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星詠みのコーデックス  作者: ねねねる
星のない空

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第6話 「背中の重さ」




お腹が鳴った。




僕は坂の途中に座り込んだまま腹に腕を押し当てた。口の中に溜まった唾をどうにか飲み込む。投げ出していた脚を引き寄せようとしたが、膝が小刻みに震えて力が入らない。背中から伝わるコンクリートの冷たい硬さも、胃の奥底にある吐き気も、一向に引いてくれなかった。


少しずつ足を手元へ引き寄せ、壁についた腕でぐっと身体を押し上げる。立ち上がったところでいったん動きを止め、膝の震えが治まるのをじっと待った。背後から届く川の音を聞きながら残りの坂を上りきる。


道路を挟んだ向かい側に小さな店の扉が開け放たれていた。入口に近い棚には食べ物の写真がプリントされた袋がいくつか残っているのが見える。


ふらつく足で戸口まで辿り着き、枠につかまって腰を落とした。棚の下段へ腕を伸ばす。破れた袋の中身は床に散らばっていたけれど、奥の隙間に挟まっていた小袋はしっかりと口が閉じていた。ビスケットだった。封の破れていないものをいくつか掴み取り胸元に抱え込む。


片腕でそれを抱えたまま立ち上がろうとしたが、枠をつかんだ腕に力が入らず腰が浮かなかった。


すぐ横、倒れた椅子の脚に小さなリュックサックが引っかかっていた。肩紐を外して膝の上へ引き寄せ、ファスナーを開けると薄い布の底が覗く。脇のサイドポケットには蓋の閉まった透明なプラスチックボトルが入っていた。取り出して傾けてみたが、底には一滴の水も残っていない。


手に入ったビスケットをリュックの中へ押し込み、空のボトルを元のポケットへ差し戻した。戸口に座り込んだまま片方ずつ肩紐に腕を通す。背中にリュックが収まってから、ようやく両手で枠を掴んで立ち上がることができた。


来た道を戻る途中何度も足が止まった。川へ下りる坂は見えているのに、そこへ辿り着くまでに幾度も壁に肩を預けて息を整えなければならなかった。


ようやく坂を下り、さっき水を飲んだ平らな岸辺へ腰を下ろす。靴を乾いた場所へ引き寄せ、リュックも水気のない脇へと下ろした。蓋を外したボトルを右手に持ち、左の掌で身体を支えながらすぐ横を流れる水に飲み口を沈める。


灰茶色の水がごくりと底へ満ちていく。腕に重みを感じたところで引き上げ、岸に置いた。


小袋の切れ目を指先でつまみ、端を小さく裂いた。中のビスケットをひとかけら齧ると歯の間で乾いた音が響く。


何度も、何度も、噛んだ。けれど、どれだけ舌を動かしても細かな粉が上顎にへばりついてしまい、飲み込もうとしても喉の手前でつかえて落ちていかない。


僕はボトルを持ち上げ、濁った水を少しだけ口に含んだ。砂混じりの水が歯の間を抜け、舌の上に残っていた塊をゆるやかにほどいていく。口を閉じ、それごと一息に喉の奥へ流し込んだ。


飲み下したあとも、袋を持った腕を膝から持ち上げることができなかった。もう少し口に入れたくて袋の中を覗き込んだものの、胃のあたりが激しくむかつき自然と背中が丸まってしまう。僕はしばらく口を固く結んだままじっと座っていた。


残りを袋の中へ戻し、開いた口を折りたたんでリュックへしまう。ボトルの蓋を固く締め、それも食料の隣に収めた。


背負い直して立ち上がると肩紐を通してずっしりとした重みが背中にかかった。低い壁に沿って坂を戻り始めたが、途中の開けた場所で脚が止まり、また座り込んでしまう。目を伏せてもこめかみを締めつけるような頭痛は消えてくれなかった。




◆ ◆ ◆




上の道へ戻ってからも横を流れる川を見失わないように進んだ。建物の隙間へ続く路地もあったけれど、角を曲がった先の足場がどうなっているのか見通せない。水のある場所さえ分からなくなってしまうのは怖かった。


塀が残っている場所では指を滑らせて身体を支え、塀が途切れれば足元だけをじっと見つめて次の支えまで歩く。腕が上がらなくなると道の端に腰を落とした。リュックの底が地面に着いて肩紐が緩むとそこから再び立ち上がるまでにひどく時間がかかった。


川の向こうにも、道の先にも、背の高い建物が幾重にも重なって立ち並んでいる。


やがて、崩れたコンクリートの壁が川沿いの道を塞ぐようにせり出している場所にぶつかった。川側には足を置けるほどの幅がなく、瓦礫を避けるようにして建物と壁の間の細い隙間へ回り込む。水面は見えなくなったが低く濁った川音だけは耳に届いていた。


角の柱で休もうと顔を上げると、金属の四角い標識が留められていた。『祇園』という文字の下に小さく『ぎおん』と仮名が振ってある。




「祇園……?」




柱から身体を離し何気なく足元へ目を落とした。


その先に靴があった。


少し奥まった建物の入口から、道へ投げ出されるように突き出ている。擦り切れたズボンの先で片足が力なく横を向いていた。壁に寄りかかるようにして倒れ込んでいる大人は、顎を胸元に落とし、顔の半分を上着の襟に埋めている。


僕は柱をつかんだまま指一本動かせなくなった。


反射的に目をそらしかけた、そのときだった。


上着の胸元がわずかに持ち上がった。


目を凝らして見つめていると、ゆっくりと沈み、そしてもう一度かすかに動く。


生きてる。




「……聞こえますか」




絞り出した声は、自分でも頼りないほどかすれていた。


壁をつたいながら近づき、その人の前で膝を折る。相手の乾いた唇が小さく動いた。かすかな呼気が漏れたけれど意味のある言葉にはならなかった。まぶたの隙間から覗く瞳も焦点が合わず、僕の顔を捉えてはいない。


リュックを肩から外し、すぐ脇の壁際に下ろした。力なく垂れていた腕にそっと触れると相手の指先がピクリと曲がった。




「立てる……?」




返事を待つ間も惜しく、その腕を持ち上げて自分の右肩へ回した。脇の下へ肩を潜り込ませ、相手の腕が滑り落ちないよう右手でしっかり押さえる。左手は後ろの壁につき、片足ずつ身体の下へ引き入れた。


脚にぐっと力を込める。相手の上体が前のめりに傾き、分厚い上着の布が僕の頬を擦った。ずっしりとした重みで首が押し下げられる。


僕は奥歯を噛み締め震える膝を必死で伸ばそうとした。


けれど――その人の腰は地面から微動だにしなかった。


脚は投げ出されたままで、横を向いた靴の先もピクリとも起き上がらない。僕の膝ばかりが限界を迎えて小刻みに揺れ、壁についた左手の指先が虚しくざらついた感触を擦った。


息を吐き出そうとしても胸が圧迫されてうまく呼吸ができない。


耐えきれずに膝を折って腰を落とすと、その人の背中が鈍い音を立てて壁に戻った。僕は肩に回していた腕をそっと下ろし、うつむいたまま浅い息を荒く繰り返した。


少しだけ呼吸が落ち着いたところで顔を上げて周囲を見回す。すぐ隣に大人ひとりが横になれそうな平らなスペースがわずかにあった。大きな瓦礫やガラスの破片も落ちていない。


立たせることが無理でも、あそこまで引きずることくらいなら。


僕は足を引きずって位置を変え、その平らな場所を背にして低くしゃがみ込んだ。相手の手を右手で握り、左手を同じ腕の少し上に添える。


踵をざらついた路面に強く押しつけ、ゆっくりと体重を後ろへ倒していった。


袖の皺が引っ張られて伸び、腕が少しだけこちらへ引かれる。それでも重たい腰は入口の前に張り付いたままで横を向いた靴の位置も最初と少しも変わらない。


腕を曲げ、もう一段深く体重を後ろへ預けようとした。




けれど、先に滑ったのは僕の足だった。


踏ん張っていた踵が灰の上を滑り、前へと抜ける。勢い余って腰が落ち、左手を袖から離して地面についたものの肘が曲がり、そのまま尻餅をついた。掌に尖った小石が食い込み喉から短く掠れた息が漏れる。


それでも右手だけは相手の手を離していなかった。




相手の手もまた路面へ落ち、僕の右手と重なり合ったまま灰に触れていた。もう引っ張る力は残っていなかった。僕は左腕に身体を預けたまま、ただ項垂れる。


耳の奥で自分の激しい呼吸の音だけが響いていた。


わずかに顔を上げると上着の胸元がまだ小さく上下している。その人の脚は投げ出されたまま動かない。


道の先へ視線を向けた。開け放たれた戸口も割れた窓もいくつも見えたけれど、そこから助けに現れる人影などどこにもなかった。


身体を支える左腕がぷるぷると震えはじめ、僕は踵を少しずつ腰へ引き寄せた。立ち上がろうと膝を立ててみるが、半分ほど曲げたところで限界がきて足が止まってしまう。胃の奥は鉛のように重く、頭を刺すような痛みも一向に引かなかった。


壁際には下ろしたリュックがある。外した肩紐が力なく地面に伸びていた。


僕は再び重なり合った互いの手へ視線を戻した。


そのまま動けずに座り込んでいた。一筋の風が吹き抜けると入口の外に積もった灰が薄く舞い上がる。上着の胸元が静かに持ち上がり、そして、ゆっくりと沈んだ。




僕は親指を離した。


握り締めていた残りの指の力も一本ずつ緩めていく。


相手の手から静かに自分の指を抜いた。




右の掌を腰の横につき、身体を引きずるようにして少しずらす。左手で肩紐を掴み、リュックを膝の上へと引き寄せた。


片方の肩紐に左腕を通し、リュックを脇から背中へと回す。肩に重みが載ったところでいったん動きを止めた。底を地面に着けたまま細く息を吐き、左腕を休ませる。


それから壁に肩を預けて身体を支え、もう片方の肩紐を探り当てて右腕を通した。リュックの中でボトルが傾き、ちゃぷんと水が揺れる音が小さく響いた。


壁に両手をついて腰を浮かせたが、立ち上がった瞬間に膝がまた激しく震えだした。壁の支えから離れずにじっと耐え、震えが少し落ち着くのを待ってから倒れている人の方へ顔を向けた。


その人の胸元は、まだかすかに、規則正しく上下していた。


僕はつま先を道の先へ向けた。震える片足を前に出し、入口の脇を通り抜ける。壁に指先を這わせながら一歩ずつ進み、角を折れると、その人の姿は見えなくなった。


角を曲がってすぐのところで足が止まった。壁に肩を預けたままゆっくりと腰を落とし、リュックの底が地面に着くまで滑り落ちるようにして座り込む。肘を膝の上に載せることさえできず両腕をだらりと脇へ垂らした。


顔を伏せると、自分の靴の先に白く積もった灰だけがぼんやりと視界に入っていた。




◆ ◆ ◆




川沿いの道へ戻ってからも数歩進むたびに立ち止まらざるを得なかった。座り込んでしまった位置から壁へ手が届かず、立ち上がる前にまず腰をずらして壁際まで這い寄ることもあった。


歩いている間、背負ったリュックの中のボトルが歩調に合わせて背骨へ硬く当たった。肩紐の位置を直そうと腕を伸ばしても肘が胸の高さまでしか上がらない。僕は片側の肩を少しすぼめたまま足を引きずって歩いた。


川沿いに続いていた金属の手すりが、前方で水面の上へと直角に折れ曲がっていた。


足を止めて目で辿っていくと手すりは対岸の建物の手前まで一直線に伸びている。近づくにつれて、その下に灰を分厚く被った路面が見えてきた。


橋だった。


手すりに掌を置き、体重を預けながら足を一つずつ前へ進める。濁流の轟くような水音が足元の下から響いてきた。途中で脚の踏ん張りが利かなくなり手すりの支柱の根元にへたり込んだ。両手を支柱に掛け、足を身体の下に寄せ直してからようやくの思いで腰を持ち上げる。


手すりの継ぎ目を越え、また少し前へ進む。顔を上げる余裕はなく視線はずっと足元に落ちたままで、靴先が灰を擦って描く二本の筋ばかりが後ろへ長く伸びていった。


最後の太い柱を過ぎ、ようやく橋の終わりを越えた。両足を向こう側の道路へ踏み込ませても柱を握りしめた指先はすぐには解けなかった。


足元の地面からゆっくりと顔を上げる。


窓ガラスの吹き飛んだ建物が、ほとんど隙間もなく密集して立ち並んでいた。錆びた壁と割れた看板が何重にも重なり合い、その奥の路地は見通すことができない。


真横にはいま渡ってきた広い川の水面があった。そして正面にある建物の切れ間にも同じように灰茶色の水面が覗いている。いま渡ってきた川とは違う角度で建物の狭間を細く奥へと切り裂くように伸びていた。


連なる屋根のずっと向こう側、空を覆う重たい灰色がそこだけわずかに薄くなっていた。




僕は視線を下ろした。




建物と水に挟まれたその細い路面が、僕の靴の先から途切れることなく続いていた。

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