第4話 「瓦礫に咲く花」
風に押された灰が道路の上を細い筋になって滑っていく。
僕は崩れかけた壁に手をついたまま、その灰がアスファルトのひび割れの中へ消えていくのをじっと見つめていた。
生ぬるい風には湿った土と鉄錆を混ぜたような臭いがまとわりついていて、吸い込むたびに鼻の奥へべったりと残る。
舌は上あごにはりつき、つばを飲み込もうとするだけで喉の内側がひりひりと痛んだ。
手のひらを壁から離した瞬間身体がぐらりと傾き、慌てて指を広げてざらついた壁をつかみ直す。
右足を半歩だけ前へ出すと靴の裏で小さな破片が砕けた。
その音が完全に止むのを待ってからもう片方の足をゆっくり引き寄せる。
一度でできるのはそれくらいのことだった。
顔を上げると崩れた建物の切れ目のずっと向こうに灰色に染まった景色の中でそこだけ色の薄い場所が見えた。
うっすらと白く澄んでいて周りより少しだけ、ましな場所に思えた。
もう少しよく見ようと目を凝らした瞬間、みぞおちの奥がきゅっと縮んだ。
ふいに息が止まりたまらず視線が足もとへと落ちる。
その視界の端で何かが小さく動いた。
右手の低いひさしに烏が一羽とまっている。くちばしを羽の間に入れて二・三度毛づくろいをするとひさしの端まで軽そうに跳ね、そのまま低い塀の向こうへ羽ばたいていった。
目で追った先には瓦礫に埋もれず細い道が残っていた。ところどころ欠けてはいるけれど、手を添えて進めそうな低い塀も数歩先まで続いている。
僕はそちらへ爪先を向けた。
一歩進んで塀に体重を預ける。
もう一歩踏み出すと遅れて膝の裏ががくがくと震えた。
角を曲がったところで見覚えのある近道が消えていた。
家と家の間を抜けるだけの狭い道だったはずなのに、今は崩れ落ちた屋根と壁が幾重にも重なって入口を塞ぎ、瓦礫の隙間から向こう側の道がかすかに覗いているだけだった。
瓦礫の手前には小さな子供用の自転車が倒れていた。片方の補助輪だけが地面から少し浮いていて、風が吹くたび「きぃ…きぃ…」と頼りない音を立てて小さく揺れる。
低いところなら乗り越えられるかもしれない。そう思って片足を上げようとしたけれど上がらなかった。
太ももに力を込めた途端、脚全体が小刻みに震えだしてしまう。
すぐに足を地面に戻し、残った塀に肩を預けると視界の端からすうっと景色が暗くなった。
そのまま塀に背をもたれさせ、ずりずりとゆっくり腰を落とす。
目を閉じてしまえば二度と立ち上がれなくなりそうで、世界の輪郭が戻ってくるのをじっと待った。
少し落ち着いてから瓦礫の外側へ目を向けると、塀に沿うように細い路面が残っていた。
真っ直ぐではないけれど、ところどころに身体を支えられるものがある。
僕は塀をつかんでゆっくりと立ち上がり、足場の見えるところまで一歩ずつ進んだ。
けれどその先で塀は唐突になくなっていた。
◆ ◆ ◆
道路そのものがすっぱりと途中で切れていた。
最初はまた何かが崩れて積もっているのかと思ったけれど、その切れ目は一軒の家の幅では終わらず左右の果てまでずっと続いている。
道路の下にある茶色い土と砕けた石の層が無残にむき出しになり、家があった場所では床下を支えていた四角いコンクリートの基礎まで途中で断ち切られていた。
向こうへ並んでいたはずの建物も同じところでそっくり途切れ、その先が深い谷のように大きく落ち込んでいる。
「……なに、これ」
かすれた声が喉から漏れた。
底がどうなっているのかまでは見通せない。折れた柱や壁の破片の向こうに、黒くなめらかに固まった面がほんの少しだけのぞいている。
石とも道路とも違って見えたけれど、それが何なのかは分からない。
窪んだ低いところには黒灰色の靄のようなものが残って見えた。
溝の内側や瓦礫の隙間、遠くの地面に近い澱みをじっと見つめていると輪郭が薄くにじんでぼやけ、目を動かせばただの灰色の景色へまぎれて見失ってしまう。
僕はその切れ目へ近づかないようわずかに残っている道路の縁を進んだ。
少し先に、腰掛けられそうな平たいコンクリートの塊が見える。そこまでならなんとか行けそうだった。
低く残った壁に手を這わせながら、一歩ずつ近づいていく。
途中で足もとの小石が目に入った。
白っぽい欠片とその隣にある黒ずんだ石。
空の暗さもひび割れの中に残る黒灰色のかすみも何一つ変わっていないはずなのに、さっきより物の輪郭がはっきりと見分けられる。
どこへ足を置けばいいのか少しだけ見つけやすかった。
顔を上げず、その地面の違いだけを頼りに進む。
そうして歩くうちに鼻の奥を刺していた嫌な臭いも弱くなっていることに気がついた。
完全になくなったわけではなく息を吸えばまだ喉はひりつくし、口の中には苦い味が残っている。
それでも、さっきほど鼻の奥へべったりとまとわりついてはこなかった。
不意に、壁へ置いていた指がずり落ちた。
握り直そうとしても指先に力が入らずうまく曲がってくれない。まるで腕の中がごっそり空っぽになってしまったみたいだった。
膝が小さく折れて靴の先が地面をこすり、頭の奥では心臓とは別の速さで痛みがガンガンと脈打っている。
もう一歩、と思っても脚は動かなかった。
僕は倒れ込むように平たいコンクリートへ腰を下ろし、身体の重さをすべてそこへ預けた。
両手を横につき荒い息を吐きながら膝の間の地面だけをじっと見つめる。
息をするたびに肩が上下し、お腹の中は空っぽのはずなのに鉛でも入っているみたいに重い。
喉が渇きすぎて舌を動かそうとするだけでも痛かった。
目を閉じるとそのまま暗闇へ沈んでしまいそうだったので必死に開けたままでいた。
◆ ◆ ◆
足もとのひび割れのそばに灰色ではないものがあった。
最初は、風に飛ばされてきた小さな紙の切れ端かと思った。けれど、地面すれすれに見える淡い黄色は何度まばたきを繰り返しても消えなかった。
細い茎の先に小さな花が一輪だけ咲いていた。
花びらの一枚にはうっすら灰がつき、縁のあたりが少しだけ茶色く傷んでいる。
それでも生ぬるい風が通り抜けるたびに細い茎が折れそうにしなやかに揺れていた。
周りには倒れた草と乾いた葉、それに瓦礫があるだけだ。
見えるところでは色を持っているのはその花だけだった。
僕は座り込んだままその花を見つめた。
風が弱くなると静かに止まり、また風が通ると小さく揺れる。
地面へつきそうになるほどしなっても、風が過ぎ去ればゆっくりと元の姿に戻った。
どれくらいの間そうして見つめていたのかは分からない。
右手が膝から離れ指先が花へ向かった。
腕は重く肘から先が細かく震えていたけれど、それでも少しずつその黄色へと近づいていく。
母さんに。
渡したかった。
その思いだけが急に胸の中へよみがえってきた。
けれど、指先が茎へ届く直前で僕の手は止まった。
花びらが一度ふわりと風に揺れる。
僕の手は何もつかまないまま空中に残されていた。
もう少しだけ花を見る。
息を吸い込むと鼻の奥から喉へ入ってくる空気が、ほんの少しだけ通りやすくなっていることに気づいた。
深く吸えるようになったわけではない。
もう一度吸えばやっぱり喉はひりつくし、頭の痛みも脚の震えも口の中の渇きも消えてはいない。
それでも。
花へ向けていた手を、ゆっくりと下ろした。
茎のすぐそばではなく、少しだけ横へ。
指先で灰の下の固い感触を確かめてから手のひらをしっかりと置き直す。
ざらざらとした地面は力を込めて押してもびくともしなかった。
反対の手で座っていたコンクリートの端をつかみ、両腕に力を込める。
肘が震え、腰が少し浮いたところで膝が止まった。
一度息を吐き、手を離さないまま足の裏が地面を捉えていることを確かめる。
もう一度だけ身体をぐっと押し上げた。
ゆっくりと。
僕は立った。
すぐには足を出せなかった。
視界の端が暗くなり地面が左右へと傾く。
手はコンクリートの支えから離さず、揺れが収まるまで靴先とその先にあるひび割れだけをじっと見て待った。
次に足を置けそうな場所は、すぐ前にあった。
花から少し離れた何も生えていない平らな地面。
支えをつかんだまま右足をそっと持ち上げると、靴底が灰をこすり、足先がわずかにふらついた。
花のない場所へ、ゆっくりと下ろす。
一歩。
まだ残っている手の力を借りて、身体の重さを少しずつ前へ移していった。
低いままの視界の中で淡い黄色の花が少しずつ下へずれていった。




