじゃ」
俺は東側の道へ体を向けた。
「俺は帰る」
「……ああ」
リゼルは腕を組んだまま答えた。
何だか妙に歯切れが悪い。
いつもの彼女なら、「気が変わったらいつでも船に来いよ!」くらい言いながら豪快に笑い、俺の背中を一発叩いて肺から空気を追い出してくるところなのに、今日は宿を出てからずっと調子が狂っている。
理由について心当たりがありすぎるのが困る。
「お前も船に戻るんだろ?」
「まあな」
「部下が待ってるんじゃないのか」
「あいつらなら一晩くらい船長が消えてても気にしねえよ」
「それは組織として大丈夫なのか?」
「空賊だぞ?」
「便利だな、その言葉」
社会的責任のほぼすべてを「空賊だから」で押し切れるのは少し羨ましい。
俺が「畑持ちだから」で同じことをやったら、村長に説教されて終わりである。
昨夜の件については何一つ解決していないものの、ここで延々と立ち話を続けても記憶が戻るわけではなく、俺としては一度自宅へ戻って魔力の状態を確認し、使用した術式の痕跡が自分の中に残っていないか調べたい。
何より畑が心配だ。
一晩家を空けただけとはいえ、俺にとって野菜は人間よりずっと話が通じる。
水をやれば育つ。
肥料をやれば喜ぶ。
適切な時期に収穫すれば美味しい。
少なくとも「昨夜のエンチャントが反則だった」などという謎の告発を朝から突きつけてくる大根はいない。
俺は数歩進み、ふと思い出して振り返った。
「そうだ、リゼル」
「あ?」
「じゃあ、もう俺を酒の席には誘うなよ?」
これだけは言っておかなければならない。
今回の件から俺が学ぶべき教訓は多いものの、その筆頭が「この女と酒を飲んではいけない」であることに疑いの余地はない。
「俺は自分の酒の弱さを甘く見ていたし、お前の飲む量も甘く見ていた。今後は適切な距離を保ち、酒場への誘いは原則として断る。昨夜の件については家に帰ってから調べるとして――」
「待てよ」
「ん?」
リゼルの声が低かった。
俺は足を止める。
彼女は先ほどまで組んでいた腕をほどき、こちらへ向き直った。
妙に真剣な顔をしている。
「どう責任取ってくれんだよ」
「…………」
責任。
俺はその単語を頭の中で一度転がした。
責任。
何の?
宿代なら払った。
酒代については記憶がない。
店で何か壊したのなら弁償しなければならないし、俺が妙なエンチャントを付与したことでリゼルの体に何らかの不調が残っているなら、もちろん解除する責任もある。
「……何か壊した?」
「違う」
「酒場に迷惑かけた?」
「そういう話じゃねえ」
「お前の装備?」
「違う!」
では何だ。
俺は首を傾げた。
リゼルはそんな俺を見て、最初は呆れ、そのうち本気で腹が立ってきたらしく、こめかみの辺りがぴくぴく動き始めた。
「お前、本気で言ってんのか?」
「だから記憶がないんだって」
「男と女が同じ部屋で朝迎えてんだぞ」
「…………」
「しかも、あんなことまでやっといて」
「…………」
「あたしに全部言わせんのか?」
そこまで言われて。
ようやく。
俺の中で「責任」という二文字が、非常によろしくない意味を伴って所定の位置へ収まった。
「……ああ」
分かってしまった。
分かりたくなかった。
俺は女性経験が豊富な男ではない。
前世でも恋愛より仕事を優先してしまった時期が長く、気づけば周囲が結婚だ子育てだ住宅ローンだと人生の大型イベントを次々攻略している横で、俺だけコンビニ弁当の新商品について妙に詳しくなっていた程度の人間である。
それでも四十四年も男として生きていれば、女性から「あんなことをしておいて、どう責任を取る」と言われた時、その意味を察する程度の人生経験はある。
嫌な汗が出た。
「いや、待て」
「何だよ」
「それは……その……」
言葉を探す。
見つからない。
こういう時、人生経験というものは驚くほど役に立たない。
会社員時代なら謝罪文も書けた。
取引先への説明もできた。
上司と部下の板挟みになりながら双方の顔を立てるという、魔王討伐より面倒なのではないかと思える仕事もこなしてきた。
それでも、裸で一夜を明かした女空賊から責任を迫られた場合の対応方法など、前世の社員研修には一行たりとも載っていなかった。
「俺は一人が好きなんだよ」
最終的に口から出たのは、それだった。
我ながら最低の返答である。
リゼルの眉間に、見事な皺が刻まれた。
「あんなことしておいて、一人が好きだあ!?」
「待て待て待て!」
周囲の視線が集まった。
朝の中央広場。
パンを抱えたおばさんがこちらを見る。
荷車を押していた青年も見る。
噴水の近くにいた老人に至っては、明らかに歩みを遅くして聞き耳を立てている。
「声!」
「知るか!」
「俺の社会的立場が!」
「畑耕してるだけのおっさんにどんな立場があんだよ!」
「その畑耕してるだけの立場を守りたいんだよ!」
俺はリゼルの腕を掴み、広場の隅にある建物の陰へ移動した。
これ以上町の中心で話してはいけない。
昼になる頃には「東の村のおっさんが赤毛の女を弄んだ」という物語へ進化する。
下手をすると夕方には子供が歌にしている。
「いいか」
俺は声を潜めた。
「まず整理しよう」
「何をだよ」
「俺は昨夜の記憶がない」
「知ってる」
「お前は断片的には覚えてる」
「ああ」
「俺はお前に何かエンチャントを使った」
「そうだよ!」
「その内容をお前は言わない」
リゼルの顔が赤くなった。
「言えるか!」
「だから話が進まないんだよ!」
俺は両手で頭を抱えた。
ここまで情報格差のある話し合いがあるだろうか。
相手だけが契約書を持っており、俺には表紙すら見せてもらえない状態で違約金を請求されているようなものだ。
「頼むから何があったのか教えてくれない?」
できるだけ穏やかに頼んだ。
リゼルは真っ赤な顔で俺を睨みつけた。
「恥ずかしくて言えるかボケ!」
「逆に怒られた!」
何なんだこの状況。
俺は知る権利すらないのか。
昨夜の俺は加害者なのか、参加者なのか、それとも何か別の分類なのか。
「せめてエンチャントの種類だけでも教えてくれ」
「嫌だ!」
「解除が必要かもしれないだろ!」
その言葉に、リゼルが一瞬黙った。
俺は見逃さなかった。
「……何だ?」
「何でもねえ」
「今、何か隠しただろ」
「隠してねえ」
「こっち見ろ」
「うるせえ!」
リゼルは顔を逸らした。
耳まで赤い。
そして。
「お前のせいで、まだ体が熱いんだよ!」
「…………」
世界が止まった気がした。
実際には止まっていない。
広場では相変わらず人が行き交っている。
パン屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。
鳥も鳴いている。
俺の思考だけが完全停止した。
「……はい?」
「だから!」
リゼルは自分で言った内容を改めて認識したらしく、さらに顔を赤くした。
「まだ、変なんだよ!」
「変って」
「聞くな!」
「聞かなきゃ分からないだろ!」
「察しろ!」
「察した結果が怖すぎるから聞いてるんだよ!」
俺の声も思わず大きくなる。
頼む。
言葉を選んでくれ。
「体が熱い」という発言だけ切り取れば発熱かもしれない。
魔力回路の過負荷という可能性もある。
エンチャント残滓による身体能力の活性化なら、術者として真面目に診断しなければならない。
ところが昨夜の状況とリゼルの顔色と「あんなこと」という単語を全部まとめて同じ机へ置いた途端、俺の頭はどうしても医学的ではない方向へ走り出す。
「とにかく!」
リゼルは俺へ人差し指を突きつけた。
近い。
「一人の女にあれほどの辱めを受けさせたんだ。黙って家に帰れると思うな!」
「だから辱めって何!?」
「言わせんな!」
「言ってくれないと俺は一生このままだぞ!」
「知らねえよ!」
「責任取れって言ったのはお前だろ!」
俺たちは建物の陰で睨み合った。
朝っぱらから何をやっているんだろう。
俺は畑へ帰りたいだけだった。
今日の予定では、午前中に南側の畝へ水をやり、昼前に芋を掘り、昼食には昨日焼いた黒パンと豆のスープを食べ、その後は壊れかけている鶏小屋の柵を直すはずだった。
その予定表のどこにも「女空賊から昨夜の責任を追及される」という項目は存在しない。
人生とは予定通りにいかないものだと知ってはいたが、限度というものがある。
「分かった」
俺は腹を括った。
「聞く」
「は?」
「何があったのか全部聞く」
「だから言えねえって」
「俺にも責任があるなら、知らないままにはできない」
リゼルの表情から、少しだけ怒りが消えた。
俺は続ける。
「人にエンチャントを使ったなら、なおさらだ。どんな効果を付与したのか、どれくらい持続したのか、その結果お前に何が起きたのか、俺には確認する義務がある」
「……」
「笑わない」
「……」
「茶化さない」
「……本当だな?」
「約束する」
俺は真面目に頷いた。
リゼルはしばらく黙っていた。
地面を見る。
俺を見る。
また地面を見る。
拳を握る。
ほどく。
深呼吸。
もう一度俺を見る。
「……耳貸せ」
「ここじゃ駄目なのか」
「声に出して聞かれたらお前を殺す」
「俺まで!?」
理不尽極まりないものの、ここで逆らえば永遠に真相へ辿り着けない。
俺は諦めて身を屈めた。
リゼルが近づく。
耳元に彼女の声が届く。
そして。
昨夜。
俺が。
彼女に。
何をエンチャントして。
その結果。
二人の間で何が起きたのか。
リゼルは、最初から最後まで説明した。
「………………………………」
俺は何も言えなかった。
朝の風が吹いた。
遠くで鳥が鳴いた。
広場の鐘が時刻を告げる。
どこかの家から朝食を知らせる母親の声が聞こえ、荷馬車の車輪が石畳を転がり、パン屋の店主が今日も元気よく客を呼び込んでいる。
平和だった。
世界は今日も美しい。
人々はそれぞれの生活を送り、空は青く、太陽は暖かく大地を照らしている。
その世界の片隅で。
俺だけが死んでいた。
「…………嘘だろ」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
リゼルは真っ赤な顔のまま、俺を睨んでいる。
「だから言いたくなかったんだよ……」
「…………俺が?」
「ああ」
「それを?」
「ああ」
「お前に?」
「何回聞くんだよ!」
俺は両手で顔を覆った。
穴。
穴はないか。
地面に。
人間一人が入れる程度でいい。
贅沢を言うなら、そのまま地底まで落下できる深さが望ましい。
「…………」
昨夜の俺。
お前。
何をしている。
いや、本当に何をしている。
酔った勢いという言葉で許される範囲を、全速力で駆け抜けて遥か彼方まで行っているではないか。
「俺……」
膝から力が抜けた。
壁に手をつく。
立っていられない。
魔王を目の前にしても、たぶんここまで絶望しない。
世界が滅亡すると告げられても、もう少し冷静に話を聞ける。
四十四歳にもなって、自分自身の過去の行動によってこれほど精神を破壊される経験が待っているとは思わなかった。
「ロウ?」
リゼルが珍しく俺の名前を呼んだ。
俺は答えなかった。
答えられなかった。
俺の頭の中では、ただ一つの文章だけが延々と繰り返されている。
――畑に帰りたい。
昨日までの俺に戻りたい。
できることなら昨夜の酒場へ時間を巻き戻して、最初の一杯を持ち上げようとしている自分の後頭部を、鍬で思い切りぶん殴って止めたい。
最強のエンチャンター。
規格外の能力。
世界の常識を覆す力。
そんなものを持っていても。
昨夜の自分だけは、どうにもできない。
俺は朝の町角で壁へ額を押しつけながら、勇者でも魔王でも神でもなく、昨日の俺こそが人生最大の敵だったという、あまりにも救いのない事実を噛み締めていた。




