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プロローグ



俺の名前は、ロウ・ハーベル。


この世界では、片田舎の外れにある傾きかけた木造小屋で暮らす、年齢四十四歳と十一か月、腰痛予備軍、早起きだけが取り柄のしがない畑持ち独身男ということになっている。


前世の名前まで丁寧に語り出すと、どこかの吟遊詩人が「異界より来たりし魂」などと勝手に壮大な節をつけて歌い始めそうなので割愛したいところなのだが、人生というものは本人の希望に反して説明責任を求めてくる面倒な取引先のような性質があり、ここで黙っていると読者諸君に「ただの畑好き中年が主人公とはどういう了見だ」と畑の畝ごと見限られかねないため、最低限だけ白状しておく。


俺は元日本人で、元サラリーマンで、元社畜で、元胃薬常備勢で、元満員電車のドア付近に押し込まれたまま己の輪郭を見失った男であり、ある日ふと気づけば剣と魔法が平然と税金より強い顔をしている異世界に転生していた。


若い頃の俺なら、そりゃあもう浮かれただろう。


ステータス画面だ、スキルだ、冒険者ギルドだ、美少女受付嬢だ、勇者認定だ、魔王討伐だ、伝説の剣だ、ドラゴンの背中で空中戦だ、と中学生の頃に自由帳へ描いていた黒歴史の総決算みたいな単語を前に、鼻息荒く大地を踏みしめ、「俺の時代が来た」などと空へ向かって叫んでいた可能性は高い。


実際、俺に与えられた力は、夢見がちな少年の妄想を三日三晩煮詰めたあと、神様が寝ぼけて鍋ごとひっくり返したような代物だった。


エンチャント。


聞こえだけなら、剣に炎をまとわせたり、鎧を硬くしたり、靴を軽くしたりする、冒険者の便利サポート技能といった印象かもしれない。


ところが俺の場合、鍬に「絶対に刃こぼれしない」を付けられるし、包丁に「玉ねぎを切っても涙が出ない」を宿せるし、壺に「中身が腐りにくい」を刻めるし、布団に「朝まで腰が痛くならない」を込められるうえ、やろうと思えば人間の才能や獣の本能や魔族の呪いにまで、こっそり札を貼る感覚で性質を上書きできてしまう。


控えめに言って、神のミスである。


もっと控えめに言えば、神の勤務態度を疑う案件である。


王都の魔術師が知ったら白目を剥き、騎士団長が知ったら膝をつき、商人が知ったら俺の小屋の前に黄金の馬車を横付けし、貴族が知ったら娘を五人くらい連れて縁談をねじ込んでくるような力なのだろうが、前世で上司の「君にしか頼めないんだよ」という呪いの言葉を浴び続けた俺にとって、過剰な期待とは高級な鎖にすぎなかった。


金はほしい時期もあった。


名声に憧れた時期もあった。


美女に囲まれる人生を想像して、布団の中でにやけた夜も当然ある。


人間とは、そこまで清らかに作られていない。


それでも四十を越え、前世と現世を足し合わせた人生の棚卸しを何度も済ませ、成功した友人の笑顔の奥にある疲れや、出世した先輩の頭頂部に刻まれた社会の爪痕や、金を持った人間ほど時間を失っていく不思議な仕組みを嫌というほど見てしまった俺は、結局のところ、朝に目が覚めて、温い白湯を飲み、畑の土を指でほぐし、夕方には鳥の声を聞きながら鍋をかき混ぜる生活こそ、人間が最後に戻ってくる場所なのではないかと考えるようになった。


勇者?


遠慮する。


王国直属の魔導技師?


胃が痛い。


世界を救う英雄?


勤務時間と休日規定を提示してから出直してほしい。


そんなわけで、俺は異世界に転生して最強のチート能力を得たにもかかわらず、森と丘に囲まれた小さな村の端で畑を耕し、春には豆を植え、夏には汗を拭い、秋には芋を掘り、冬には薪の在庫を数えながら、地味で、質素で、誰の伝記にも載らない暮らしを満喫していた。


家は狭い。


床は鳴る。


屋根は雨の日に不安な音を立てる。


食卓に並ぶ料理も、王都の貴族が見たら「家畜の餌か」と眉をひそめる程度には慎ましい。


それでも俺にとっては、誰にも急かされず、誰にも命令されず、誰の期待も背負わず、ただ昨日より少しだけよく育った野菜を眺めて「うむ」と頷ける毎日こそ、前世で手に入らなかった贅沢そのものだった。


そんな俺の人生に、空から女が落ちてきた。


いや、正確には、空から落ちてきたのは女ではなく、船だった。


雲を裂いて現れた巨大な帆船が、どういう原理か青空の上を当たり前みたいに滑り、村の上空で派手に旋回したかと思えば、俺が丹精込めて育てていた畑のすぐ隣に錨を落とし、その錨がよりにもよって俺の大根畑の中心を無慈悲にえぐり取ったのである。


俺はその場で、前世の会議室でも出したことのない声を出した。


「おおおおおおい、俺の大根んんんんん!」


四十四歳と十一か月の男が大根に向かって叫ぶ姿は、客観的に見ればかなり危ない。


とはいえ、あの大根はただの大根ではない。


土を改良し、種を選び、水を調整し、虫を手で取り、つい出来心で「甘み増強・煮崩れ耐性・味染み三割増し」までエンチャントしてしまった、俺の静かな情熱の結晶だった。


その結晶を、空から来た無法者が、何の断りもなく、錨で、ばっくり。


怒るなというほうが無理である。


空船から降りてきたのは、赤い髪を風に躍らせ、腰に曲刀を提げ、胸元を開けた黒い革外套を羽織り、笑うだけで周囲の男どもが三歩下がりそうな迫力を持つ女だった。


年は俺よりずっと若い。


目つきは獣じみて鋭い。


足取りは自分の行く先すべてが道になると信じている者のそれで、後ろには柄の悪い船員たちがぞろぞろ続き、村人たちは窓の隙間から震えながらこちらを覗いていた。


「悪いな、おっさん。ちょいと風を読み違えた」


女は悪びれるでもなく笑い、砕けた大根を靴先でつついた。


俺は一度深呼吸をして、前世で取引先の理不尽なクレームに耐えた時の記憶を総動員し、できるだけ穏やかな声で言った。


「風を読み違えた結果として、こちらの畑に甚大な被害が出ているわけで、まずは現状確認と補償について話し合いたいんだが」


「補償?」


女はきょとんとしたあと、腹を抱えて笑った。


「ははっ、面白いこと言うな。文句があるなら力ずくで来いよ。あたしは空賊船《紅鴉》の船長、リゼル・ガーランドだ。泣く子も黙る空の荒くれ者に、畑の説教で勝てると思ってんのか?」


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で眠っていた前世の中間管理職的忍耐が、ぺきりと割れる音を立てた。


俺は勇者になりたいわけではない。


英雄として称えられたいわけでもない。


美女の前で格好つけたい年頃も、とうの昔に過ぎた。


それでも、丹精込めた大根を踏みつけられたうえ、こちらの常識的な交渉を笑い飛ばされて黙っていられるほど、人間を卒業した覚えはなかった。


俺は畑の隅に立てかけていた古びた鍬を手に取り、刃先についた土を親指で払った。


「力ずくというのは、あまり好きじゃないんだよ」


鍬の柄に指を添え、ほんの少しだけ魔力を流す。


光は出さない。


雷も落とさない。


大地を割るような派手な演出など、近所迷惑でしかない。


俺が込めたのは、ただ一つ。


『この鍬で示されたものは、動かない』


それだけだった。


俺は鍬の刃で、女船長の足元の土を軽く突いた。


直後、リゼル・ガーランドは笑顔のまま固まった。


比喩ではない。


本当に、足が地面から離れなくなった。


曲刀を抜こうとしても腰が動かず、肩を揺らそうにも体が言うことを聞かず、船員たちが慌てて引っ張っても彼女は畑に植えられた立派な案山子のようにびくともしなかった。


俺は鍬を肩に担ぎ、できるだけ冷静に告げた。


「では、現状確認と補償について話し合おうか」


その日から、俺の平穏は微妙に割れ始めた。


リゼルは毎日のように俺の小屋へ来た。


空賊団に入れ、うちの船に乗れ、おまえみたいな面白いおっさんを畑に埋めておくのは世界の損失だ、金も酒も女も好きにできるぞ、と朝採れの野菜を買いに来た近所のおばちゃんより気軽な調子で人生の転職を勧めてきた。


俺はそのたびに断った。


畑がある。


鶏に餌をやる時間がある。


今日は味噌っぽいものを仕込む予定がある。


そもそも四十五歳目前で空賊デビューは履歴書の見栄えが悪すぎる。


どんな理由を並べても、彼女は笑うだけだった。


笑って、また来た。


そんな訪問が何度も続くうちに、俺の中にもほんの少しだけ、申し訳なさのようなものが芽生えた。


毎回追い返すのも大人げない。


相手は畑を壊した張本人であり、常識も礼儀も船のどこかに置き忘れてきたような女ではあるものの、真っ直ぐで、裏表がなく、馬鹿みたいに生命力があり、俺が前世で忘れてきた種類の眩しさを持っていた。


そして昨夜。


彼女は町の酒場へ行こうと誘ってきた。


俺は最初、全力で断った。


酒は弱い。


騒がしい場所は苦手だ。


夜更かしをすると翌朝の畑仕事に響く。


四十を越えた男にとって睡眠不足はただの状態異常ではなく、翌日一日を支配する災厄である。


それでもリゼルは、どういう理屈か「一杯だけなら畑も許す」と言い張り、俺も連日の訪問を断り続けていた負い目から、まあ一杯だけなら、と魔が差した。


本当に、一杯だけのつもりだった。


ここまでが、俺の覚えている昨夜のすべてである。


そして今。


俺は見知らぬ宿屋の一室で目を覚ましている。


頭の中では小人が百人ほど酒樽を転がしており、喉は砂漠の古井戸みたいに乾き、体のあちこちが妙に重い。


窓から差し込む朝日が、人生の過ちを照らす審判の光のように眩しい。


俺はゆっくりと横を向いた。


隣には、昨夜俺を酒場へ連れ出した空賊船長リゼル・ガーランドが、何も身につけていない姿で、実に満足そうな寝息を立てていた。


俺は天井を見上げた。


神よ。


前世で残業代を取り損ねたことなら、もう許す。


だから今すぐ、この状況の議事録を提出してくれ。


「……いや、待て」


俺は震える声で呟いた。


「なにがあった?」


こうして、最強のエンチャンターである俺の、静かで穏やかで誰にも邪魔されない片田舎生活は、朝日の差し込む宿屋のベッドの上で、非常によろしくない形にエンチャントされてしまったのである。


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