第3話 「静寂の向こう側」
飲み水は、思っていたよりも早く底をついた。
父さんが「もしものため」と置いていた非常用のボトルも、何度目かの目覚めを迎える頃には空になり、逆さにしても一滴の雫すら落ちてこなかった。
それでも僕は諦めきれず、乾いた唇を何度も飲み口へ押し当てていた。
喉は焼けるように熱い。
舌は張り付き、息をするたびに乾いた空気が肺の奥を擦っていく。
空腹も苦しかった。
けれど、それ以上に水が欲しかった。
食べ物はまだ少しだけ残っていた。
非常食の固いビスケット。
口へ運んでも、唾液が足りず、飲み込むことさえできない。
仕方なく掌の上へ戻し、小さく欠けた欠片だけを食べる。
それだけで、一日を終えた。
暗闇の中では、時間というものが少しずつ輪郭を失っていく。
朝なのか。
夜なのか。
どれほど眠って、どれほど目を覚ましたのかさえ分からない。
腹が鳴れば何かを口にし、瞼が重くなればコンクリートへ身体を預ける。
それだけを繰り返しているうちに、一日という区切りは、いつしか意味を失っていた。
目を閉じれば、母さんが笑っている。
夕飯の支度をしながら、「もうすぐできるわよ」と振り返る優しい笑顔。
その隣では父さんが袖をまくり、不器用な手つきで洗い物をしている。
蛇口を流れる水音。
お味噌汁の湯気。
食卓に並ぶ温かな匂いまで、すぐそこにある気がした。
けれど。
目を開けば、鼻を満たすのは油と鉄の匂いだけだった。
冷え切ったコンクリートの感触が背中から伝わり、湿り気を帯びた空気が肺の奥へゆっくりと沈んでいく。
さっきまで聞こえていたはずの食器の触れ合う音は、どこにもない。
目を閉じるたび家へ帰った。
目を開くたびガレージへ戻ってきた。
◆ ◆ ◆
それでも外の世界だけは、生きていた。
昼も夜も関係なく、ガレージの外では何かが歩き続けていた。
重たいものを引きずる音が、アスファルトをゆっくりと擦っていく。
硬い爪が地面を掻くたび、耳障りな音が鉄板越しに伝わり、そのたびに肩がびくりと震えた。
低く濁った唸り声。
鼻先を掠める、生ぬるく湿った吐息。
時折、何か硬いものを噛み砕くような鈍い音が混じるたび、喉の奥がひゅっと狭くなる。
息を殺す。
心臓だけが、耳元で暴れるように鳴り続けていた。
眠気に身体を引きずり込まれそうになっても、音が少しでも近づけば反射的に目を開く。
冷えたコンクリートの上で膝を抱え、耳だけをシャッターへ向けた。
外を見なくても分かる。
すぐ向こうを、何かが歩いている。
だから動けない。
父さんとの約束だけが、暗闇の中で僕をこの場所へ繋ぎ止めていた。
◆ ◆ ◆
浅い眠りへ落ちかけた時だった。
不意に地の底から唸るような振動が伝わってきた。
外が急に騒がしくなる。
今までとは比べものにならない数の足音が、一斉に大地を叩き始めた。
ガレージ全体が悲鳴を上げるように軋み、壁が震える。
棚へ並べられた工具は激しく跳ね、天井の隙間から舞い落ちた砂埃が白く視界を霞ませた。
まるで町そのものが揺れているようだった。
重たい何かを引きずる音。
硬い爪が路面を抉る甲高い音。
幾重にも重なり合う咆哮。
湿った吐息。
腐臭を帯びた風が、シャッターの僅かな隙間から流れ込み、鼻の奥を焼く。
思わず両耳を塞ぐ。
一体、どれほどの数がいるのだろう。
百。
千。
いや。
そんな数じゃない。
世界そのものが動いているような振動が、いつまでも続いていた。
やがて、その轟きはゆっくりと遠ざかっていく。
唸り声も。
爪の音も。
重い足音も。
一つ、また一つと町の向こうへ溶けていった。
そして。
あまりにも深い静寂が訪れた。
まるで最初から存在しなかったかのように、世界は静まり返っていた。
耳鳴りだけが大きく響き、それが逆に恐ろしかった。
◆ ◆ ◆
「……フタバ。」
不意に声がした。
僕は顔を上げる。
母さんだった。
柔らかな笑顔の母さんだった。
その笑顔を見ただけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……頑張ったな。」
父さんもいた。
少し低く、どこか不器用で。
けれど、その一言だけで安心できる声。
大きな手で頭を撫でられているような温もりを感じる。
立ち上がりかけたところで、足が止まった。
違う。
これは聞こえているんじゃない。
思い出しているだけだ。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
もう一度。
息を止めて耳を澄ませる。
何も聞こえない。
あれほど絶え間なく聞こえていた唸り声も。
何かを引きずる音も。
もう、どこにもなかった。
静かだった。
怖いくらいに。
静かだった。
◆ ◆ ◆
このまま待っていても、父さんも母さんも来ない。
そんなことは、ずっと前から分かっていた。
それでも認めたくなかっただけだ。
けれど。
水はない。
食べ物も、もうない。
ここにいても、死ぬ。
ゆっくりと腕をつく。
身体を起こそうとした瞬間、力の入らない腕が震え、そのまま床へ崩れ落ちた。
冷え切ったコンクリートが頬へ触れる。
浅く息を吸うたび、乾ききった喉がひりついた。
一度、目を閉じる。
もう一度。
今度は歯を食いしばり、両腕へ力を込める。
軋むように身体が持ち上がる。
何日も丸めていた背中が悲鳴を上げ、痺れた足が頼りなく震えた。
それでも倒れなかった。
壁へ手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
そのまま一歩ずつ歩き、重たいシャッターの前までたどり着いた。
震える手をゆっくりと伸ばし、重たいシャッターへ触れる。
冷たい鉄の感触は、あの日と何も変わっていなかった。
深く息を吸う。
震える手に力を込めると、重たいシャッターが鈍い軋みを上げながら、ゆっくりと持ち上がっていく。
最初に差し込んだのは、針のように細い一筋の光だった。
暗闇へ白い線を引くように床を滑り、足元まで静かに伸びてくる。
その線は少しずつ幅を広げ、閉ざされていた世界を、ゆっくりと押し開いていった。
思わず目を細める。
眩しかった。
いや。
数日ものあいだ暗闇だけを見続けていた目には、そう感じただけだった。
外を覆っていた空は、あの日と変わらず灰色だった。
雨を落とすこともなく、ただ重たく垂れ込めた雲が空一面を埋め尽くし、世界は夕暮れのような薄暗さへ沈んでいる。
数日ぶりに吸い込んだ外の空気は、生暖かく乾いていた。
焦げた木の匂い。
土埃。
それに混じる、鉄錆にも似た生臭さ。
肺の奥まで流れ込んだ空気は、生きている世界の匂いではなかった。
一歩。
恐る恐る踏み出した靴底が、乾いたアスファルトを小さく鳴らした。
その音が、妙にはっきりと耳へ残る。
向かいの友達の家。
友達と追いかけっこをした坂道。
何一つ場所は変わっていない。
それなのに。
そこにはもう、僕たちが暮らしていた町はなかった。
屋根は無残に崩れ落ち、窓ガラスは粉々に砕け散っている。
道路には巨大な爪で抉られた傷跡が幾筋も刻まれ、黒く乾いた血痕が雨に流されることもなく、ひび割れたアスファルトへ幾重にも染みついていた。
折れ曲がった電柱は糸の切れた操り人形のように力なく倒れ、引きちぎられた電線が風に揺れるたび、かすかな軋みを響かせている。
どこかの家の壁には、大きく口を開けた穴が穿たれていた。
その向こうに見える食卓だけが、まるで昨日まで誰かが暮らしていたかのように静かに残されている。
誰もいない。
人の姿はなく。
人の気配もない。
夕飯を支度する匂いも。
子どもたちの笑い声も。
犬の鳴き声も。
どこかの家から聞こえていたテレビの音も。
この町を当たり前に満たしていた日常は、跡形もなく消えていた。
風が吹く。
乾いた風は、砕けたガラス片を小さく転がし、傾いた標識をかすかに震わせながら、誰もいない通りを静かに吹き抜けていく。
その音だけが、この世界がまだ動いていることを教えていた。
耳を澄ませる。
誰かを呼ぶ声はない。
咆哮も。
悲鳴も。
そして。
僕の名前を呼んでくれる声も。
もう、どこにもなかった。
風だけが。
この静寂を知っているように、灰色の空の下を渡っていった。




