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星詠みのコーデックス  作者: ねねねる
星のない空

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第9話 「先に行って」

地面に垂れ下がった肩紐に指をかけ、僕は右脇に置いていたリュックを膝元へと引き寄せた。身をかがめた途端に胃の奥がむかつき、しばらく前屈みのまま動けなくなる。隣ではユイナが伸ばしていた脚をゆっくりと引き寄せていた。




「フタバ、まだ気持ち悪い?」




僕は小さくうなずいた。




「少しね。ユイナは?」




ユイナは自分の膝を見下ろした。




「ひざ、まだ痛い。でも、歩ける」




「そっか」




それだけ言うと、ユイナは足元の小さなボトルへ視線を落とした。僕もリュックの底を地面につけたまま片腕を通し、身体を傾けて背中へと回す。もう片方の肩紐に腕が収まるまでにも、何度か息を継がなければならなかった。壁に肩を預けて腰を押し上げると、膝が細かく震えだす。


ユイナも壁につかまって立ち上がり、リュックのあった場所の向こうから小さなボトルを拾い上げた。僕が足を踏み出すと、痛む膝をかばいながら横へと並んでくる。壁をつたう指先にはざらついた灰が残っていた。


少し進んだところで壁の下部が崩れているのが見えた。


斜めに崩落したコンクリートの下に、地面すれすれの低い隙間がぽっかりと開いている。足を置く場所を確かめようと少し腰を落とすと、瓦礫の向こう側にも外の路面が見えた。ユイナも横からのぞき込み、ボトルを抱えた腕を膝へと寄せる。


身を伏せれば通れそうだった。けれど、僕が背負っているリュックがつっかえてしまうだろう。屈んだだけで膝ががくがくと震えだし、僕は壁にかけた指にぐっと力を込めた。一度そこに伏せてしまったら、向こう側でもう一度立ち上がる体力が残っているかどうかも怪しい。


道は数歩先で、分厚く張り出した建物の角を回り込むように続いていた。そちらなら立ったまま通り抜けられる。僕は膝を伸ばし、壁に身体を擦り寄せながら歩みを進めた。ユイナも隙間から顔を上げ、僕のあとをついてくる。


その角の向こうで硬いものが路面を擦る音がした。


僕は壁に添えていた腕を止めた。川のせせらぎに混じって、もう一度、がり、と路面を削るような短い音が響く。身体を少し横へずらして角の先をうかがうと、路面を掻き毟る硬い爪のような先端が見えた。


その奥から、横へと異常に張り出した巨体がゆっくりと姿を現した。身体全体を歪に傾け、硬い先端をアスファルトに食い込ませながら、じりじりと前進してくる。人が歩く姿とは何もかもが違っていた。


身体の前側には口なのか傷口なのかも分からない細い裂け目が走っている。そいつがこちらへと向きを変えるにつれ、その裂け目が横へゆっくりと裂けるように広がっていった。




――笑っているように見えた。


息が喉の奥で詰まった。壁を押さえた指が強張ったまま、ぴくりとも動かない。


ユイナの手の中でペットボトルがペコッと小さくへこんだ。開いた唇からは声が出ず、一歩後ずさろうとして膝を曲げたところで、そのまま動きが止まった。


僕はユイナを背中に庇おうと前へ出ようとした。けれど手のひらが壁に張り付いたように離れず、踏み出した靴の先が灰を擦るだけだ。肩をずらしても、もう片方の脚が鉛のように重くてついてこない。


異形の巨体が完全にこちらへと向き直った。硬い先端が地面を打ち付け、僕たちとの間にあった路面が一気に狭まる。


ユイナが弾かれたように振り返り、僕の袖を掴んだ。ボトルを抱えた腕が、さっき通り過ぎた壁の下――あの低い隙間を指差す。




「さっきの下、通ろ!」




僕は出しかけた足を強引に戻した。壁に肩を擦りつけ、ユイナが示した方へと身体を反転させる。すぐ背後で、地響きのような重い音が連続して響いた。


ユイナが張り出した角の内側へと回り込む。僕も壁すれすれをつたって必死に追った。横目に映った怪物の巨体は壁の角を削り、外側へと大きく膨らむようにして回り込んでくる。


隙間はもう目の前だった。先にたどり着いたユイナが振り返る。急いで足を動かしているつもりなのに、靴の先がちっとも上がらず、路面の凹凸に引っかかるたびに身体がつんのめりそうになる。壁に手のひらを押しつけて必死に支え直す間にも、怪物が壁を擦る不気味な音が背後へと迫っていた。


ユイナの視線が僕の背中へと跳ねた。




「リュック、引っかかる!」




ユイナが一度だけ、僕の目をまっすぐに見上げた。




「先に行って!」




ユイナは短くうなずき、小さなボトルを隙間の奥へと寝かせた。地面に両手をつき、膝の痛みに顔をしかめながらも、片脚を横へずらして素早く身を低くする。


僕は隙間の脇の壁に肩を押しつけ、その場に崩れ落ちるように腰を落とした。リュックの底が地面に激しくぶつかる。肩をすぼめて左腕を強引に引き抜くと、足元ではユイナがボトルを奥へと押しやりながら、肘を使って這うように身体を滑り込ませていた。


角の向こうからあの大きな身体がせり出してくる。


僕はもう片方の肘も肩紐から強引に引き抜いた。大切な荷物が詰まったリュックが入口の脇へと倒れ込む。ユイナの靴が奥へと消えていくのを見届けると同時に、僕は両手を地面につき、頭から隙間へと突っ込んだ。


コンクリートの鋭い縁が髪をざらりと擦る。腕を奥へと伸ばすと冷たい路面が腹を圧迫した。手のひらだけでは前に進めず、前腕全体を地面に擦りつけて身体を引き寄せる。隙間の外では硬い何かが路面を激しく打ち付け、その振動が腕の下の地面を通して直接伝わってきた。


腰のあたりまで低い縁をくぐり抜け、左足を引き入れる。残った右足を慌てて引き寄せたその瞬間、隙間の入口で硬いものがぶつかる鋭い音が弾けた。


背後から伸びてきた硬い先端が外に残っていた僕の右脚をかすめた。


布が裂ける音とともに、右のすねの外側へ熱い線を引かれたような鋭い痛みが走る。僕は悲鳴を噛み殺しながら膝を胸へと引き寄せ、靴ごと隙間の中へと強引に押し込んだ。


だが、前へ伸ばしていた腕が限界を迎えて身体を支えきれず、胸が地面へと落ちた。肺の中の空気が無理やり押し出される。手のひらを胸の下へ引き寄せて起き上がろうとした瞬間、今度は肩が上のコンクリートに激突した。


前へ進まない。身体を起こそうとするほど肩が上のコンクリートにつかえ、前へ送れなくなる。


目の先には、すでに外へ抜け出たユイナの靴が見えた。ユイナは出口の脇に屈み込み、隙間の奥の僕へと必死に顔を寄せていた。




「頭、下げて!」




言われた瞬間、僕は上へ押し上げようとするのをやめ、顎を地面に擦りつけるように伏せた。左腕を前方へ滑らせ、身体を少し斜めに傾けて肩からねじ込む。背中の布が上の縁を擦ったが、今度は引っかからずに抜けた。前腕に体重をあずけ、左のつま先で路面を押す。


ユイナが小さなボトルを出口の脇へ払い、スペースを空けてくれた。僕はそこへ片肩ずつ這い出し、腹を擦りつけながら腰を引き抜いた。傷ついた右脚が遅れて路面を滑り、ようやく両足が外へと抜け出る。


振り返ると怪物の巨体が低い縁に激突し、隙間の入口を完全に塞いでいた。隙間から伸びてくる硬い先端が僕の靴のすぐ近くで、狂ったように路面を掻き毟っている。




「行こ……!」




ユイナはボトルをひったくるように拾い上げ、出口から距離を取った。僕も手のひらで地面を強く押し、壁際へと這い寄って左足を身体の下へ引き入れた。壁にすがりついて腰を押し上げる。右足に体重がかかった瞬間、すねの外側の傷口が焼けるようにひりついた。


身体を壁に預けたままユイナの小さな背中を追って足を踏み出す。背後からは、コンクリートを打ち砕くような鈍い音がまだ響いていた。壁の端へたどり着き角を曲がると、ようやくあの隙間が見えなくなった。


足取りがもつれかけた僕をユイナが振り返る。ボトルを胸に抱きしめ唇を小刻みに震わせながら、逃げ道の先と僕の顔を交互に見つめている。僕は壁に手のひらをつき直した。無事な左脚でぐっと踏ん張り、痛む右足をかばいながら進む。


次の建物の角をもう一度回り込んだ。


あの硬い不気味な音は、壁に遮られて次第に遠ざかっていった。目の前には短く続く路地と崩れ落ちた壁の残骸が横たわっている。ユイナが足を止めてこちらを振り返るたび、僕はそこを目指して必死に足を運んだ。


やがて顔を上げておくことすらできなくなった。


壁に肩を預けたまま、ずるずると腰を滑らせて地面へと座り込む。息を吸い込もうとするたびに肩が激しく跳ね上がり、吐き出す息は途切れ途切れに震えた。背負っていたリュックはもうないというのに、腕も脚も重く、指先まで力が入らなかった。


ユイナも僕のすぐ隣へ腰を下ろした。小さなボトルを両手で抱え込み、痛む方の脚を前へと投げ出している。蓋を押さえている指先が、カタカタと細かく揺れていた。


僕は右脚へと視線を落とした。すねの外側のズボンが縦に細く裂け、布の縁がじわりと赤く湿っている。震える指先で裂け目を少し押し広げると、皮膚に刻まれた細い鮮血の筋が見えた。脚をわずかに動かしただけで擦れた布が傷口に触れ、びりびりとした鋭い痛みが走る。


ユイナの視線がその裂けた布と血へと注がれた。何かを言いかけて唇を引き結び、ボトルを握りしめた両手をそっと膝の上へと落とす。


荒い呼吸の合間に耳を澄ませてみたが、あの路面を擦る怪物の音はもう追ってこなかった。曲がってきた細い道にも、怪物の影は見当たらない。僕は後ろの壁へと後頭部を預けた。こめかみを突き刺すような頭痛は引かず、空っぽになった腹の奥からは、不快なむかつきが何度も波のようにせり上がってくる。


しばらくして僕は壁に手のひらをつき、左足を腰の近くへと引き寄せた。腕に全体重を込めたものの、腰がわずかに浮いたところで肘から力が抜け、再び地面へとへたり込んでしまう。


ユイナが心配そうに顔を向けた。




「……まだ、立てない」




言い終える前に息が途切れ、僕は膝の脇へと力なく腕を落とした。ユイナも立ち上がろうと曲げかけていた脚をゆっくりと伸ばし直し、ボトルを抱えたまま壁へと背中を預ける。


アスファルトのひび割れをじっと見つめながら、途切れそうな息を何度もつないだ。手首を小さく回してから、もう一度壁に手のひらを当てる。今度は左足をさらに身体の真下へと深く入れ、壁に押し当てた両腕と一緒に全身で踏ん張った。


腰が持ち上がる。左脚にほとんどの体重を預けたまま、傷ついた右の靴をそっと地面に下ろした。膝が伸びきっても背筋を伸ばす余裕はなく、壁から身体を離すことができない。


ユイナもボトルを片手に持ち直し、立ち上がってくれた。ほんの二、三歩だけ先へ進んだところで立ち止まり、そのまま僕を振り返る。


僕は左足を前へと滑らせ、痛む右足を引き寄せた。さらにもう一歩踏み出そうとした瞬間、手のひらが壁をずるりと滑り落ち、前腕全体を壁に押し当ててなんとか倒れ込むのを防いだ。痛む右足を慎重に置き直し、すぐに左脚へと体重を逃がす。


ユイナが待ってくれている方へ。


僕は右の靴を灰の上でもう一歩だけ滑らせた。

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