第三章:暗闇に取り残されるゴースト
「あ……もうこんな時間。明日も仕事だから、そろそろ行かなきゃ」
システム上の時計が午前四時を指したのを見て、私は胸が締め付けられるような思いで告げた。このまま朝まで、ずっと彼の声を聞いていたい。現実なんてどこかへ消えてしまえばいいのに。そんな子供じみた願いが頭をよぎる。
「うん、そうだね。僕も明日……いや、もう今日か。バグ修正の山が待ってる」
「ふふ、無理しないでね。ハルトはいつも頑張りすぎちゃうから」
私はアバターを動かして立ち上がり、精一杯の元気さを装って手を振った。
「じゃあね、ハルト。また明日、いつもの時間に」
「またね、コハク。おやすみ」
彼のその言葉を聞き届けてから、私はメニュー画面を開き、『ログアウト』のボタンを押し込む。
次の瞬間、私の視界から美しい星空も、きらめく海も、そして何より愛おしいハルトの姿も、すべてが容赦なく消え去った。
「……っ」
ヘッドマウントディスプレイを外した瞬間、ドッと押し寄せてきたのは、現実の重力と、凍りつくような部屋の静寂だった。
カーテンの隙間から、うっすらと青白い深夜の闇が見える。私はベッドに倒れ込み、シーツを強く握りしめた。
さっきまで、私は確かにハルトの隣にいた。彼の声を聞き、彼の存在を感じていた。
なのに、今の私の手の平には、冷たいシーツの感触しかない。
「寂しい……会いたいよ、ハルト……」
涙が、こめかみを伝って耳の後ろへと流れていく。
物理的な距離がどこにあるのかも、彼が本当はどんな名前で、どんな顔をして生きているのかも知らない。この世界でどれだけ「大好き」だと叫んでも、ログアウトしてしまえば、私はただの孤独な幽霊に戻ってしまう。
この想いをハルトに伝えてしまいたい。でも、伝えてしまったらどうなるだろう?
「現実の私」を知られたら、彼は幻滅するかもしれない。あるいは、この心地よくて優しい「フレンド」という関係すら壊れて、明日からいつもの海岸に、彼は来てくれなくなるかもしれない。
『壊れるくらいなら、このままでいい』
私は、自分の本当の気持ちに鍵をかけた。ハルトの前では、いつも明るくて、ちょっとお茶目な「コハク」でい続けよう。本当の気持ちは、この電子の海の底に深く沈めて、誰にも見せないように隠しておこう。そうやって自分を納得させることしか、臆病な私にはできなかった。




