第1話 そんな卑猥なエンチャントを使った覚えはない
いやいやいやいや。
そんな馬鹿な。
俺は宿屋の天井を見つめながら、そこに人類がまだ発見していない答えでも書かれているのではないかという期待を込めて、古びた木目の一本一本を真剣に追いかけていた。
もちろん、何も書かれていない。
当たり前である。
宿屋の天井というものは、酔っ払った四十四歳独身男に昨夜の記憶を返却してくれる便利な記録媒体ではなく、ただ雨風を防ぐため頭上に設置された板材にすぎないのだから、どれほど切実な眼差しを送ったところで「昨夜の出来事はこちらです」と親切な字幕が浮かび上がるはずもなかった。
それでも俺は天井を見続けた。
右を見る勇気がなかったからだ。
「…………」
右側から、すう、すう、と規則正しい寝息が聞こえてくる。
知らない。
俺は何も知らない。
何も聞こえない。
これはたぶん風だ。
宿屋という建物は古くなると隙間風が人間の寝息そっくりになることもあるのだろうし、この異世界には呼吸する壁材というものが存在する可能性だって完全には否定できない。
そういうことにしておこう。
世界には、知らなくていいこともある。
四十年以上生きてきた経験から断言できるのだが、人間はすべての事実と正面から向き合う必要などなく、時には見なかったことにして布団を頭から被り、そのまま昼くらいまで寝てしまうほうが幸福な場合もあるのだ。
問題は、その理屈を適用するには、現在の俺が置かれている状況が少々具体的すぎることである。
まず、ここは俺の家ではない。
天井が違う。
壁も違う。
窓も違う。
何より俺の寝床にはない、妙に柔らかい羽毛の敷布団が腰の下にあり、普段なら夜中に一度は「うっ」と呻いて寝返りを打つ四十四歳の腰が、今朝に限って実に快適な目覚めを迎えている。
宿屋だ。
それも町にある宿屋。
そこまでは昨夜の断片的な記憶から推測できる。
さらに困ったことに、俺は上半身に何も着ていなかった。
「…………」
ゆっくり視線を下げる。
布団がある。
よし。
布団は大事だ。
文明とは、人間が見たくない現実を布一枚で覆い隠すところから始まったのではないかと本気で思うくらい、今の俺にとってこの布団は頼もしい。
俺は恐る恐る布団の中を確認した。
「…………なるほど」
確認終了。
詳しい報告は差し控える。
現場からは以上だ。
俺は再び天井を見上げた。
おかしい。
非常におかしい。
昨夜、俺はリゼルと酒場へ行った。
そこまでは間違いない。
店に入った。
覚えている。
席についた。
これも覚えている。
酒を注文した。
嫌な予感がしてきた。
リゼルが巨大な木製ジョッキを二つ持ち上げ、「乾杯!」と叫んだ。
俺も付き合ってジョッキを掲げた。
一杯飲んだ。
二杯目を飲んだ。
三杯目については……飲んだような、飲まされたような、そもそも誰が注文したのかすら怪しい。
その辺りから記憶という名の街道に霧が立ち込め、ところどころに意味不明な景色だけが浮かんでいる。
誰かが歌っていた。
たぶんリゼルだ。
テーブルの上に立っていた気もする。
店主が泣いていた。
なぜだ。
俺が何か光らせていた。
もっとなぜだ。
そして最後に覚えているのは――。
『おっさん! お前、そんなことまでできんのかよ!』
「…………」
俺は眉間を押さえた。
駄目だ。
そこから先が完全にない。
まるで誰かが俺の記憶帳を途中からまとめて破り捨てたように、酒場以降の出来事が一切残っていない。
そして現在。
俺は裸に近い格好でベッドにいる。
隣にはリゼルがいる。
彼女も裸である。
ここまで状況証拠を並べたうえで、「昨夜は何もありませんでした」と結論づけるのは、畑一面に猪の足跡が残っているのを見ながら「野菜が消えたのは風のせいでしょう」と主張するくらい無理がある。
「いやいやいや……」
小声が漏れた。
俺は四十四歳である。
もうすぐ四十五歳になる。
前世も含めれば、人間関係の面倒臭さというものを嫌になるほど味わってきた。
酒の失敗談だって何度も聞いたし、翌朝になって昨夜の自分を殴りたいと頭を抱える同僚も見てきたし、「記憶にございません」という言葉が便利であると同時に何一つ解決しないことも知っている。
だからこそ分かる。
これは、まずい。
非常にまずい。
俺が独身だからいいという問題ではない。
リゼルもたぶん独身だが、それで帳消しになる話でもない。
そもそも俺は彼女から空賊団へ勧誘されていただけで、男女としてどうこうという話になった覚えは一度もなく、俺自身、彼女を女性として意識するより「今日も面倒なのが来たな」と近所の野良猫くらいの距離感で扱っていたはずなのだ。
もちろん、リゼルが美人か美人でないかと問われれば、間違いなく美人だ。
燃えるような赤髪。
健康的に焼けた肌。
鋭い目。
豪快な笑顔。
黙って立っていれば、絵画の題材にでもなりそうな女である。
黙っていれば。
そこが重要だ。
口を開けば「酒だ!」「金だ!」「空だ!」「喧嘩だ!」の四種類くらいしか話題がなく、俺の畑へ来るたび勝手に野菜をかじり、以前など洗っていないトマトをその場でもいで食べたので「せめて洗え」と注意したところ、「雨で洗ってある!」という野生動物みたいな理屈を返してきた女である。
そんな相手と。
俺が。
酒の勢いで。
「…………いや、ない」
断言した。
ないない。
俺はそこまで節操のない人間ではない。
酒に弱い自覚もあるため、前世でも飲み会では水を挟みながら慎重に飲んでいたし、酔った勢いで女性に絡むようなことも――。
「……今回は水、挟んでなかったな」
思い出した。
リゼルが水を注文しようとする俺を止めたのだ。
『水ぅ? 酒場で水飲む奴があるか!』
ある。
ここにある。
昨夜の俺は、なぜあの時もっと強く抵抗しなかった。
四十四歳にもなって酒豪のペースに付き合うなど、自分から崖へ向かって全力疾走するのと何が違う。
「待てよ……」
もっと重要な問題がある。
俺はエンチャンターだ。
それも、一般的なエンチャンターとはだいぶ事情が違う。
武器を強化する。
防具を強化する。
道具へ特殊な性質を与える。
その程度なら、まだ常識の範囲内と言える。
俺の場合、対象に対して概念的な効果まで付与できる。
普段は自制している。
当然だ。
包丁に《切れ味強化》を付与するくらいなら料理が便利になるだけで済むものの、人間へ何かを付与するとなれば話は別であり、使い方を一歩間違えれば本人の意思や人生そのものへ影響しかねないため、俺は自分なりにかなり厳しい線引きをしている。
酔っていた。
その線引きを守れていた保証は?
「…………」
ない。
いや、待て。
俺は何をエンチャントした。
そもそも何にエンチャントした。
昨夜の記憶にある、あの光は何だった。
「まさか……」
酔っ払った俺が、何か妙なエンチャントを自分に付与した?
いやいやいやいや。
何をだ。
《酒豪》?
それなら途中から記憶を失っている時点で効果が仕事をしていない。
《魅力上昇》?
俺が?
四十四歳の畑仕事帰りのおっさんが?
そんなものを自分に付与するくらいなら、《翌朝の腰痛無効》でも付けたほうが一億倍有意義だ。
《理性低下》?
誰が自分にそんな呪いをかける。
《絶倫》?
「ない!」
思わず声が出た。
俺は慌てて口を押さえた。
朝の宿屋で中年男が突然「絶倫はない!」と叫ぶ。
最悪である。
廊下を歩いていた人間が聞いたら、この部屋についてどのような物語を想像するのか考えたくもない。
それに。
そんな卑猥なエンチャントを使った覚えはない。
絶対にない。
たぶん。
おそらく。
できれば、ないと言ってほしい。
誰に頼んでいるのか自分でも分からなくなってきたところで、右側の布団が動いた。
もぞ。
俺の背筋が伸びた。
もぞもぞ。
やめろ。
まだ心の準備ができていない。
できればあと三十分ほど眠っていてくれ、その間に俺は服を着て、水を飲んで、昨夜の状況証拠を整理し、最悪の場合は村を捨てて名前を変えるところまで含めた危機管理計画を立てたい。
「ん……」
聞き慣れた声がした。
終わった。
俺はゆっくり横を見る。
リゼルが目を覚ました。
赤い髪を枕いっぱいに広げ、まだ眠気の残る顔で何度か瞬きを繰り返した彼女は、普段なら起床と同時に酒瓶でも要求しそうな女とは思えないほど無防備で、しばらく天井をぼんやり眺めたあと、自分がどこにいるのか確認するように首を動かした。
俺と目が合った。
「…………」
「…………」
沈黙。
俺は何も言えない。
リゼルも何も言わない。
普段の彼女なら、こういう気まずい空気など拳で殴って破壊するくらいの勢いで「おう、おっさん! 起きたか!」と笑い飛ばすはずなのに、今日に限って妙に静かだった。
そして彼女は、自分の体に視線を落とした。
「…………っ」
赤くなった。
あのリゼルが。
空賊船《紅鴉》の船長で、帝国の巡空艦三隻に囲まれても笑っていたという女が、頬どころか耳まで赤く染めた。
待て。
それはやめてくれ。
お前が恥ずかしがると、状況の信憑性が一気に増す。
「リ、リゼル」
「見るな」
「いや」
「見るなって言ってんだろ!」
「見てない! 今は天井しか見てない!」
俺は人生で最も素早く顔を上へ向けた。
首が痛い。
そんなことを気にしている場合ではない。
隣では布団が激しく動いており、おそらくリゼルが自分の体を隠しているのだろう。
いつもの豪快さはどこへ行った。
頼むから戻ってきてくれ。
今だけは「裸くらいで騒ぐな!」と笑ってくれたほうが、俺としても圧倒的に助かる。
「……おっさん」
「はい」
なぜ敬語になった。
「昨日のこと……覚えてるか?」
「…………途中まで」
「どこまでだ」
「酒場で、お前が俺に何か言ってたところまでは」
「何かって?」
「『そんなことまでできるのか』とか……」
布団の向こうから、ものすごく長い沈黙が返ってきた。
嫌だ。
この沈黙は嫌だ。
人間、年を取ると沈黙の種類が分かるようになる。
呆れた沈黙。
怒っている沈黙。
悲しい沈黙。
言葉を選んでいる沈黙。
そしてこれは、相手がこちらにどう説明すればいいのか本気で困っている時の沈黙だ。
「リゼル?」
「…………」
「俺、何した?」
返事がない。
「何をエンチャントした?」
布団がまた、もぞりと動いた。
「俺自身?」
沈黙。
「お前?」
さらに沈黙。
「まさかベッド?」
「違う!」
そこだけ即答だった。
よかった。
いや、何がよかったのか分からない。
「じゃあ何なんだよ」
「……言わせんのか?」
「こっちは記憶がないんだよ!」
「こっちだって恥ずかしいんだよ!」
「お前が!?」
「ぶっ飛ばすぞ!」
少しだけいつものリゼルが戻ってきた。
安心した。
安心している場合ではない。
俺が天井を睨みながら昨夜の記憶を脳内から掘り起こそうとしていると、隣から衣擦れの音が聞こえ、やがてリゼルが布団を胸元まで引き上げた状態で上半身を起こした気配がした。
「……おっさん」
声が近い。
「なんだ」
「こっち向け」
「いいのか?」
「顔だけな」
何の確認だ。
俺は慎重に顔を横へ向けた。
そこには、見たことのないリゼルがいた。
いつも豪快に吊り上がっている眉は落ち着かず、視線は俺と壁の間を行ったり来たりしており、赤くなった頬を隠そうとしているのか、口元まで布団を持ち上げている。
その姿を見た瞬間、俺の胃が縮んだ。
確定したくない。
何も確定していない。
裁判ならまだ状況証拠しか出揃っていない。
弁護側には反論の余地がある。
きっとある。
頼むからあってくれ。
リゼルはしばらく俺を睨んでいたものの、その目には普段の威圧感がほとんどなく、やがて観念したように息を吐いた。
「お前さ」
「うん」
「あたしに何やったか、本当に覚えてねえの?」
「……申し訳ないが」
「全部?」
「綺麗さっぱり」
「最低だな」
「反論できないのがつらい」
俺は頭を抱えた。
リゼルはそんな俺を見つめながら、また頬を赤くする。
そして、ぼそりと。
本当にぼそりと。
普段なら船の甲板の端から端まで届くような声で怒鳴る女が、蚊でも聞き逃しそうな声量で呟いた。
「お前、いくらなんでもあのエンチャントは反則だぞ」
「…………」
俺は固まった。
来た。
とうとう来てしまった。
最も聞きたくなかった単語が。
「……あのエンチャント?」
「ああ」
「具体的には?」
「言わせる気か!?」
「記憶がないんだから仕方ないだろ!」
リゼルの顔が一気に真っ赤になった。
俺の顔からは一気に血の気が引いた。
何をした。
俺。
昨夜の俺。
頼む。
せめて人として許される範囲に収まっていてくれ。
俺は震える手で自分の額を押さえながら、人生で初めて心の底から昨日の自分を信用できなくなっていた。
そんな卑猥なエンチャントを使った覚えはない。
覚えはないのだ。
――覚えがないからこそ、否定する材料も一つとしてないのである。




