13話「加担」
田中夏目が西東真夏の自宅を訪ねることに、取り立てて深い事情などはなかった。ごく単純に、借りていた本を返すためだ。土曜日の朝、十時をまわったころのこと。午後から部活の練習があるため午前中のうちにと思い、久しぶりに真夏の家まで赴いたわけだが、家の前に到着したころになって、夏目は少しばかり躊躇した。
なぜ、と問われるとうまく答えられない。しかし、それでもたしかに、夏目はここ最近の、自らを周囲を取り巻く空気のかすかな異変を敏感に感じ取っていたのだ。いつも一緒にすごす顔ぶれのうち、蒼と真夏、二人の様子がなんだかおかしい。具体的な根拠などは一切なく、ただの直感でしかなかったが、それがあながち間違いでもなかったということを、一昨日の木曜日の放課後に知った。
自分の知らないところで、なにかが起きている。だが、真夏はそれを夏目に教えてはくれないし、夏目もまた、しつこく問いただすことをできずにいる。ひとえに、気弱な性格ゆえのことである。なので、なんだか勝手に、顔を合わせることに気まずさを感じていたのだ。
本は昨日のうちに返すつもりだったが、真夏が急に欠席したため、ついぞ夏目と会うことはなかった。あとで香から聞いた話によると、真夏は昼に学校へ来ていたらしい。にもかかわらず、教室へ一歩も入ることなく、そのまま帰ってしまったと。最近の妙な動きに関係しているのかと思うと、なにをしていたのか、なんのための行動だったのか、やはり気になった。気になる。知りたい。だが聞けない。聞いたところで教えてもらえるかどうかも怪しい。
このためらいは、不安と迷いだ。
夏目がインターホンに指を触れたり、離したりを繰り返しながら、ぐだぐだと十分ほどの時間を無駄にしたとき、唐突に玄関の扉が開いた。びく、とおどろきが肩に現れる。開いた扉の隙間から、大柄の青年が、ぬっと姿を見せる。
黒い生地にピンクのラインが入ったジャージに、ラフなサンダルをひっかけた、部屋着のような服装。髪色は明るく、耳にはピアス穴が左右ともに二つか三つは開いている。夏目より十センチほど背が高く、おそらく百八十はあるだろう。体つきはしっかりしており、なにかスポーツをやっていたことが容易に想像できる。歳は十九。大学生だ。
青年は、外に立ちつくす夏目を見ると、おっ――とびっくりしたような声をもらした。
「夏目くんじゃん、びっくりした、なにしてんの?」
「あ、お、おはようございます、真冬さん」
彼――西東真冬は他でもない、真夏の実の兄である。やや身なりが派手で、気が強く、なんだか人生を楽しそうに生きている、気楽な人だ。真冬は一度、前髪をかきあげると家の中を振り返り、ああー、と思いついたような声を出した。
「真夏? いるよ。呼んでこようか。遊びに来たの?」
「いえ、あの、本を返しに来ただけなので」
「あーね、ま、そんじゃ、ちょっと待ってて」
一旦、家の中に引っ込み、それからすぐに出てきた真冬は夏目に、もうじき来るから、とだけ言い残すと、自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。外に出てきたのは、ポストに入ったままの新聞を取りに来たのかと思っていたが、どうやら、どこかへ行くところだったらしい。
夏目は真冬と仲がいいわけではないが、中学のときにはじめて目にして以来、街でばったり出会えば世間話をする程度の仲となった。話の内容はほとんどが部活の話と真夏の話なのだが、真夏が真冬と――というより家族と――あまりうまくいっていないのを知っているため、踏み込んだ話をする勇気が出ないことと、真冬がよく喋る男なのもあり、夏目が聞き手にまわることのほうが多い。
うまくいっていない、というのは大げさかもしれないが、真夏は家族の前では非常に無口らしいのだ。なにも言わず、表情も出さず、関わろうとしない。真夏が一方的に溝を作っている印象なので、反抗期のようなものだろうと解釈している。真夏のことを考えると、余計なことは言わないほうがいいだろうと、真夏に対する認識の相違にも話を合わせている。そのため、真冬は真夏が、本当はよく話し、よく笑う男ということを知らない。
真冬が去って二分ほどすると、ゆっくりと玄関の扉が開いた。中学時代の体育で使用していたジャージを着た真夏が顔を出す。卒業以降は寝間着として使っているのだろう。外の明るさに目を細めながら、真夏は夏目を見た。
「おう」
「おはよう、真夏。……今起きたの?」
「……まあ、うん」
いつもより元気がないのも起きたばかりだからだろう。声もややかすれている。夏目も、なにもない休日は遅くまで寝ていることもあるが、それでも今の時間には起きている。真夏がどんな夜更かしをしているのか、あるいは単純に必要とする睡眠時間が長すぎるだけなのかは知らないが、とにかく、よく寝るやつだな、と思った。
「あの、本、返しに来たんだけど」
「うん、そう」
夏目が差し出した本を真夏が受け取る。本来なら、もうこれでここに留まる理由はない。夏目がなにも言わなければ、真夏もこのまま、じゃあ、と言って扉を閉めてしまうだろう。いや、それが普通だ。それでかまわないはずだ。夏目は本を返しに来ただけ。なら、本を返してしまえばすることがないのは当然。部活に遅れてもいけないので、このまま切り上げて帰ったほうがいい。
「あのさ」
帰ったほうがいい、のだ。
「ナズナが……怪我したって本当?」
本当もなにも、香や千秋も言っていたことだし、蒼もそのことでいろいろあるのか、昨日は学校を休んでいた。たいした怪我ではないらしいが、どうしても心配だった千秋は昼頃に早退して、お見舞いに行ったらしい。
「ああ、本当だよ。つっても、月曜には普通に学校来れるらしいけど」
「そ、そっか。あんまりひどい怪我にはならなかったんだっけ?」
「ま、ちょっとした切り傷だな。傷の様子を見つつ……それでも、すぐに退院できるそうだ」
「よかった。俺、お見舞い行けなかったからさ。大丈夫っていうのは聞いてたんだけど、やっぱ心配だったんだ。なにかの事故だったの?」
「いや、いきなり不審者にナイフでザクっとやられたらしい」
「不審者?」
「おうよ。お前も気を付けろよ。部活の帰りとか、結構遅くなるんだろ? 同じ町の中で起きた事件だ。犯人もまだ捕まってないし、なら無関係とも言えないからな」
「い、嫌なこと言うなよ。でも、それじゃあ、ナズナも怖かっただろうな」
「……まあ、な」
「……そういえばさ、人を捜してるって言ってたけど、どう? 順調?」
「なんとも言えないな」
三秒の間。
「今日は部活あるのか?」
「あ、うん。午後から。真夏はこれからどうするの?」
「午後から人に会う予定がある」
「そうなんだ。……あの、じゃあ、俺そろそろ帰るね」
「ああ」
うしろを向こうとする足が途中で止まった。夏目の動きに合わせて、真夏も扉を閉めようとした手を止め、こちらを見る。夏目はもう一度、真夏を見た。
「ま、真夏。真夏が最近なにをしようとしてるのか、なにを隠しているのかは、俺は知らない。蒼や山吹が変なのも、急に人捜しなんてしてるのも。真夏も、俺に教える気はないんだと思う。関係ないだろって言われたら、それまでだし。実際、そうだし……」
夏目はつい俯きそうになるが、すんでのところで顔を上げた。
「でも、やっぱり友達に、なにか起きてるのかもって思うと、どうしても心配で、気になるんだ。だから……今、話せないことなら、それは仕方ないけど、いつか――たとえば、その、人捜しとかそういうのが全部終わってさ、蒼や山吹になにかあるならさ、それがなにもかも解決したあと。いつかは……俺にも教えてくれる?」
「……ああ、いつかはな」
「そっか。なら……うん、もう口出ししないよ。でも、あ――あ、う」
「なんだ?」
言葉に詰まり、言いかけたところでやめる夏目を、真夏は見逃さない。ちら、と真夏を見る。彼は夏目の続く言葉を待っていた。観念し、飲み込もうとした言葉をしぼり出す。
「あんまり――あんまり、危ないことには、首を突っ込まないでね」
自分でも、どうしてこんな言葉が今、口から出ようとしたのかはわからなかった。彼がしようとしていることに危険が伴うかどうかすら、夏目にはわからない。そもそも、ただの人捜しに危険もなにもないはずだ。
それでも、なぜか、そう言っておきたい。言っておかなければならない気がしたのだ。




