第四章:仮面が剥がれ落ちた夜
でも、そんな私の限界は、ある雨の日に突然やってきた。
その日、現実の仕事で、私は取り返しのつかないミスをしてしまった。上司からは冷酷な言葉で叱責され、同僚からは冷ややかな視線を向けられた。誰も私を助けてくれなかった。私の肉体は、ただただ縮こまり、震えることしかできなかった。
「私は、どこに行ってもダメな人間なんだ……」
泥のように重い身体を引きずって帰宅し、私は泣きながらヘッドセットを被った。もう、ここしか逃げ場所がなかった。
いつもの海岸のワールドにログインしたけれど、私はハルトに声をかける元気すら残っていなかった。流木に座り、ただポリゴンの海を見つめて、現実の涙をボロボロと流していた。アバターは泣かない。綺麗な顔のまま、静止している。そのギャップが、余計に私を惨めにさせた。
「コハク? どうしたの?」
背後から、聞き慣れた、世界で一番大好きな声がした。ハルトが私の隣に立っていた。
私は慌てて、声を押し殺そうとしたけれど、マイクは私の震える呼吸を正確に拾ってしまっていた。
「ハルト……私ね、今日、現実で、すごく悲しいことがあったの」
言いたくなかった。ハルトには、いつも可愛いコハクだけを見ていてほしかったから。現実のドロドロした愚痴なんて、彼にぶつけるべきじゃない。
「ごめんね、せっかくの楽しい場所に、こんな暗い気持ち持ってきちゃって。私、ログアウトした方がいいよね……」
私は逃げるようにメニュー画面を開こうとした。私の醜い心を、彼に見せたくなかった。
「待って!」
ハルトの、今までに聞いたこともないような強い声が、イヤホンを突き抜けて私の脳に響いた。
「行かないで、コハク。ここにいて」
「でも……」
「暗い気持ちだって、なんだっていいんだ。僕は、綺麗なコハクだけを見たいわけじゃない。君が苦しんでいるなら、その苦しみごと、ここにいてほしい」
ハルトのアバターが、私に向かって一歩、踏み込んでくるのが見えた。
「僕の現実は、いつも冷たくて灰色だ。でもね、毎晩ここで君の笑顔を見るだけで、君の声を聞くだけで、信じられないくらい救われているんだ。君が僕を救ってくれたみたいに、僕も君の隣にいたい。何もできないかもしれないけれど……」
胸の奥の防壁が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
ハルトは、現実の私を知らない。それでも、私の「心」が苦しんでいることを察して、全力で引き止めてくれている。
「隠しているつもりだった。伝えたら、全部壊れちゃうと思ってたから。でも、もう嘘はつけない。僕は、君が愛おしい。画面の向こうにいる、君の本当の心が、恋しくてたまらないんだ」
ハルトの口から飛び出したその言葉に、私は息をすることを忘れた。
彼も、同じだった。彼も、私と同じように、このバーチャルの世界の境界線で、苦しみながら私を想ってくれていたんだ。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
もう、仮面はいらない。綺麗に飾った「コハク」じゃなくて、今ここでハルトを求めて泣いている「私自身の魂」を、彼に見せるんだ。
私は彼の目の前まで歩いた。アバターの顔が触れ合うほどの距離。
「ハルト、手を伸ばして」
私の声は、現実の涙でボロボロだったけれど、これまでの人生の中で一番、本当の気持ちがこもっていた。
ハルトが両手を伸ばす。私も、コントローラーを握る震える両手を前へと突き出した。
画面の中で、私たちの手がぴったりと重なり合う。
冷たいプラスチックの感触。でも、不思議だった。
ハルトの手を通して、私の心臓に、信じられないほどの激しい「温もり」が流れ込んできたのだ。
「ハルト……今ね、私、あなたの手がすごく温かい気がするの」
それは気のせいなんかじゃない。脳の錯覚でもない。
「現実の私は、傷ついて、ボロボロで、誰にも見せられない姿をしてる。でもね、今、私の魂は、間違いなくハルトの目の前にいるよ。このキツネのアバターの奥で、私は本気であなたを想ってる」
伝えたい、この想いを。隠していた気持ちを、すべて彼に捧げたい。肉体なんていらない。今、私たちの心は、確かに繋がっている。




