第3夜 大人になるということ
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大人になるとはどういうことか。
二十歳を越えれば大人なのか、社会に出れば大人なのか、家庭を持てば大人なのか。
人によってその定義は様々だろう。そこに決まった答えはない。
個人的には、大人になるということは身体的な成長以上に精神的な成熟というファクターが太宗を占めているのではないかと思う。
『目の前の相手としっかり向き合え。それが出来ないならお前を殴る』
『正しさを見過ごす人間にはなるな。もしお前がそんな人間になってしまったら殴る』
唐突になんだよと思われるかもしれないが、これらは僕が幼少期から親から受けてきた言葉の数々である。
僕の家は割合厳格な方で、物心がつく前から事あるごとに人間としての正しい在り方を説かれてきた。
僕自身、暴力を全肯定するつもりはないが、家庭内のしつけは大なり小なりどこの家庭でもあるものだろうし、時には必要な対応だとも思う。
しかし説教のたび、語尾に『お前を殴る』と付け加えるのは、さしもの山下真司でもやり過ぎだと感じることだろう。
おかげさまでこれらのフレーズは、まっさらな白い布に色を染み込ませていくように、少しずつ僕の心の奥底に沈澱していき、厄介なことにいつしか全ての行動の原理を形取るようになってしまった。
今や何をするにもこれらの言葉たちが脳裏を反復横跳びしてくる始末で、ここまで来るともはや呪いと言っても過言ではない。何より、その状況に対して違和感を感じなくなってきているのが最も恐ろしい。これが洗脳というやつかね。
実際のところ、僕の根幹を為すこの性格が原因でこれまで様々な経験をしてきた。
時には人から気に入られることもあったが、その一方で疎まれたことも決して少なくはない。
子どもの頃の僕はいつだって自分を曲げることができなかった。それが間違っていたとは今になっても思わないけれど、もう少し上手にやれたんじゃないかという思いは今でも抱えている。そう思えることこそが精神的な成熟――大人になるということなのかもしれない。
「なあ、遠野。僕は大人だと思うか?」
「その質問をするようではまだ大人とは言えないんじゃないですかね」
「言うじゃねぇか」
座椅子の背もたれに体重を預けて優雅にタブレット端末をいじる遠野が、こちらに視線を寄越すことすらせずノータイムであっさりと答えた。
遠野は僕と同じ大学の一つ下の後輩で、同じバイトの仲間でもある。今年の四月、入学とほぼ同時期に僕の勤める居酒屋バイトに応募してきたのが最初の出会いだ。今現在が九月なので、だいたい半年くらいの付き合いになる。
先輩やバイト先の社員に対しても常に歯に衣着せぬ物言いをするヤツで、一見するととっつき難いタイプにも思えるのだが、常に本音をぶつけてくる遠野と交わす会話はなかなかどうして楽しかったりする。きっとそれはこいつが踏み越えちゃいけない一線を弁えているからなのだろう。
遠野自身は僕に比べると小柄な体格をしているのだが、しかしどんな相手にも物怖じしない胆力は相当なもので、酔っぱらったお客さんにも冷静かつ毅然として対応してくれる男らしい一面には僕も何度か助けられたことがある。
もともと顔の造詣が中性的で整っているということも相まって、バイト内ではそこそこモテているらしく、特に年上からの人気は凄いようだ。
同じ大学、同じバイトであることに加えて、アニメや漫画という共通の趣味(特にエロ漫画が好きらしい)もあって僕たちはすっかり意気投合し、今日に至るまでにほとんど学年の違いを感じない友だち付き合いを続けてきた。
今日も今日とて僕の所持する電子書籍を漁るため、一人暮らしをする僕の家で寛いでいるというわけだ。
「どしたんですか急に。童貞でも卒業しましたか」
「どどどど童貞ちゃうわ!」
いやしかし今朝の体験はどうだろう。
僕はその理論は絶対に認めてないことにしているけれど、仮に童貞卒業が即ち大人になるということならば、今の僕は大人の階段を4段くらい昇ったことになるのだろうか。そこらの大人が貞操帯を装着される経験をしているとは思えない。しかも自由意志なしでだ。全部で何段の階段なのかも知らないけれど、限りなく天井に近いと言えるのではないだろうか。嬉しくもなんともないけれど。
そんなニュアンスを孕んだ僕の逡巡を嗅ぎつけたか、遠野は怪訝な表情を浮かべる。
「なに、マジでなんかあった感じです? 水臭いなあ。言ってくださいよ。自分と村崎さんの仲じゃないですか」
「んー……」
こいつ、こういうところは鋭いんだよなぁ。
言うべきかどうか悩ましいところだ。まぁでも遠野は物理的に容疑者足り得ないわけだし言ってしまっても問題ないか。
……というのは半分くらい建前。
本音を言えば、誰かにこの悩みを共有したくて仕方がなかった。一人で抱え続けるにはあまりにも問題が大きすぎるのである。
たとえ恥ずかしくとも、それでも打ち明けることを僕は選ぶ。
「いやぁ、実はさ」
そうして僕は滔々と語り始めた。
昨日の晩――正確には今日の未明だが――の出来事を覚えている範囲で伝えていく。
最初は胡散臭そうに、半ば疑いながら聞いていた遠野だったが、僕の様子から冗談を言っているわけではなさそうだと察したか、その表情は次第に曇っていく。
僕が語り終えると一言、
「それ、住居侵入罪、強制わいせつ罪、監禁罪、その他諸々でカンペキ豚箱コースですよ。今すぐ警察に相談することをおススメします」
真面目くさった表情でそう言った。
遠野は法学部だ。
「はあ、まぁそりゃそうだよなぁ」
「なんですか。どんな反応を期待してたんですか。ていうか村崎さん、なんでその状況で焦ってないのイミフすぎません? マジな話、割とヤバめの状況だと思いますけど。普通、ノータイムで警察でしょう」
「そう見えるか? いやぁ、これでも結構真剣に悩んでるんだぜ。文字通りというか物理的に貞操の危機なわけだし」
僕の言葉に納得していないらしい遠野は怪訝な表情を浮かべると、「あっ」と何かに気付いたように声を上げた。
「もしかして、好意を向けられて喜んでたりします?」
「ん、いや、そういうわけじゃない、けど――ただ、そいつからは少なくとも敵意みたいなものは感じなかったからさ、なんつーか大事にはしづらいんだよな。それに、まぁ、なんだ、お前の言う通り、好意を向けられて嬉しいという気持ちが全くないと言ってしまうと嘘にはなる」
遠野は俺の言葉にドン引きしたのか、机の上に乗り出していた身体を引っ込め、最大限俺から遠ざかろうとするように上半身を座椅子の背もたれに押し付ける。
「……いや、これは決して鼻の下を伸ばしてるとかそういうのじゃないからな? 行為自体は別として、好意を向けられること自体を嬉しいと思うのは普通の感情だろ?」
「チョロいなこの人」
人に好意を向けられるというのがどういうことか、モテるやつにはわからんのだよ。
それがどんなシチュエーションであろうと嬉しいものは嬉しいのだ。
遠野はやれやれと首を小さく振ると、ため息交じりに続ける。
「無断で家に上がり込むとかは、まぁ自分も村崎さんの家に限って言えばよくしていることなのでさておくとしても」
「都合のいいところはさておくのな」
「寝てる間に貞操帯を装着させるってのはさすがに一線を越えてるでしょう。自分がそれをやられたら迷わず警察に駆け込みますよ」
「そりゃあ、お前はそうだろうよ」
「チョロQ村崎さん以外はみんなそうしますって」
「でもさ、その犯人ってほぼ確定的に僕の知り合いっぽいんだよな。そういう意味でも、まずは僕自身の力で犯人を見つけだしたいとは思うんだよね」
「ふぅん。ま、話を聞く限りその可能性は高いでしょうし、気持ちはわからなくもないですけどね。見知らぬストーカーの線もゼロではないとは思いますが」
「いやぁ、ないと思うけどなぁ。僕の知り合いじゃないなら変声機を使ってまで声を隠す理由がないだろ。それに、あまりにも僕のことを知りすぎてる」
たとえば、僕が飲み会の最中に寝てしまうとなかなか起きられないことをそいつは知っていた。
これはただのストーカーには知り得ない情報だと思う。
あるいは、『僕がなかなか彼女を作ろうとしないから痺れを切らした』という発言もその証左だ。
これが僕と接点のないストーカーの発言であるとは到底思えない。
そもそも、ただのストーカーなのだとしたらこんな回りくどい手は使わずに、眠りこけている僕を拘束した時点でもっと別の手段を取ることもできたはずである。
「それで、村崎さんはこれからどうするつもりなんです? 関わりのある女の子に片っ端から声をかけていくとか?」
「そんな節操のないことをやったら僕の人間関係終わるわ」
「心当たりとか、仲の良い女の子とかいないんですか」
「お前と違って生憎な。少なくとも『こいつ僕のこと好きなんじゃねぇの?』とか勘違いしちゃうような相手はいないな。かと言ってむやみやたらに声掛けするわけにもいかないし、正直打つ手がねーよ」
僕がそう言うと、遠野はパチンと指を鳴らした。
「そう落ち込むこともないですよ。ある程度容疑者の候補は絞れると思うんです」
「ほう? 言ってみろ」
僕が促すと、遠野は得意げに鼻を鳴らす。
「その犯人とやらは村崎さんがお酒を飲むと深く眠り込んでいるのがわかっていて昨日を決行のタイミングに選んだわけですよね? だとしたら、そういう飲み会が開催されることを知っていたというのが大前提になると思うんです。いくら村崎さんが眠りの深いタイプだとしても、素面の状態で服を脱がされたら流石に起きてしまうでしょう?」
「まぁ、さすがにそこまで鈍感じゃないと信じたいね」
「自分の知る限り村崎さんはそこまで毎日飲み歩くような人でもないですし、だとするならばきっと犯人は偶然ではなく計画的に昨日を犯行の日に選んだのだと思うんです。なので、まずは昨日の飲み会の参加者、あるいはその飲み会が開催されることを知っていた人に対象を絞ってしまっていいじゃないかと」
「なるほど」
「もっと言えば、村崎さんが潰れた飲み会に参加したことがある人って条件でも絞れそうですけど……まぁ。村崎さんって飲み会のほとんどで潰れてる印象なので、そっちはあんまり役に立たないですかね。自分も何回介抱したかわからないですし」
「いやぁ面目ない」
僕が下戸なのはともかく、遠野の分析は基本的に正鵠を射ているように思えた。
この推論通りなら、対象となる人物はそれなりに絞れるだろう。
そこから僕との接点が強い人物から順に考察していけば、いずれ真犯人に辿り着くかもしれない。




