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星詠みのコーデックス  作者: ねねねる
星のない空

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第8話 「ふたりの間」

ユイナのすぐそばまでたどり着くと、僕は角の壁に肩を預け、鉛のように重い腕を下ろした。指先を曲げようとするだけで、肘から肩にかけて鈍いだるさがじんわりと広がる。


ユイナが角の向こうをそっと指し示したので、僕も壁にすがりながら少し身体を乗り出した。川沿いの道はまだ先へと続いていて、すぐ近くの壁が浅く引っ込み、その足元に低いコンクリートの縁が残っていた。




「そこ、座れる」




僕はうなずいて角を曲がり、ユイナが指してくれた場所まで壁伝いに足を引きずった。コンクリートの縁の前で身体を横に向け、手のひらで支えながらゆっくりと腰を下ろす。肩紐を片方ずつ外してリュックを膝元へ降ろすと、ユイナも隣に腰掛け、痛む方の脚をそっと前へ伸ばした。


足を寄せ直したとき、縁の端に立てかけられた薄い板の陰に丸いプラスチックの蓋が見えた。板の隙間をのぞき込むと透明なボトルの胴が横たわっている。縁を手で押さえたまま腕を伸ばすと飲み口のあたりに指が届いた。僕はそこをつまみ、慎重に引き出してみた。


小さなペットボトルだった。容器にひびや割れはなく、剥がれかけたラベルにはかすかに『水』の文字が残っている。軽く傾けると澄んだ水が揺れ、その向こうにラベルの裏が透けて見えた。蓋の下の細いリングもまだちぎれずにつながっている。未開封のまま残されていたらしい。


ユイナの瞳がそのボトルをじっと追っていた。僕が差し出すとユイナは両手で大切そうに受け取った。けれど、蓋に指を添えたところで動きを止めて僕を見上げてきた。




「フタバは?」




僕は膝元に置いたリュックへ視線を落とした。




「僕はあるから」




ユイナは小さくうなずきボトルの蓋をひねった。ぱちっ、と小気味のいい音が響く。外した蓋を片手に握りしめたまま、飲み口をそっと唇へと寄せた。


ごくりと少し傾けては口を離し、息を整えるように呼吸を繰り返す。一気に飲み干すことはせず、やがて蓋を閉め直すとまだ半分以上水が残ったボトルを自分の脇に置いた。


僕はリュックを開き、口を折りたたんであったビスケットの小袋を取り出した。折り目を広げると、乾いた粉が袋の内側をさらさらと滑り落ちる。それを見ているだけで胃の奥がきゅっと切なく縮んだ。僕は袋の口を広げ、ユイナの方へと向けた。


ユイナは袋の中をのぞき込み、指先で小さなひとかけらをつまみ出すと端から大切そうにかじり始めた。僕も小さく割った欠片を口に放り込む。歯の間で乾いた音が響き、舌の上にかすかな甘みが広がった。


けれど、いくら噛んでも細かな粉が上顎にへばりついてしまう。唾液で湿らせようと舌を動かしても口の中にざらつきが広がるばかりで、なかなか喉を通らない。隣ではユイナが小さく口元を動かし、手に残したビスケットをまた少しかじっていた。


小袋を膝の上に置き、僕はリュックの奥へ腕を差し入れた。


取り出したボトルの中で濁った灰茶色の水がゆらりと揺れた。


ユイナがかじる手を止めた。ビスケットをつまんでいた指をそっと膝まで下ろし、僕が取り出したボトルをじっと見つめている。




「それ、飲むの?」




僕は口の中に残るビスケットの粉を頬の内側へ寄せ、小さくうなずいた。




「……川の水」




ユイナの瞳がボトルの水から僕の顔へと戻った。ユイナは何も言わず自分の脇に置いていた小さなボトルを拾い上げると、僕の膝のすぐ横へとコトンと置いた。




「こっち、まだある」




透明なボトルの中で澄んだ水面が静かに揺れている。僕は灰茶色の水が入ったボトルの蓋に指をかけたまま、差し出された透明な水を見つめていた。顔を上げると、ユイナは膝の上に残していたビスケットをそっと持ち直し、何事もなかったように視線を落としていた。


僕は灰茶色の水が入ったボトルを、蓋を開けないまま地面の脇へ置いた。それから膝の横へと腕を伸ばし、ユイナがくれた小さなボトルを手に取る。


蓋を外し、飲み口を唇にあててほんの少しだけ傾けた。口に含んだ透明な水が舌にこびりついていた粉を湿らせ、固まっていた欠片を優しくほどいていく。僕はそれを喉の奥へ流し込み、ゆっくりと飲み込んだ。


唇を離してしっかりと蓋を閉め、残りの水が入ったボトルをもとの場所、ふたりの間へと戻した。お腹はまだ減っていてビスケットをもう少し口にしたくなる。けれど袋をのぞき込もうと身をかがめた途端、胃の奥に居座っていたむかつきがぐっとせり上がってきた。僕はあきらめて腕を膝の上へ戻し、唇を固く結んだ。


ユイナは手にしていたビスケットを食べ終えると、僕の膝の上の袋からもうひとかけらだけつまんだ。口元へ運び、またゆっくりと噛み始める。


僕は背後の壁へ後頭部を預けた。まぶたを閉じてもこめかみの奥がずきずきと痛み、膝の細かな震えがズボン越しに伝わってくる。隣からはただ、サクサクと小さくビスケットをかじる音だけが聞こえていた。


ユイナが食べ終えたのを見届け、僕は残りをこぼさないよう丁寧に小袋の口を折り直した。灰茶色の水が入ったボトルと一緒にリュックの奥へと収める。透明な水のボトルだけが僕たちの足元に静かに残された。




川の流れる音を聞きながら、僕たちはしばらくじっと座り込んでいた。吹き抜ける風が路面の灰をなで、ユイナの靴の先へと細く吹き溜めていく。


やがて僕はリュックのファスナーを閉め、片腕を肩紐へと通した。けれどリュックを背中へ回そうとしただけで腕から力が抜け、底をコンクリートの縁へ戻して動きを止めてしまった。


ユイナが小さなボトルを引き寄せ縁の上に置く。縁に両手をついて立ち上がろうとしたそのとき、僕はたまらず声を漏らした。




「もう少し、待って」




ユイナが動きを止めてこちらを見つめる。僕は肩紐を握りしめていた指を緩め、再び壁へと背中を預けた。


ユイナも腰を下ろし直し、痛む方の脚をゆっくりと前へ伸ばした。擦り傷に触れないよう服の裾をそっと持ち上げて伸ばした足の位置を調整している。


僕は膝を引き寄せ、深く息を吐き出した。腕をだらりと下ろしたまま縁から垂れ下がった肩紐をぼんやりと見つめる。


しばらくして呼吸が整うと身体をゆっくり起こし、リュックを背中へと回した。もう片方の腕を通し、壁に手のひらをつき直して足の裏で地面を踏みしめる。ぐっと身体を押し上げるが、膝が伸びきっても手は壁から離せない。肩を壁に預けたままユイナの方へと視線を向けた。


ユイナはまだ伸ばしていた脚を引き寄せている途中だった。僕は壁にすがったまま急かさずに待った。やがてユイナも縁に両手をついて立ち上がり、壁に手をついて身体を支えながらもう片方の手でボトルの首をつかむ。僕と目が合いうなずき合って足を踏み出すと、ユイナも少し遅れてついてきた。


歩き始めるとやはりユイナの方が少しずつ前へ出た。片手にぶら下げた小さなボトルが歩調に合わせて脚の横で揺れている。建物の壁が途切れるたびに僕が立ち止まるとユイナも歩みを緩めてくれた。次の壁に指が届くのを確認してから、僕は重い足を引きずるように進む。


そうして何度か足を運んだところで、ユイナの靴底が路面の灰を擦る音が長く続いた。


ユイナは数歩先で立ち止まり、じっと足元を見つめていた。アスファルトの継ぎ目にあるほんのわずかな段差。痛む方の膝を曲げて越えようとしては痛みに顔をしかめ、足を引っ込める。もう片方の足から踏み出し直したものの、傷のある足は引きずるように遅れてついてきた。


僕は一歩前へ進み、ユイナのすぐ隣へと寄り添って壁に手のひらをついた。さらに先へ踏み出そうとした足を止め、すぐ脇を見やる。そこにはふたりで脚を伸ばして座れそうな平らなスペースが残されていた。




「少し、座ろう」




ユイナは僕が見つめた足元へ視線を落とし、小さくうなずいた。


壁を支えにして腰を落とすと、リュックの肩紐が首筋へと食い込んだ。片腕ずつ抜いてリュックを右の脇へと滑らせる。ユイナはそのリュックの向こう側に小さなボトルを置いた。それから空いた手のひらで壁を支えながら、僕のすぐ隣へと腰を下ろす。


ユイナは怪我をした脚をいたわるように前へ伸ばした。僕は震えの止まらない膝を少し曲げ、靴を身体の近くへと引き寄せる。リュックから垂れ下がった肩紐の先が灰の積もった地面の上に落ちていた。




その肩紐のすぐ脇に、蓋をきっちりと閉めた小さなボトルがちょこんと立っていた。

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