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星詠みのコーデックス  作者: ねねねる
星のない空

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第1話 「灰色の誕生日」

七月の初めだった。


その日が何日だったのかは思い出せない。


忘れてしまったのか。


それとも、最初から知らなかったのか。


今となっては、もう確かめようもない。


けれど、一つだけ。


その日が母さんの誕生日だったことだけは、今でも間違えずに思い出せる。




朝から空は低かった。


雨を抱えた灰色の雲が幾重にも重なり、町を覆っている。


夏のはずなのに陽射しはなく、湿った風だけが肌をゆっくりと撫でていった。


土の匂いが濃い。


雨はまだ降っていない。


それなのに、世界はもう濡れているような気がした。




少しだけ頭が重かった。


熱があるわけじゃない。


でも、身体の奥に薄い鉛が沈んでいるような、そんな気怠さがあった。


理由なんて考えもしなかった。


子どもの僕には、それが何かの前触れだなんて分かるはずもない。




ただ。


今日は母さんを笑顔にしたかった。




誕生日だから。


何かを贈りたかった。


八歳の僕に準備できるものなんて、たかが知れている。


それでも花なら。


きっと優しい母さんなら笑ってくれる。


そんな気がしていた。




前に遊びに来た原っぱには、小さな花がたくさん咲いていた。


白い花。


黄色い花。


名前も知らない花たち。


その中から一番きれいな花を選んで帰ろう。


そう決めて家を出た。




原っぱは静かだった。


あまりにも静かだった。




虫の声がしない。


鳥も鳴いていない。


風だけが背丈ほどの草をゆっくり揺らしている。




そして。


花はみんな、うつむいていた。




「……あれ?」




しゃがみ込む。


指先で花びらに触れる。


乾いていた。


つい数日前まで鮮やかだった色は褪せ、細い茎は力なく折れ曲がっている。


まるで何日も前から命を失っていたみたいだった。




それでも。


どこかには咲いているはずだ。


母さんに渡せる花が。




そう信じて歩き回った。


草をかき分け。


何度も辺りを見渡した。




どれくらい歩いただろう。




ふと。


違和感が胸を掠めた。




暗い。




空を見上げる。


昼だった。


家を出た時は、確かに。


なのに。


夕暮れを飛び越えて、夜が降りてきたみたいに世界が暗い。




「え……?」




胸の奥で鼓動がひとつ大きく跳ねた。


首筋を、冷たいものが伝った。


風ではない。


汗でもない。




誰かに見られている。


そんな気がした。




ゆっくりと振り返る。




フェンスの向こう。


遥か遠く。


丘の稜線を黒いものが埋め尽くしていた。




最初は影だと思った。


雲だと思った。




違う。




動いている。


無数だった。




地面が震える。


小石が跳ねる。


足裏から伝わる鈍い振動が、骨の奥まで響いてくる。




耳を裂くような咆哮。


獣とも違う。


鳥とも違う。


聞いたことのない、生き物の声。


世界そのものが軋んでいるようだった。




遠くで誰かが叫ぶ。




「アウトブレイクだ!」




別の声が重なる。




「包囲された! 西も東も駄目だ!」


「防衛班、急げ! 住民を避難させろ!」


「避難ってどこにだよ!」




人が走る。


車が急停止する。


魔法陣の光が町のあちこちで瞬く。




何が起きているのか分からない。


でも。


帰らなきゃ。


父さんと母さんのところへ。


それだけを考えて走った。




息が苦しい。


肺が焼ける。


草に足を取られ、何度も転びそうになる。


それでも立ち止まれなかった。




家が見えた。


その瞬間だった。




「フタバ!!」




父さんの声だった。


振り向く。




父さんが走ってくる。


今まで一度も見たことのない顔をしていた。


血の気が引き、それでも必死に僕だけを探していた顔。




「無事か!」




肩を掴まれる。


痛いくらい強く。


でも。


その手は震えていた。




「……よかった。」




吐き出した息が震えている。


その後ろから母さんも駆け寄ってきた。




「フタバ……!」




抱き締められる。


母さんの身体は少し冷たかった。


震えていたのは腕だけじゃない。


胸に当たる鼓動まで速かった。




「本当に……よかった。」




「母さん……何があったの?」




答える前に。


町の向こうで爆炎が立ち上る。


遅れて轟音が届く。


窓ガラスが震えた。




父さんは爆発の方を一瞬だけ見た。


そして僕を見る。




「いいか、フタバ。」




短く息を吸う。




「今からガレージへ隠れるんだ。」




「父さんたちが迎えに来るまで出るな。」




「誰が呼んでも開けるな。」




「父さんか母さんが、お前の名前を呼ぶまで絶対だ。」




言葉は落ち着いていた。


でも。


目だけが笑っていなかった。




母さんがしゃがみ込む。


そっと僕の前髪を撫でた。




「大丈夫。」




いつもの笑顔だった。




「すぐ戻るから。」




「今日は私の誕生日でしょう?」




「ケーキ、まだ食べてないものね。」




そう言って笑う。


その笑顔があまりにもいつも通りだったから。


僕は信じてしまった。




「うん。」




それしか言えなかった。




ガレージの中は暗い。


油の匂い。


鉄の匂い。


少し湿ったコンクリートの冷気。




「いい子だ。」




父さんが頭を撫でる。


その温もりだけが、不思議なくらい鮮明だった。




重たいシャッターがゆっくり閉まる。


光が細くなる。


細く。


もっと細く。


そして。


世界が閉じた。




直後だった。


轟音。


家全体が浮き上がるほどの衝撃。


壁が震える。


天井から砂埃が降る。


何かが壊れる音。


誰かの悲鳴。




魔法が炸裂する閃光だけが、シャッターの隙間から白く差し込む。


耳を塞ぐ。


それでも音は身体の中まで入り込んできた。




時間の感覚がなくなる。


お腹が空いていた。


朝から歩き回っていたから。


でも。


父さんも母さんも待っていてと言った。




だから待った。


膝を抱えて。


暗闇の中で。




やがて。


爆発は止んだ。


静かになる。




……違う。


静かじゃない。


何かがいる。




低く濁った唸り声。


湿った呼吸。


硬い何かを引きずる音。


 


それが一つ。


二つ。




家の外を、ゆっくりと歩いていく。


僕は息を殺した。


唾を飲み込む音さえ、大きく聞こえた。




父さん。


母さん。


まだかな。




暗闇の中で、二人を待ち続けた。




――その日。


父さんと母さんは、最後まで僕の名前を呼ばなかった。

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