第一章:肉体という名の檻(おり)
VRChatにあるかもしれない…そんな物語
現実の世界は、私にとって冷たくて、重くて、息をするだけで擦り切れてしまうような場所だった。
「……はい、すみません。すぐに対応します」
何回目かも分からない謝罪の言葉を口にしながら、私はパソコンの画面に向かって頭を下げていた。現実の私は、地方の小さな事務所で事務員として働く、どこにでもいる、そして誰からも特別に必要とされていない二十代の人間だ。
現実の肉体は、私を裏切る。緊張すれば声が震えるし、他人の冷たい視線を感じれば心臓が嫌な音を立てて脈打つ。嫌われないように、波風を立てないように、いつも愛想笑いの仮面を被って、自分の本当の気持ちを喉の奥に押し込んで生きていた。
他人の目が怖かった。すれ違う人々が、私の肉体を見て、値踏みし、値札をつけるような感覚がして堪らなかった。いつしか私は、自分の殻に閉じこもるようになっていた。
仕事を終え、疲れ果ててアパートに帰宅する。鍵を閉めた瞬間、世界のすべての光が消えたような、深い孤独が部屋を支配する。誰もいない、何も聞こえない、冷え切った部屋。
「……もう、疲れちゃったな」
そんな夜、私にとって唯一の救いであり、本当の「居場所」となるのが、ヘッドマウントディスプレイを被った先に広がる仮想世界――『VRChat』だった。
電源を入れ、暗闇の中に光が走る。
ロードを終えた視界に広がったのは、現実の狭い部屋とは対照的な、どこまでも広がる美しい星空。そして何より、私を現実の檻から解放してくれる、白を基調とした淡いドレスを纏い、狐の耳と尻尾をつけた少女のアバター――『コハク』の姿だった。
この世界にいるときだけ、私は「コハク」として息ができる。
現実の私の見た目も、年齢も、不器用な性格も、ここにはついてこない。ただそこにいるだけで、誰かが「コハクちゃん」と呼んでくれる。私は、自分が選んだ美しいポリゴンの身体を纏って、初めて自分を好きになることができた。
けれど、そんな風に割り切って楽しんでいた仮想世界で、私は「彼」に出会ってしまった。
『ハルト』。
灰色の髪をした、いつも物静かで、どこか寂しげな雰囲気を纏った青年のアバター。
彼がいつものワールドの片隅にぽつんと立っているのを見つけたとき、私の胸の奥で、経験したことのない小さなノイズが走ったのを覚えている。
「あ、ハルト。お疲れ様」
アバターの視界を彼の方へ向け、私は意識して明るい声を出す。
本当は、彼を見つけた瞬間に、冷え切っていた私の心がじんわりと温かくなるのを感じていた。でも、その気持ちを悟られないように、いつものようにフレンドとしての仮面を被って、私は微笑む。
「こんばんは、コハク。今日も早いね」
ハルトの落ち着いた、少し低い声がイヤホンを通じて耳に届く。その声を聞くだけで、今日一日、現実で浴びてきた冷たい言葉の雨が、すべて洗い流されていくような気がした。
「ううん、私もさっきログインしたところ。今日は一段と現実が寒かったから、早くここに来たくて」
これは嘘じゃない。現実が寒ければ寒いほど、私はハルトのいるこの場所に焦がれてしまう。彼がどんな現実を生きているのか、私は知らない。それを聞くのは、この世界の暗黙のルールに反するから。でも、知らなくてもよかった。私は、私の目の前にいる、優しくて少し不器用なハルトという「存在」そのものに、どうしようもなく惹かれていたのだ。




