第7話 「小さな手」
橋の柱から指を離しても腕から肩にかけて重いだるさが残っていた。数歩先の建物までなんとかたどり着き、壁に手のひらをつくと僕は顔を伏せた。脚の震えは止まらず、背中ではリュックの中のボトルが硬く当たっている。
壁沿いの細い道には、すぐ横を流れる川の音が響いていた。もう少し進もうとしたけれど靴の先が持ち上がらない。お腹は空いているのに身をかがめると胃の奥から不快なむかつきがこみ上げてきた。ビスケットはまだ残っている。けれど、今はリュックを下ろして取り出す気力すら湧かなかった。
近くに道から少し奥まった戸口があった。床と路面の間には低い段差があり、その端なら戸口の枠につかまったまま腰を下ろせそうだった。僕は壁に身体を擦り寄せるようにして、入口の脇まで足を運んだ。
腰を下ろしかけたとき、奥から何かが擦れるような音がした。
僕は枠をつかんだまま音のした方へ顔を向けた。入口の内側、折れ曲がった壁の端に小さな指がかかっている。きゅっと爪を立てるように丸まったかと思うと、指先はすぐに奥へ引っ込んだ。
「……誰か、いるの」
声をかけたものの、奥へ踏み込む余裕はなかった。肘が小刻みに震えはじめ、僕は枠にすがったままゆっくりと腰を落とす。リュックの底が地面に着いたあとも、入口から目を離せなかった。
壁の陰から黒い髪の女の子がそっと顔をのぞかせた。僕よりも幼いように見える。頬には灰がこびりつき、唇は固く結ばれていた。
僕と視線がぶつかると女の子はまた顔の半分を隠した。けれど今度は壁の端に指をかけたままだった。
僕は膝の脇へ腕を下ろした。女の子の視線が、僕の顔から靴へ、それから戸口の外の道へと移っていく。川のせせらぎを聞きながら座り込んでいると、こめかみがまたずきずきと痛みだした。
女の子が壁の陰から少しだけ身体をずらした。片脚を伸ばして床に座り込んだまま外の道を見つめている。何か言いかけて口を閉じ、もう一度僕を見た。
「どこ、行くの」
「……まだ、わからない」
かすれた声しか出ず、僕は一度唾を飲み込んだ。それから戸口の外へ目をやる。建物の間に残された道は、先の角で途切れるように見えなくなっていた。
「ここがどこかも、わからないんだ」
「ここは中洲だよ」
僕が顔を向けると、女の子はすぐには目をそらさなかった。
「僕、フタバ」
すぐには返事が返ってこなかった。女の子は服の裾を指先で小さく丸め、それをそっと離してから、ぽつりと唇を開いた。
「……ユイナ」
僕は小さくうなずいた。
脚を引き寄せ直した拍子に、靴が段の縁に当たって鈍い音を立てた。ユイナの肩がびくりと跳ねる。外の様子をうかがってから、僕の足元へ視線を戻した。僕は動かしかけた足をそのまま止めた。
ユイナの膝に、赤くにじんだ擦り傷があった。傷口の縁には細かな灰がついている。ユイナはそこを隠すように服の裾を引いたが、布が触れそうになるところで動きを止めた。
「膝、痛い?」
ユイナは小さくうなずいた。
「静かになったから、外に出たの。……そこで転んだ」
ユイナはもう片方の膝を胸に寄せ、身体を少しこちらへずらした。手のひらで床を押しながら、伸ばしていた脚もゆっくりと引き寄せる。それでも、その靴はまだ戸口の内側に留まっていた。
僕は枠をつかみ直し腰を浮かせた。けれど腕が震えて力が入らず、いったん座り直す。息を吐き出し、足を身体の真下へ寄せてから踏ん張ると、今度はなんとか膝が伸びてくれた。枠に肩を預けたまま足元の揺れが収まるのを待つ。
ユイナが僕を見上げていた。
「僕、もう少し先へ行ってみる」
道の先には割れた窓と灰を被った壁しか見えない。僕はユイナへ顔を戻した。
「一緒に行く?」
ユイナは戸口の奥へと目を向けた。床についていた手で服の裾をぎゅっとつかみ、そのまましばらく離さなかった。
「みんなが、隠れててって言ったの」
僕は枠につかまったまま、その言葉を受け止めていた。
ユイナの唇がもう一度動いたけれど、声にはならなかった。
川の方から風が吹き込み、戸口の手前に積もった灰が細い筋になって流れていく。ユイナはその動きを目で追い、道の両側を見回した。もう一度奥を振り返ってから服の裾を握っていた指をほどき、靴を入口へと寄せた。
「……行く」
ユイナは壁の端につかまって腰を上げた。膝をかばいながら戸口まで歩み寄り、枠につかまり直す。段の縁から片足を外へ踏み出しかけたところで、その動きが止まった。
僕は左手で枠を支え、右手をそっと差し出した。
「待って」
ユイナの声に腕を止め、僕は枠に肩を寄せて待った。
ユイナは下ろしかけた足を一度床に戻し、戸口の端へと寄った。手のひらを枠につき直して身体を横に向けると、今度は自分から手を伸ばし、僕の指を握ってきた。
重なり合った指の間で細かな砂がざらりと擦れる。
ユイナはもう片方の手を枠についたまま、片足を路面へ下ろした。その脚で身体を支え、残る足も外へと運ぶ。僕はその手を引っ張らず、腕にかかる力が強くなったときだけ、しっかりと枠に身体を寄せて支えにした。
両足が路面に揃うとユイナの指がふっと緩んだ。僕の手を離し、戸口の外の壁に触れる。少し開いた唇からは、細い吐息が漏れていた。
僕は空いた手も枠へ戻した。膝がまた震えだし、すぐには道の方へ身体を向けられそうにない。隣に立つユイナは、小刻みに震える僕の脚と枠につかまったままの手を見つめていた。
肩を少し動かした拍子にリュックの中でボトルが傾いた。
ちゃぷん、と小さな水音が響く。
ユイナの視線が一瞬だけ僕の背中へ向き、それから前方の道へと戻った。
僕は枠から壁へと手のひらを滑らせ、戸口を離れた。ユイナも同じ方向へつま先を向け、少し遅れて歩き出す。
ユイナの歩みは僕よりも少し速かった。それでも決して先へ離れていくことはなく、僕が壁に手をついて立ち止まると歩調を緩め、僕が動き出すとまた歩き出した。痛む方の足が、ときどき路面をかすかに擦る。
そうして何度か進むうちに、とうとう僕の脚が前へ出なくなった。
僕は壁に身体を預け、ゆっくりと腰を落とした。リュックの底を地面に着け、両脚を道の端へと投げ出す。お腹は空いたままだというのに胃の奥のむかつきも収まってくれなかった。
ユイナも少し先で足を止めた。
僕が顔を上げるとユイナはじっとこちらを見つめていた。
しばらくして息が落ち着くと壁に手をついたまま脚を引き寄せた。もう一度腕に力を込め腰を浮かせる。膝が伸びきっても手は壁から離せず、肩を預けたまま深く息を継いだ。
ユイナは僕が立つのを確かめてから再び歩き出した。
その先に角があった。
角へ近づくとユイナが二、三歩先へ出た。壁際に身体を寄り添わせ、顔だけをそっと角の向こうへのぞかせる。
――すぐに、顔を引っ込めた。
角の向こうへは進まず、その場に留まったままこちらを見ている。
僕は壁に添えた手のひらを滑らせながら片足を前へ踏み出した。
角の手前に立ち尽くすユイナへ、灰を擦る僕の足音が少しずつ近づいていった。




