第2話 とりあえず宿を出るぞ
さて……と。
そんなふうにひと息ついている場合でもないのだが、ここは一つ、〈エンチャント〉というものについて説明しておこう。
現在の俺は、見知らぬ宿屋の一室で半裸のままベッドに座り、その隣ではいつもなら大砲を真正面から向けられても笑っていそうな女空賊が布団を胸元まで引き上げて頬を赤く染め、「お前、いくらなんでもあのエンチャントは反則だぞ」などという、聞きようによっては俺の社会的生命を一撃で終わらせかねない発言をした直後であり、本来なら世界の魔術体系について講義を始めるより先に昨夜の記憶を掘り返すべきなのは百も承知なのだけれど、そもそも俺がここまで青ざめている理由を理解してもらうには、エンチャントという技術がこの世界でどう扱われているのか、そして俺の持っているそれがどれほど常識から外れているのかを知ってもらったほうが話が早い。
この世界には、様々な術式やスキル、魔力の扱い方や属性といった多種多様な体系が存在している。
火を生み出す。
水を操る。
風を刃に変える。
土を隆起させる。
光で傷を癒やす。
影を媒介にして姿を隠す。
そういった分かりやすい魔術とは少し立ち位置が違い、エンチャントとは、詰まるところ〈付与術式〉の通称であり、肉体や武器、防具、あるいは対象そのものへ一時的な魔術的性質を与える技術の総称である。
身体能力の強化、治癒力の促進、毒や麻痺といった状態異常の緩和、反対に敵への鈍化や衰弱の付与、外部からの攻撃を受け止めるシールドの形成、反応速度や移動速度の上昇など、基本的には戦闘における〈性能値〉のあらゆる側面へ干渉できる補助魔法の一大カテゴリーだと考えれば分かりやすい。
例えば、重たい大剣を扱う戦士へ〈筋力強化〉を付与すれば、本来なら両手で振り回す武器を片手でも扱えるようになる。
魔物の爪を受け止める盾に〈耐衝撃〉を与えれば、同じ材質の盾より格段に壊れにくくなる。
脚へ〈加速〉を乗せれば走る速度が上がり、目へ〈動体視力強化〉を与えれば高速で飛んでくる矢にも反応しやすくなる。
こうして説明すると、「それなら全員エンチャンターを一人ずつ雇えばいいじゃないか」と思うかもしれない。
世の中、そこまで都合よくできてはいない。
術者によって得意とする付与の種類は異なるうえ、対象との魔力相性、術式の強度、効果時間、同時に維持できる数にも限界があり、強力なエンチャントになれば当然ながら魔力消費も大きくなる。
さらに複数の付与を無計画に重ねれば、術式同士が干渉して効果が弱まったり、最悪の場合には対象側の魔力回路へ過剰な負荷をかけたりすることさえある。
ゲームなら強化アイコンを画面の端へ片っ端から並べて、「攻撃力上昇、防御力上昇、速度上昇、自動回復、状態異常無効、会心率上昇、ついでに獲得経験値二倍もお願いします」と景気よく全部盛りにすれば済むところを、現実では欲張った瞬間、術者か付与された側のどちらかが先に膝をつく。
便利なものほど取扱説明書が厚くなるのは、どうやら異世界でも変わらないらしい。
一般的なエンチャンターなら、戦闘前に二つか三つの術式を仲間へ付与できれば十分に優秀とされる。
四つ同時維持できるなら一流。
五つ以上となれば王国直属の魔導師団から声が掛かるほどの希少人材であり、対象の体調や魔力状態を確認しながら的確な付与を選べる者ともなれば、大規模な討伐隊では下手な攻撃魔術師より重宝される。
ここまでは一般論だ。
「俺」という括りにすると、話は変わる。
かなり変わる。
というより、話そのものが一度ひっくり返って机から落ちるくらい変わる。
俺には、一般的なエンチャントに存在するはずの制限が、ほとんど存在しない。
対象との相性?
知らない。
効果時間?
設定できる。
同時維持数?
正確に数えたことがない。
消費魔力?
少なくとも、今まで困った覚えがない。
術式干渉?
俺が意図的にぶつけない限り、勝手に馴染む。
「そんな馬鹿な」と言われても、俺だってそう思う。
初めて自分の能力を検証した頃は、何か重大な見落としがあるのではないかと疑い、石ころ、木の枝、鍬、皿、靴、鶏小屋の扉と片っ端から試したものの、最終的には「神様が調整を忘れた」という結論に落ち着いた。
俺のエンチャントは、単純に数値を上げ下げするだけでは終わらない。
〈硬くする〉。
〈速くする〉。
〈強くする〉。
その程度なら、まだかわいい。
鍬へ〈土だけを柔らかく耕す〉。
靴へ〈泥が付きにくい〉。
鍋へ〈焦げ付きにくい〉。
毛布へ〈寝返りを打っても肩が冷えない〉。
鶏小屋の戸へ〈鶏は通れるが狐は通れない〉。
ここまで来ると魔術というより、現実そのものへ細かい注文を付けている感覚に近い。
そして最も厄介なのが、生き物に対しても同じようなことができてしまう点にある。
身体能力を上げるだけなら問題ない。
傷の治りを早めたり、毒への抵抗力を高めたりする程度なら、一般的な付与術師の延長線上で説明できる。
俺の場合、本人の持つ才能を一時的に底上げしたり、眠っている資質を強引に表面へ引っ張り出したり、特定の感覚だけを極端に鋭敏化させたりと、普通の術者ならまず手を出せない領域へまで干渉できてしまう。
だから俺は、人に対するエンチャントを極力避けている。
力は便利だ。
便利だからこそ、使う側が調子に乗った瞬間にろくなことにならない。
前世の会社でも、表計算ソフトを少し扱えるというだけで「じゃあこれもできるよね?」と仕事が増殖した経験がある俺としては、能力というものが周囲に知られれば知られるほど自由時間を食い潰してくる害獣であることをよく理解していた。
俺は畑を耕したいのであって、世界を最適化したいわけではない。
今日の夕飯に何を食べるか悩む程度の人生で十分なのである。
だからこそ。
「……俺、何を付与した?」
話は現在へ戻る。
目の前では、赤毛の空賊船長リゼル・ガーランドが、布団へ半分顔を埋めながら俺を睨んでいる。
睨んでいるというより、睨もうとして失敗している。
頬が赤すぎるのだ。
あの女がこんな顔をするというだけで、俺の脳内では昨夜の自分に対する有罪判決が着々と進んでいる。
「だから、それをあたしに言わせんのかよ……」
「言ってもらわないと俺には永遠に分からん」
「覚えてねえ奴が悪いだろ!」
「それについては全面的に認める」
「そこだけ素直になるな!」
無茶を言う。
俺に記憶がない以上、言い訳を組み立てようにも材料が存在しないのだから、こちらとしては土下座の準備をしながら裁判を待つしかない。
「少なくとも確認しておきたいんだが」
「なんだよ」
「俺はお前に危害を加えたのか?」
リゼルの動きが止まった。
さっきまで怒鳴っていた彼女が急に黙ったことで、今度は俺の心臓が嫌な音を立て始める。
「……危害ってほどじゃねえ」
「じゃあ、嫌がることを無理にやったとか」
「それも、ねえ」
「本当に?」
「ねえって言ってんだろ!」
そこは力強かった。
俺は胸の奥に溜まっていた空気を、ゆっくり吐き出した。
ひとまず最悪ではない。
少なくとも、酔った勢いで人として越えてはいけない線を踏み越えたわけではなさそうだ。
それだけ分かれば、昨日の俺を村外れへ連れていって埋める計画はいったん保留にしてもいい。
「じゃあ、何が反則だったんだ?」
「……」
「おい」
「…………」
「リゼルさん?」
「その呼び方やめろ、気持ち悪い!」
「だったら話せ!」
俺たちは朝っぱらから布団を挟んで小声の喧嘩を始めた。
なぜ小声かというと、ここが宿屋だからである。
隣の部屋には当然ほかの客がおり、床下には食堂があるらしく、すでに皿や椅子を動かす音が聞こえてくる以上、「昨日のお前のエンチャントが」「俺は何をした」などという会話を壁越しに聞かせれば、宿を出る頃には町中で俺の知らない武勇伝が完成している可能性がある。
田舎町の噂というものは、魔術師の通信術式より速い。
昔、一度だけ村の市場で転んだ時など、夕方には「ロウが酔っ払って豚と喧嘩した」という情報に変換されていた。
俺は酒を飲んでいなかったし、豚もいなかった。
噂話に事実確認という文化は存在しないのである。
「……あー、もう!」
リゼルは頭を乱暴に掻いた。
髪がさらに乱れた。
「とりあえず服着ろ!」
「それは俺も今から言おうと思ってた」
「あと背中向けろ!」
「はいはい」
俺は素直にベッドを降り、床へ散らばっていた服を拾い集める。
上着は椅子の背もたれ。
ズボンはベッドの足元。
シャツはなぜか窓際。
片方の靴に至っては部屋の隅に転がっている。
「……どういう脱ぎ方をしたんだ、俺は」
「知らねえよ!」
「お前は覚えてるんだろ」
「そこは覚えてねえ!」
「都合の悪いところだけ記憶ないのか」
「お前にだけは言われたくねえ!」
ごもっともである。
俺は黙って服を着た。
その間、背後ではリゼルも衣類を探しているらしく、布が擦れる音やら、何かを床へ落とす音やら、「なんでこんなところに……」という妙に小さな呟きやらが聞こえてくる。
振り向いてはいけない。
人間には、好奇心より優先すべきものがある。
生命。
信用。
社会的立場。
今ここで振り向けば、その三つをまとめて失いかねない。
「おっさん」
「なんだ」
「絶対振り向くなよ」
「振り向かん」
「絶対だぞ」
「俺を何歳だと思ってる」
「四十四」
「あと少しで四十五だ」
「余計悪いじゃねえか」
反論の余地がない。
俺はシャツの前を留めながら、昨夜のことについて考え続けた。
何かを付与した。
リゼルはそれを「反則」と呼んだ。
危害ではない。
無理強いでもない。
それでも本人が口に出すのを恥ずかしがるような効果。
選択肢が嫌な方向へしか広がらない。
〈感度上昇〉。
「……いやいや」
小声で否定する。
〈魅力増幅〉。
「違う違う」
〈興奮促進〉。
「やめろ俺の脳」
考えれば考えるほど最低な術式名が浮かんでくる。
俺の能力は概念へ干渉できる。
つまり、理論上はそういう付与も可能なのだろう。
試したことはない。
試す理由もない。
そもそも四十四歳にもなってそんなエンチャントを研究しているところを誰かに見られたら、魔王を倒すより先に俺の人生が終わる。
「よし」
背後から声がした。
「もういいぞ」
俺は振り返った。
リゼルはいつもの格好へ戻っていた。
黒い革の上着。
腰の曲刀。
赤い長髪。
見慣れた空賊船長である。
ただし、いつもと違う点が一つ。
目が合うと逸らす。
「…………」
「…………」
また気まずくなった。
服という文明の力を借りれば多少は正常な関係へ戻れると期待していた俺が甘かったらしい。
昨夜までなら、互いに顔を見れば「畑を荒らすな」「船に乗れ」「断る」という三手で会話が成立していたのに、今朝は二人の間に見えない巨大な何かが横たわっている。
俺は咳払いした。
「とりあえず宿を出るぞ」
「……ああ」
「ここで話してると壁に耳がある」
「お前んとこの村、噂広まるの早いもんな」
「町も大差ない」
「まあな」
意見が一致した。
今朝初めての快挙である。
俺は床へ落ちていた荷物を確認した。
財布。
ある。
小銭袋。
ある。
家の鍵。
ある。
小さな魔石。
なぜ持ってきたのか覚えていないが、ある。
「……よし」
問題は宿代だ。
誰が払った。
そもそも部屋を取った記憶すらない。
「リゼル」
「なんだ」
「この部屋、誰が取った?」
「あたし」
「お前か」
「お前が途中からまともに歩けなくなったからな」
「面目ない」
「肩貸したら、ずっと何かぶつぶつ言ってやがった」
俺の手が止まる。
「何を」
「覚えてねえよ。畑がどうとか、魔力効率がどうとか、あと……」
「あと?」
リゼルの耳が赤くなった。
「何でもねえ」
「絶対何かあるだろ」
「うるせえ!」
聞きたい。
猛烈に聞きたい。
同時に、聞いたところで幸せになれる気が一切しない。
前世で健康診断の結果を見る時と同じ感覚である。
知らなければ安心できない。
知ったら知ったで胃が痛い。
「まあいい」
俺は諦めた。
「一度外に出よう。水飲みたいし、頭も痛い」
「あたしも喉渇いた」
「お前も二日酔いか?」
「この程度で酔うかよ」
「……そうだったな」
憎たらしい。
俺の頭の中では今も小人たちが鉄鍋を叩いて祭りを開催しているというのに、この女は酒樽を何本空けても翌朝には普通に動ける。
人間の構造をしているのだろうか。
俺が扉へ手をかけたところで、背後から声が飛んできた。
「待て」
「今度は何だ」
「先にお前が出ろ」
「なぜ」
「一緒に出たら変に見られるだろ」
俺はゆっくり振り返った。
「今さら?」
「今さらって言うな!」
「同じ部屋から時間差で出てくるほうが怪しくないか?」
「じゃあどうすんだよ!」
「普通に出る」
「それができりゃ苦労してねえんだよ!」
この女、こんなに世間体を気にする人間だったのか。
空賊だぞ。
帝国の輸送船を襲い、賞金首になり、昨日まで他人の大根畑に錨を投げ込んでいた女が、宿屋の廊下で他人の視線を気にしている。
俺は急に頭痛以外の意味でも頭が痛くなってきた。
「……リゼル」
「なんだ」
「お前、本当に昨夜何があったか覚えてるんだよな?」
リゼルは黙った。
わずかに視線が泳ぐ。
「全部じゃねえ」
「どこまで」
「あんたがエンチャント使ったところ」
「その後は?」
「…………断片的」
「おい」
「仕方ねえだろ! あたしだって途中から変になったんだから!」
その言葉に、俺の眉が上がった。
「変になった?」
「……」
「それは酒で?」
「…………」
「エンチャントで?」
今度の沈黙は長かった。
リゼルは唇を噛み、こちらを睨み、それから顔を逸らした。
「……たぶん」
俺は額へ手を当てる。
やっぱり何かやっている。
昨夜の俺は確実に何かを付与している。
しかも、あの酒豪リゼルの記憶まで曖昧にするような何かを。
「解除は?」
「あ?」
「今も効果が残ってる感じはあるか」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、自分の腕や胸元を確かめるように視線を動かした。
「……分かんねえ」
「普通なら術式の残滓を見れば判断できるんだが」
俺は右手へ魔力を集めかけた。
リゼルが飛び退いた。
「待て!」
「なんだよ」
「今、何しようとした」
「お前に残ってる付与を調べようと」
「エンチャント使う気か!?」
「検査だ!」
「嫌だ!」
「子供か!」
「昨日ので懲りたんだよ!」
そこまで言われると俺だって傷つく。
何をしたのか知らないけれど。
「分かった。今は何もしない」
「絶対だぞ」
「信用なさすぎだろ」
「記憶なくすまで飲んで変な付与かけた奴をどう信用しろってんだ」
「ごもっとも」
本日二度目である。
俺は扉を開けた。
廊下は静かだった。
よし。
誰もいない。
俺は左右を確認し、リゼルへ手招きする。
「今なら行ける」
「お前、なんで盗賊みたいになってんだよ」
「お前が空賊だからだろ」
「関係ねえ!」
二人で廊下へ出る。
なるべく普通に歩く。
普通とは何か分からなくなってきたが、少なくとも忍び足より堂々としていたほうが怪しまれない。
「……酒は当分やめよう」
「は?」
「いや、独り言だ」
前世を含めた長い人生の中で、俺は色々な教訓を得てきた。
安請け合いはするな。
保証人にはなるな。
腹が減った状態で買い物へ行くな。
上司の「ちょっとだけ時間ある?」を信用するな。
そして今日、新たな一項が加わった。
――最強のエンチャンターは、記憶をなくすまで酒を飲んではいけない。
力を持つ者には責任が伴う。
そんな立派な言葉を、俺はこれまでどこか他人事のように聞いていた。
今なら分かる。
あれはきっと、酒に酔った超能力者が何かやらかした翌朝に生まれた格言に違いない。
俺は痛む頭を押さえながら、朝の町を歩く。
隣ではリゼルがまだ何やら文句を言っている。
その声を半分ほど聞き流しつつ、俺は一つだけ決意した。
家に帰ったら、昨日の俺が使ったエンチャントを絶対に特定する。
そして二度と同じ過ちを起こさないよう、酔っている時には能力そのものを封じるエンチャントを自分へ付与しておこう。
……いや。
エンチャントを封じるためにエンチャントを使うというのは、何か根本的に間違っている気もする。
朝からそんなことを考えている時点で、俺の静かな田舎暮らしが以前の形へ戻る可能性は、少しずつ怪しくなり始めていた。




