第5話 「濁流の先へ」
道の端に残る塀に手を添えながら僕は足を運んだ。持ち上げたつもりでも靴の先が地面を擦り、薄く積もった灰を崩していく。
息が口から漏れるたび舌の上に乾いた空気が触れた。唇を閉じれば薄皮が貼りつき、湿らせようと舌を這わせてもざらつく感触が広がるだけだった。
崩れた塀の切れ目に灰を被った銀色のものが目に入った。
細いコンクリート柱から蛇口が突き出している。道から手を伸ばせば届く場所にあった。
柱に左手をつき、右手で蛇口の取っ手を握った。指先だけでは力が入らず、掌全体で包み込むようにして回すと金属の角が皮膚に食い込んだ。軋む感触とともに蛇口が少しずつ動いた。
水は、出なかった。
蛇口の下へ手を差し出したまま、じっと待つ。先端の暗い穴を見つめながら、もし一滴でもこぼれ落ちてきたら逃さないよう指をぎゅっと寄せていた。
少し顔を近づけてみる。
音ひとつ、しない。
伸ばしていた腕が重くなり、肘が下がっていく。僕は柱に身体を預け、乾ききった手をだらりと下ろした。
ほかに水場はないかと通りの先へ目を向けた。その時、大きな川のことを思い出した。
広い道を通った時に家々の隙間から見えたことがあった。どこで曲がったのかは思い出せないけれど、遠くまで水面が続いていた記憶だけは残っている。
顔を上げ、通りの先を見据えた。倒れた塀の向こうに少し広い道が覗いている。
僕は柱から手を離した。
そこへ出るまでにも何度も足が止まった。足を休めている間にも風に運ばれた細かな埃が頬に触れる。鼻から吸い込む空気まで粉っぽく、口を開ければ喉の奥がひりひりと痛んだ。
道の端に腰を下ろし、残っていた塀へ背中を預けた。膝を立てておくのさえつらくなり、両脚を少し前へと投げ出す。灰を被った靴が頼りなく横へ倒れた。
座り込んでいても、こめかみの鈍い痛みは引きそうになかった。空っぽの胃袋が縮み上がるように痛み、僕は背中を丸めた。
しばらくそこから動けなかった。
やがて脚を引き寄せ、塀に手をついて立ち上がると足元がふっと暗くなった。目を閉じずに耐えているうちに靴と地面の境目が少しずつ戻ってくる。
また歩き出し、建物が途切れたところで足を止めた。
風の音に重なって低く絶え間ない水音が響いていた。顔を向けると道の下に大きな水面が広がっている。
川だった。
水がある。
そう思った。
けれど、水は対岸まで灰茶色に濁りきっていた。川の中央では長いうねりが寄り合っては崩れ、絶えず形を変えながら流れている。目を凝らしても水の下には何ひとつ見えなかった。
道の脇から水際へ緩やかに下るコンクリートの坂があった。川側には低い壁が続いている。その上へ手を置き、足裏を確かめながら一歩ずつ下りていった。
途中で坂が少し広くなり、乾いた灰が薄く溜まっている場所があった。そこで壁に身体を預け、膝の震えが小さくなるのを待つ。水の音はさっきよりずっと近かった。
岸辺のくぼみに白いものが見えた。
魚だった。腹を上にして浮かび、口を開けたまま流れに触れるたび同じ場所で揺れていた。
僕は低い壁に手を添え直し、残りの坂をゆっくりと下りた。
壁の途切れた足元は平らになっていた。川に向かって横向きに腰を下ろし、靴を水気のないほうへ引き寄せる。左手を身体の脇につくと、すぐ右側に水面があった。
岸に近い水はゆっくりと動いていた。指先を沈めると濁った水がその間を通り過ぎていく。右手を丸め、少しだけすくい上げてみた。
手のひらに取っても水は濁ったままだった。
くぼみの底にあるはずの手相の線が濁りの下でぼやけて見えない。その向こうには魚の白い腹がまだ揺らめいていた。
飲んじゃだめだ。
口へは運ばず、そっと掌を傾けた。
水は指の間を抜け、そのまま川へと戻っていった。
坂の上を見上げた。
あの道の向こうに行けば別の水がないだろうか。蛇口から出てくるような綺麗な水が欲しかった。
けれど座り込んだ場所から見えるのは、低い壁と上の道に散った灰だけだった。
舌を動かして唾を集めようとする。口の中は乾き果てていて、無理に飲み込もうとすると喉の内側がやすりで擦られたように痛んだ。
左腕が重い。少し肘を曲げて身体を休めても口の中の渇きだけはどうにもならなかった。
すぐ真横で水が流れている。
僕は左手をつき直し右手をもう一度、川へ下ろした。
同じ濁った水が丸めた掌へ溜まっていく。持ち上げると、指の隙間から水がこぼれた。残っている分を落とさないよう、肘を脇へ引き寄せて口元へと近づける。
掌の縁が唇に触れたところでわずかに動きが止まった。
岸のくぼみで魚の白い腹が揺れている。
僕は唇を開き、掌に残った水を口の中へ流し込んだ。水が舌に触れ、乾ききった口内へ広がっていく。
その水を舌で喉の奥へ送り、飲み込んだ。
喉の奥を水が滑り下りていった。僕は口を閉じたまま鼻から細く息を吐き出す。
舌を動かしてみると上顎へ貼りつく感覚がわずかに薄れていた。
一度腕を下ろして休んでから、また水をすくった。一度に掌へ残せる量は少なく、指を寄せているだけでも手が震えてしまう。口へ運んでは肘を下ろし、腕の重さが少し抜けるのを待った。
やがて、舌の下に溜まった唾を飲み込めるようになった。まだ喉はざらついていたけれど、さっきのように内側を強く擦られるような痛みは引いていた。
右の掌を上に向けたまま膝の上へ載せる。背中を少し丸め、水面を見つめながら息を整えた。川の中央では濁ったうねりが次々に形を変えて流れていく。
こめかみがズキズキと痛んだ。曲げた脚を少し動かそうとしても重く、靴の底がコンクリートに引っかかったまま動かない。
そうしているうちに、胃のあたりがむかむかしてきた。
身体をどう置けば楽になるのか分からず、背筋を起こしては、また少し丸めた。
口の中の唾を飲み込んでみる。喉はもうさっきほど痛まない。
僕は水際にうずくまったまま、息が落ち着くのを待った。
斜面に沿って伸びる低い壁を見上げた。灰が薄く溜まっていた平らな場所が見える。
右手の指を緩く開き、膝から下ろした。左手で壁を押さえながら身体を起こそうとしたが、立っただけで両脚が激しく震え壁から手を離せなかった。
降りてきた時と同じ坂を、壁に身体を擦り寄せるようにして少しずつ戻っていく。すぐそこの広がりへ辿り着くまでに、肩で息をするほど息が上がった。
そこで川に背を向け、まだ湿り気の残る右手を灰の上へつき、ゆっくりと腰を下ろした。
背中を壁へ預けても膝は細かく震えたままだ。胃の奥のむかつきも居座っている。
ふと右手を離すと、灰はそこだけ水分を含んで色が濃くなっていた。縁の崩れた小さな手の跡が残っている。
僕はその手を静かに膝の上へと戻した。
いつの間にか目の縁が濡れていた。
瞬きをすると一筋だけ雫が頬を伝った。拭う気力も起きず放っておくと、顎のそばまでゆっくりと下りてきた。
唇の隙間から小さく掠れた息が漏れる。
背後では川が絶え間なく音を立てて流れ続けていた。




