第7話 そんなこんなで…じゃない!
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人生には、振り返った時に「あの分かれ道だけは土下座してでも避けるべきだった」と畑の支柱を握りしめながら呻きたくなる選択の失敗がいくつか存在するもので、俺にとって今まさに空船《紅鴉》の甲板に立っている状況は、その失敗見本市の中でもなかなか上位へ食い込む一品だと思う。
いや、興味本位という言葉の尻尾を掴みながらリゼルの船に乗ったところまでは、まだ言い訳の余地があった。畑の隣へ錨を落とされて大根が犠牲になり、酒場では記憶を吹き飛ばしたうえ、何やら口に出すのも気まずいエンチャント騒動まで起こした身としては、せめて彼女の役に立てることがあるなら一度くらい協力しても罰は当たらないだろう、という気持ちになるのも人情の範囲内ではないだろうか。少なくとも、俺はそう信じたい。
リゼルが賞金首であることは知っていた。空賊船《紅鴉》の船長としてそれなりに名が通っており、帝国の輸送船を何度か襲ったとか、貴族の私財を積んだ豪華飛行艇から酒だけ奪って去ったとか、巡空艦隊の包囲網を煙幕と悪口だけで突破したとか、真偽の怪しい逸話を山ほど背負っている女であることも理解していた。それでも、空賊という肩書きがすべての常識を一枚ずつ剥ぎ取っていく危険な看板であると、俺はまだ甘く見ていたのだと思う。
船員を養うには金がいる。それは分かる。空船を飛ばすには魔石も燃料も帆の補修布も必要で、船底の板一枚、滑車の軸一つ、甲板で昼寝している船員の食費に至るまで、世の中に存在する大抵のものは放っておいても空から降ってくるわけではない。まして空賊という、まともな商会からは取引を渋られ、港へ降りれば衛兵に目をつけられ、酒場へ入れば誰かしらと揉める生活をしている連中が金を得ようと思えば、表通りだけを綺麗に歩いて済むはずもない。
そこまではいい。よくはないものの、俺が今さら空賊団の経営倫理を講義したところで、聞いてくれる相手がこの船に何人いるのかという問題になる。
問題は、だからといって。
「……なんで、この船に王女が乗ってるんだ?」
俺は甲板中央に置かれた木箱の上へ座っている少女を、できれば見間違いであってほしいという祈りを込めてもう一度眺めた。
白金色の髪は朝日に透けると細い絹糸のように淡く輝き、淡青色の瞳は空をそのまま閉じ込めたように澄んでおり、旅装をまとっているとはいえ縫い目の丁寧さや布の質からして、どう頑張っても一般市民の「ちょっと遠出してきました」という雰囲気ではない。背筋は自然に伸び、指先の置き方まで妙に品があり、木箱に腰かけているだけで周囲の荷物が急に宮廷家具のふりを始めるのだから、血筋というものは恐ろしい。
見間違いではない。うん、まず間違いない。俺が畑の土と野菜の出来具合以外にはそこまで詳しくない男であっても、あれを「近所のお嬢さん」と言い張るには無理がありすぎる。
いつからこの船は空の観光艇になったんだ。いや、観光艇ならまだ話は分かる。王女様が「民の暮らしを空から眺めてみたいのです」とか言い出して、護衛つきで安全な遊覧飛行をしているだけなら、俺は適当に「良い旅を」と言って畑へ帰れば済む。あいにく、甲板のあちこちで船員たちが武器の手入れをしており、リゼルが鼻歌交じりに操舵輪の前で帝国軍の旗を逆さに括りつけている時点で、事態がそんな優雅な方向へ進んでいないことは明白だった。
「あ、ロウ様」
木箱の上の少女が俺に気づき、両手を膝の上で揃えたまま、申し訳なさそうに会釈した。
「このたびはご迷惑をおかけしております」
「迷惑という言葉で包める大きさかどうか、まずそこから慎重に協議したいですね」
俺は丁寧に返した。相手が王女である可能性を九割九分まで認めざるを得ない以上、ここで「お前は何者だ」と雑に聞くのは失礼すぎる。
少女は少しだけ目を伏せ、透明な声で名乗った。
「ルミナリア・エル・クラウディアと申します。クラウディア王国の第三王女で、今は少々、帝国の方々から追われております」
「少々」
俺はその一語を口の中で転がしてから、甲板の端に立つリゼルへ視線を送った。
「おい、リゼル」
「あん?」
「少々って何だ」
「少々は少々だろ」
「王女が帝国から追われる状況を少々で済ませるな。虫に葉っぱをかじられた畑じゃないんだぞ」
リゼルは操舵輪へ肘を乗せ、悪びれた様子もなく笑った。
「仕事だよ、仕事。報酬は金貨二千枚。前金で五百。残りは王女を北の自由都市まで送り届けたら支払い。条件は簡単、帝都上層区の迎賓塔から姫さんを連れ出して、帝国の巡空網を抜ける。それだけだ」
「それだけ、の意味を辞書で引き直してこい」
「船員を食わせなきゃなんねえんだよ。帆の張り替えは必要で、右舷の魔導噴進器も調子悪くて、グラスの奴が賭けで負けて持ち帰ってきた山羊の餌代まで嵩んでんだ」
「山羊?」
「メェ船長代理だ」
「誰がそんな役職を承認した」
甲板の端で、首に赤い布を巻かれた山羊が得意げに鳴いた。船員の一人が「代理、今日もご機嫌っすね」と真顔で干し草を差し出しており、この船が組織としてどの地点からおかしくなったのか、もはや誰にも判定できない。
俺は深呼吸した。空は青い。風は気持ちいい。眼下には雲が流れ、遠くの山並みは美しい。こういう景色を眺めながら飲む茶はきっと美味いのだろうが、残念ながら今の俺の喉を通るのは茶ではなく胃痛である。
事の経緯を整理すると、まず王女ともあろう立場の人間が、よりにもよって空賊船に乗せてほしいと懇願してきたところから事態は変な方向へ転がり始めていた。そもそも空賊の船に王族が乗るという発想自体、城の礼法教師が聞けば扇子を取り落とすばかりか、近衛隊長は鎧のまま卒倒して、財務官に至っては予算項目のどこへ危機管理費を入れるべきか分からず机へ突っ伏す大問題である。本人の思惑がどうであれ、王女を“誘拐”という名目で帝国から連れ去ったという事実が知れ渡っているなら、控えめに見積もっても国際問題の鍋を強火で煮立たせたような事件と言っていい。
もっとも、そこだけなら俺は「それは大変ですね、どうかご武運を」と他人事の顔で畑へ帰ることもできた。できたはずだった。
「それで、ロウ様」
ルミナリア王女が胸元から一枚の羊皮紙を取り出した時点で、俺の背筋に嫌な冷たさが走った。
「こちらを、先ほど船員の方が拾ってくださいました」
「拾った?」
「はい。帝国軍の連絡鳩が落としていったものだそうです」
嫌な予感というものは、どうしてこういう時だけ勤勉なのだろう。俺は差し出された羊皮紙を受け取り、そこに大きく刷られた文字と、あまりにも悪意のある似顔絵を見た。
《帝国告示》
《空賊船“紅鴉”によるクラウディア王国第三王女誘拐事件について》
《主犯リゼル・ガーランド、および共犯者一同を追捕せよ》
《新規構成員と思われる魔導付与師ロウ・ハーベル、通称“畑の悪魔”に注意》
「誰が畑の悪魔だ!」
甲板中に俺の声が響いた。
船員たちが一斉にこちらを見た。リゼルは腹を抱えて笑い、ルミナリア王女は目を丸くして、山羊のメェ船長代理だけが「悪魔」という単語に納得したような顔で俺の靴紐を齧り始めた。
「ロウ様、あの、似顔絵は少々勇ましく描かれているだけで……」
「これは勇ましいのではなく犯罪者の顔です。見てください、この目つき。畑で大根の出来を見ているだけの男が、どうして世界征服を企む闇魔導師みたいな笑みを浮かべているんですか」
「畑の悪魔、いいじゃねえか。箔がつくぞ」
「箔で味噌汁は作れないんだよ!」
俺は羊皮紙を震える手で握りしめた。そこには、リゼルの賞金額、船員数名の特徴、空船《紅鴉》の外観、そしてなぜか俺の名前まで丁寧に記されていた。さらに腹立たしいことに、俺についての説明文には「巨大な鍬を媒介に未知の魔術を行使して、空賊船長を一撃で拘束した危険人物」と書かれている。事実の一部だけを抜き取って並べると、ここまで人を悪者にできるのかと感心するほどの仕上がりだった。
「俺は一員じゃない。客員でもない。強いて言うなら、畑へ帰る機会を失った被害者だ」
「帝国の役人は聞いてくれねえだろうなあ」
リゼルがにやにやしながら言う。
「なんで嬉しそうなんだ、お前は」
「だってよ、これでもう簡単には帰れねえだろ?」
「人の退路を焼いて暖を取るな!」
リゼルは本当に楽しそうだった。甲板の上で風を受け、赤い髪をなびかせ、腰の曲刀に片手を置いたその姿だけ見れば、命知らずの船長として絵になるのだから腹立たしい。中身がもう少しだけ慎重なら、俺もここまで胃を痛めずに済んだはずである。
「ロウ様、本当に申し訳ありません」
ルミナリア王女が木箱から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「私がこの船に乗せていただくようお願いしたことが、皆様を巻き込んでしまいました。帝国は私を保護していたと主張するでしょうけれど、あの塔に留め置かれたままでは、クラウディアと帝国の婚約条約に署名させられていたはずです。兄たちへ連絡を取る術もなく、頼れる者も限られている中で、私が自由都市へ向かうには《紅鴉》の力を借りるほかありませんでした」
その声は震えていなかった。怯えているのに、背筋だけは折らないよう懸命に支えているのが分かる声だった。こういう顔を向けられると、怒りの矛先が急に居場所を失う。俺としてはリゼルの襟首を掴んで「どうして受けた」と揺さぶりたいだけなのに、王女本人に謝られると、こちらまで悪いことをしている気分になるから困ったものだ。
「……事情は分かりました」
俺は羊皮紙を丁寧に畳みながら、できる限り大人の声を出した。
「王女様を助けたいという話なら、そこに文句を言うつもりはありません。問題は、説明も相談もなくなぜか俺まで共犯者名簿に載っていることです」
「ロウ様は《紅鴉》の正式な一員ではないのですか?」
「違います」
「姐さんの旦那では?」
「違います」
「では、専属魔導師でしょうか」
「違います」
「畑の悪魔……」
「それも違います!」
ルミナリア王女は真剣に首を傾げており、悪気がない分だけ攻撃力が高かった。王族の天然発言は、刃物より深く刺さることがあるらしい。
「おいおい、姫さんを困らせるなよ、ロウ」
リゼルが横から口を挟む。
「お前が俺を困らせている中心人物だと自覚してから発言してくれ」
「細けえなあ。いいじゃねえか、どうせ帝国に狙われるなら派手にやったほうが面白いだろ」
「面白さを基準に国家権力と殴り合うな。俺は畑に水をやる時間さえ守れれば満足する人間なんだ」
「その割に、あたしを地面に植えた時は楽しそうだったぜ?」
「大根の仇討ちだ。農家には農家の戦がある」
「ほら、やっぱり畑の悪魔じゃねえか」
「黙れ空の災害」
船員たちが吹き出した。誰かが「空の災害、かっけえ」と呟く横で、別の誰かが「新しい船名にどうっすか」と余計な提案を投げ、リゼルが「悪くねえな」と本気で考え込んだため、俺はこの船の命名会議へ二度と参加しないと心に決めた。
それにしても、俺の知名度がすでに帝国告示へ載る程度には広がっているという事実が厄介だった。畑の端で静かに暮らしていた頃なら、「ロウ・ハーベル? 誰それ」で済んだ話も、今や「未知の魔導付与師」「紅鴉の新規構成員」「畑の悪魔」という三点セットで世間へ売り出されている。誰が頼んだ。誰が広報した。せめて通称を決める前に本人確認くらい取れ。
「リゼル」
「なんだよ」
「俺は今から自分が紅鴉の一員ではないことを強く主張する」
「おう」
「そのうえで、帝国に対して誤解の訂正を求める方法を考える」
「無理じゃね?」
「言う前に諦めるな」
「だって、帝国軍から見りゃ、姫さんを乗せた紅鴉の甲板にいて、あたしと普通に口喧嘩して、しかも告示に名前まで載ったおっさんだろ。関係ありませんって言っても、そりゃ無理があるぜ」
「事実として関係が浅い」
「浅い関係で同じ宿から出てくるか?」
「話を混ぜるな!」
リゼルの笑みが悪質だった。ルミナリア王女が「同じ宿?」と小さく呟いたので、俺は即座に咳払いで空気を切り替えようとしたが、切り替わらなかった。山羊が俺の靴紐を完全に噛み切っただけだ。
「とにかく、俺はお前たちの船に一時的に乗っているだけで、正式な仲間ではない」
「分かった分かった」
「分かってない返事をするな」
「じゃあ一時仲間ってことで」
「言葉を柔らかくしても意味は変わらない」
「期間限定紅鴉」
「祭りの屋台みたいに言うな」
「お試し空賊」
「最悪の試供品だな」
このやり取りに船員たちがまた笑い、ルミナリア王女まで口元を押さえて小さく笑ったので、俺の立場はさらに軽くなった気がした。王女の緊張が少しでもほぐれたなら悪いことではないのかもしれない。そう思った瞬間、自分がこの状況へ馴染みかけていることに気づき、俺は心の中で慌てて畑の土を握りしめた。戻れ、俺。ここは船だ。お前の居場所は畝と鶏小屋の間だぞ。
風向きが変わったのは、その時だった。
見張り台にいた少年船員が、望遠筒を片手に大声を上げた。
「船長! 後方雲海の切れ目に巡空艦影三つ! 旗印は帝国軍、第七追捕隊です!」
甲板の空気が一気に締まった。さっきまで山羊の役職や俺の通称で笑っていた船員たちが、それぞれの持ち場へ散っていく。帆を畳む者、魔導炉へ走る者、砲座の覆いを外す者、空賊らしい乱暴さの中にも妙な手際の良さがあり、こういうところを見ると《紅鴉》がただの酔っ払い集団ではないことが分かってしまうのが腹立たしい。
リゼルは操舵輪を握り、口角を吊り上げた。
「来たか。思ったより早えな」
「嬉しそうにするな。追われているんだぞ」
「追われるってのは、こっちが前に進んでる証拠だろ?」
「名言っぽく言えば何でも許されると思うなよ」
俺は背後を振り返り、雲の向こうから現れ始めた三つの黒い艦影を見た。船体の横には帝国の紋章、甲板には整然と並ぶ兵士、先端にはこちらを睨むように魔導砲が据えられている。あれはどう見ても観光客を迎えに来た船ではない。おそらく、俺が「誤解です、私は畑の者です」と爽やかに手を振っても、返ってくるのは説明の機会ではなく砲弾だろう。
「ロウ」
リゼルが俺の名を呼んだ。
「頼りにしてるぜ、畑の悪魔」
「その呼び方をしたら助けないぞ」
「じゃあ、うちの一時仲間」
「それも腹立つ」
「旦那」
「もっと悪い!」
リゼルは笑った。ルミナリア王女は両手を胸の前で握り、船員たちは持ち場からこちらを見ている。帝国の巡空艦は近づいてくる。俺の畑は遠ざかっていく。朝から何も食べていない胃は、すでに上司不在の部署みたいに混乱している。
そんなこんなで俺は、空賊船《紅鴉》の一員として帝国軍に追われることになった。
……じゃない!
絶対に違う!
違うはずなのに、甲板の上で鍬を握り、王女を背に庇い、赤髪の女船長の隣に立っている俺の姿は、残念ながらどこからどう見ても紅鴉側の人間であり、帝国告示に描かれた“畑の悪魔”という不名誉極まりない似顔絵のほうが、今この場に限っては少しだけ現実へ寄ってきている気がして、俺は空へ向かって盛大に叫びたくなった。
畑に帰りたい、と。
けれど俺の叫びが空へ届くより早く、リゼルの号令が甲板を駆け抜けた。
「総員、帆を開け! 魔導炉を三段まで上げろ! 姫さんを自由都市まで届けるついでに、帝国の連中へ《紅鴉》の尻尾がどれだけ掴みにくいか教えてやるぞ!」
歓声が上がる。帆が風を受け、船体が大きく軋み、雲海の白が視界の下へ流れていく。
俺は鍬の柄を握り直した。せめて誰も怪我をしないように。せめて王女を守れるように。せめて畑の悪魔という通称がこれ以上広まらないように。
三つ目だけは、たぶんもう手遅れだった。




