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星詠みのコーデックス  作者: ねねねる
星のない空

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2/10

第2話 「名前を呼ぶ声」

暗闇は、時間というものを曖昧にしてしまう。


ガレージの中では朝も夜も分からなかった。


シャッターの隙間から差し込むはずの光は、一度も床を照らさない。


外はまだ灰色の空なのか。


それとも、もう夜になってしまったのか。


僕には分からなかった。




僕はずっと膝を抱えて待っていた。


父さんも母さんも町のみんなも魔法が使える。


きっと、もうすぐ帰ってくる。


そう思うたび、丘の向こうを埋め尽くしていた黒い影が脳裏をよぎる。


あれほどの数を、本当に止められるのだろうか。


考えてはいけない。


そう思うほど、不安だけが胸の奥で少しずつ膨らんでいった。




ガレージは、何度も遊んだ場所だった。


秘密基地みたいだと入り浸って、危ないからと母さんに叱られたこともある。


昨日までと何も変わらない景色だった。


それなのに今は、世界で一番狭く、一番息苦しい場所のように思えた。




お腹が鳴る。


喉も渇く。


気怠い体の重さはずっと続いている。


ガレージの隅に置かれた非常用の飲料水へ手を伸ばす。


父さんが「もしものため」と言って置いていたものだ。


蓋を開け、一口だけ喉へ流し込む。


乾き切った喉へ水が落ちていく感覚が、やけに鮮明だった。


それだけで我慢した。


父さんと母さんの分も残しておかないといけない。


それに、全部飲んではいけない気がした。




外は静かだった。


けれど。


静かなのに、何かがいる。


そんな気配だけは消えなかった。


何か重いものを引きずる音。


硬い爪が地面を掻くような音。


湿った吐息。


低く喉を震わせる唸り声。


音が近づくたび息を止め、遠ざかるたび、ようやく肺の奥から細く息を吐き出す。


その繰り返しだった。


心臓の音がやけに大きく聞こえた。


まるで、この音が外へ漏れてしまうんじゃないかと思うほどだった。




どれだけ時間が経ったのだろう。


膝を抱えたまま俯いていると、不意に外から声が聞こえた。




「……おーイ」




びくり、と肩が跳ねる。


聞いたことのない男の人の声だった。


低く、少しかすれたその声は、重苦しい静寂を切り裂くようにガレージの前へ響く。




「……お-い」




もう一度。


今度は少し近い。


胸の奥で、小さな灯火が揺らめいた。


人だ。


生きている人がいる。


助けが来たのかもしれない。


気づけば身体は立ち上がっていた。


一歩。


また一歩。


冷たいコンクリートを踏みしめながら、ゆっくりとシャッターへ近づいていく。


重たい鉄の扉まで、あと一歩。


手を伸ばせば届く距離だった。


その瞬間。




『誰が呼んでも開けるな。』




父さんの声が、胸の奥ではっきりと蘇る。


思わず伸ばしかけた手が止まる。


指先だけが、小さく震えていた。


唇を強く噛む。


鉄の味が、かすかに口の中へ広がった。


開けたい。


でも。


約束した。


僕は一歩、また一歩と静かに後ろへ下がる。


やがて外の足音は遠ざかり、辺りは再び静寂に包まれた。




何も聞こえない。


何もいない。


耳が痛くなるほどの静けさだけが、ガレージの中を満たしていく。


膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。


返事をした方がよかったのだろうか。


あの人は、本当に助けに来てくれた人だったのかもしれない。


そんな考えが胸をよぎるたび、父さんとの約束が、その迷いを押し返す。


答えは分からない。


ただ。


胸の奥へ落ちた小さな迷いだけが、静かに沈んでいった。




◆ ◆ ◆




また、どれほど時間が流れたのだろう。


外を徘徊していた何かの気配が、不意に止まる。


ずるり、と何かを引きずる音も。


湿った吐息も。


すべてが、ぴたりと消えた。


その静寂を裂くように。




「……フ夕バ。」




心臓が止まりそうになった。


母さんだった。


聞き間違えるはずがない。


毎晩「おやすみ」と笑ってくれた声。


熱を出した夜、何度も名前を呼んでくれた声。


泣き止まない僕を抱き締めながら、「大丈夫」と囁いてくれた、あの優しい声。


身体が勝手に動く。


考えるより先に、シャッターへ駆け寄っていた。




帰ってきたんだ。


助かったんだ。


そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。




一歩。


また一歩。


冷え切ったコンクリートを蹴り、重たい鉄の扉へ手を伸ばす。


指先へ触れた鉄は、氷みたいに冷たかった。


持ち上げようとして。


止まる。




『父さんか母さんが、お前の名前を呼ぶまで絶対だ。』




父さんの声が、耳元で囁かれたように蘇る。


呼んでる。


ちゃんと。


母さんは名前を呼んでいる。


良いよね?


じゃあ。


どうして。


僕は開けられない。


喉が乾く。


息を潜めたまま、耳だけを澄ませる。




「フ夕…バ…」




少しだけ。


何かが引っ掛かった。


言葉では説明できない。


けれど、毎日聞いていた母さんの声と、ほんの少しだけ違う。


違うのは声じゃない。


間だった。


息遣いだった。


温度だった。




母さんなら。


怖がる僕を見つけたら、最初に言う。


『大丈夫。』


その一言を。


母さんは、口にしなかった。


胸の奥が、すうっと冷えていく。


恐る恐る、シャッターの隙間へ目を近づける。


暗い。


何も見えない。


それなのに。


隙間から、生ぬるい空気だけがゆっくり流れ込んできた。


鼻を突く。


腐った肉のような臭い。


湿った土と血が混ざったような、生暖かい臭気。


思わず息を止める。




「……夕バ…?」




ぐちゃり。


なにか柔らかいものを踏み潰す音。




「…フ夕バ。」




ごり。


なにか硬いものを噛み砕く音。




「フ夕バァ…」




声は母さんだった。


けれど。


その声の奥で。


喉の奥を震わせる低い唸り声が、ゆっくりと混じり始める。


震える手で口を押さえる。


歯が小さく鳴る。


涙が止まらない。


声を漏らしたら。


きっと。


見つかる。


必死に息を殺す。




すると。


シャッターのすぐ向こうで。


何かが、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


鉄板一枚。


その向こう側に。


いる。


近い。


近すぎる。


鉄越しに、生き物の気配だけがじわりと染み込んでくる。




「…………」




静かだった。


静かすぎた。


だからこそ聞こえた。




くちゃり。


くちゃり。




何かを咀嚼する、湿った音。


肉を裂くような音。


骨を砕くような音。


吐き気が込み上げる。


耳を塞ぎたかった。


目を閉じたかった。


それでも。


耳を塞いでしまえば、本当に父さんや母さんが帰ってきた時、その声まで聞こえなくなってしまう。


だから、できなかった。




どれほどそうしていただろう。


やがて。


爪が地面を擦る音が遠ざかっていく。


湿った吐息も。


引きずる音も。


少しずつ小さくなり、やがて完全に消えた。




それでも僕は動けなかった。


もし。


本当に母さんだったら。


もし。


助けを求めていたのだとしたら。


そんな考えが、何度も胸を締め付ける。




けれど。


父さんとの約束だけは破れなかった。


僕はまた膝を抱え、冷たいコンクリートへ背中を預ける。


暗闇の中で。


父さんと母さんが、本当の声で僕の名前を呼んでくれる、その時だけを信じながら。

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