第二章:触れられない指先と、募る恋心
私たちがいつも行くのは、世界の果てにあるような、静かな夜の海岸のワールドだった。
ザザーン、ザザーンと規則正しく流れる人工的な波の音。頭上には、現実の都会では絶対に見ることのできない、圧倒的な密度の天の川が広がっている。
私たちはいつものように、波打ち際に置かれた古い流木に、並んで腰掛けた。
「ねえ、ハルト」
私は自分の膝を抱え、巨大な銀河を見上げながら、心の奥に溜まっていた言葉をぽつりと溢した。
「ここにいるとね、時々、現実の方が偽物なんじゃないかって思えてくるの」
「現実が偽物?」
ハルトが不思議そうに、でも真剣にこちらを振り返る。彼のアバターの視線が私に向くのが、システム上の挙動だと分かっていても、嬉しかった。
「そう。だって、現実の私は、いつも誰かの目を気にして、言いたいことも言えなくて、仮面を被って息をしてる。でも、このキツネの姿をしているときはね……不思議と、心の中が空っぽになって、本当に素直な自分でいられるの。変かな」
現実の私が言えば、「何を夢みたいなことを言っているんだ」と一蹴されるかもしれない。でも、ハルトなら分かってくれる、そんな確信があった。
「変じゃないよ」
ハルトは静かに、でも包み込むようなトーンで言った。
「僕も同じだから。現実の僕は、ただの仕様書を処理する機械みたいなものだ。でも、ここでコハクと話しているときは、自分がちゃんと『人間』として生きている気がする」
「……ありがとう」
その言葉が嬉しくて、愛おしくて、私は無意識にアバターのコントローラーを操作して、尻尾をパタパタと揺らした。彼はいつも、私の剥き出しの言葉を、そのまま優しく受け止めてくれる。
恋なんて、肉体があるからこそするものだと思っていた。
手を繋いだときの体温、抱きしめられたときの心臓の音、唇が触れ合ったときの柔らかさ。そういう物理的な刺激があって初めて、人は人を好きになるのだと。だから、バーチャルの世界で誰かに恋をするなんて、ただのデータの錯覚に過ぎないと、どこかで自分に言い聞かせていた。
でも、もう誤魔化せなかった。
私は、ハルトに恋をしていた。
彼がログインしてくるのを待つ時間の、あの胸が焦がれるような感覚。
彼の声を聞いた瞬間に、体中の血が巡るような心地よさ。
初めて話したはずなのに、なぜかずっと前から知っていたような、どこか懐かしいお母さんの腕の中にいるような絶対的な安心感。
「ハルトといると、すごく落ち着く」
私は、抑えきれなくなった気持ちに流されるように、そっと彼のアバターへと肩を寄せた。
画面の中で、私たちのポリゴンが近づく。でも、システム上の衝突判定のせいで、ある一定の距離からは近づけない。アバター同士がカチッと止まる。
現実の私の部屋は、エアコンの風が虚しく響くだけで、誰も隣にはいない。衣服が擦れる音も、彼の体温も、何ひとつ伝わってこない。
それなのに、私の胸の奥は、火傷をしそうなほど熱くなっていた。
「もっと近づきたい」「もっと彼を近くに感じたい」。触れられないという事実が、皮肉にも私の恋心をさらに深く、激しく募らせていく。




