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星詠みのコーデックス  作者: ねねねる
星のない空

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10/10

第10話 「天神」

前に滑らせた右足に体重を乗せると、すねの外側がひりつくように痛んだ。僕は前腕を壁に押し当て震える左足を少しずつ引き寄せる。両足が揃っても次の一歩はどうしても出なかった。


ユイナが数歩先から戻ってきた。僕は肩を壁へ預け、右脚を前に残したまま左の膝を曲げる。空いた右手を路面につき、背中で壁を擦りながら腰を落とした。地面に座り込んでからもしばらくは腕で身体を支えていなければ倒れてしまいそうだった。


ユイナは僕の前で立ち止まり片膝を少し曲げて、ボトルを両手で大事そうに抱えている。僕は自分の足を少し脇へ引いた。




「ユイナも」




声をかけるとユイナは足元にボトルを置き、壁に手を添えて隣に腰を下ろした。痛む方の脚を前に伸ばしてから、もう一度ボトルを引き寄せて蓋を開ける。少し口に含んでは離し、外した蓋を握ったまま残りを僕の膝のそばに置いてくれた。


僕もそれを手に取った。飲み口を唇に当てて傾け、喉を通る冷たい水をゆっくりと飲み込む。ボトルを返すとユイナは静かに蓋を閉め、まだわずかに水が残るそれを二人の足元へ置いた。


腕を膝の上に戻すだけでも肘が鉛のように重い。空っぽの胃の奥で続く吐き気に耐えかねて伸ばしかけた背筋をまた丸めた。壁の切れ間に細く切り取られた空はまだ灰色で、顔を伏せてもこめかみの鈍い痛みは引いてくれない。


ユイナが伸ばした脚をそっと組み替える衣擦れの音を聞きながら、じっとうずくまっていた。再び壁に腕をかけて立ち上がるまでに、ずいぶん長い時間がかかった。左足を身体の下へ引き込み、どうにか腰を押し上げる。ユイナも壁にすがりながら立ち上がり小さなボトルを拾った。今度は先へ進まず、僕のすぐ隣で待っていてくれた。


一つの壁を離れるだけでも何度も足が止まった。前腕を次の位置へずらそうとする一瞬さえ、左脚だけでは体重を支えきれない。先に肩を壁へ預け、腕を少しずつ滑らせてから右足を引き寄せる。


建物の切れ目では手前の壁に指先を残したまま、次の戸口へ必死に腕を伸ばした。すぐ届く場所に枠があっても、そこへ身体を寄せるまでに何度も立ち止まる。腰を下ろして腕を休め、気力を振り絞って立っては数歩だけ進む。休んでいる時間ばかりが長くなり、そのたびにユイナも僕のそばで足を休めた。


建物の列が途切れたところで川の流れる音が大きくなった。行く手には短い橋がかかり、対岸まで手すりが続いている。僕はそこへ身体を預け、数歩進んでは息を整えた。ユイナも少し前で手すりに触れ、僕が追いつくのを待ってくれている。向こう岸へ渡り終えたときには近くの壁の根元へ崩れ落ちるのが精一杯だった。


座り込んだばかりの頃は、靴の先にまだ薄い光が届いていた。ユイナが膝に触れそうなスカートの裾を整え、僕が荒い息を鎮めているうちに、その光も足元から引いていく。壁の高いところだけが鈍く茜色に染まり、足元には建物の濃い影が広がっていった。


顔を上げると屋根の上の灰色が薄れ、その向こうにくすんだ橙色の帯が滲んでいた。少し前まで灰に紛れて曖昧だった屋根の輪郭が、その色の中でくっきりと浮かび上がる。遠くに見えていた黄昏の薄明かりが、すぐ近くの屋根まで降りてきたように見えた。立ち上がろうと壁を押したが腰が浮いたところで力尽き、もう一度足の位置を直さなければならなかった。


そこを離れてからも壁の継ぎ目を越え、建物の入口に座り込み、また次の壁へとすがりついた。角を一つ曲がるまでの間に何度も地面へ腰を下ろす。ユイナが先を見つめて立ち上がりかけても僕の腕は膝に載ったまま動かず、彼女もまた静かに足を伸ばし直した。上の階の窓に残っていた夕暮れの色が薄れ、道の先では、灰をかぶった小石と路面の境界が溶け合っていく。


少し前へ出たユイナが足元と見上げる空を見比べて立ち止まった。




「暗くなるね」




僕は壁にすがりついたまま顔を向けた。薄闇の中、黒い髪の下にある横顔がかすかに見える。




「見えるところにいてね」




「うん」




ユイナは僕の横まで戻り、空いた方の掌を同じ壁に添えた。痛む膝をかばいながら足を踏み出し直すのを待って、僕も靴を前へと滑らせる。


次の壁でも、その先でも、立ち止まるたびにユイナの顔を確かめた。屋根の隙間に残っていた夕方の色は、休んでいるうちに少しずつ夜へと飲み込まれていく。やがて顔を上げたとき建物の切れ目の奥に、いくつかの灯りが見えた。


光は規則正しく同じ高さに並んでいた。壁に身体を預けてじっと見つめている間も、その場所から揺らぐことなく灯り続けている。ユイナも顔を上げたが、息を呑んだまま何も言わなかった。灯りの上に見える空は、残された灰色を押し流すように深い紫の夜気へと染まっていた。


灯りのある方へ身体を向けようとしても、腕を壁から離すことができない。右足を出し、左足を引き寄せる。前腕を持ち上げようとした瞬間、左の膝ががくりと沈み、僕は慌てて肩を壁へ押し当て直した。ユイナもすぐ横で足を止める。


建物に遮られて光が見えなくなると、壁の端で息を整え、先の路面を確かめてから進んだ。次の切れ間からも、やはり同じ灯りの列が見える。腰を下ろすたびに手首を休ませたが、いざ立ち上がろうとすると指先で壁の縁をつかむことすら難しくなっていた。


ようやく光が間近に見えるようになった頃、その下にそびえる高い壁の存在に気づいた。壁の縁は道を塞ぐように横へ伸び、両脇の建物へと繋がっている。灯りはその壁に取り付けられ、真下の地面を白く照らし出していた。


もう少し進むと壁の真ん中に大きな門が見えた。分厚い扉の間には人が通れるほどの開きがあり、そこへ続く道だけは大きな瓦礫が綺麗に脇へ片付けられている。門柱の角には何かを擦った跡が幾重にも残り、頭上の明かりがその無骨な凹凸を照らしていた。


道の脇へ、また座り込んだ。立ち上がろうと足を引き寄せても腕に力が入らず、一度下ろした腰を浮かせるまでに何度も息を吐き出す。灯りは目の前にある。顔を上げるたび同じ場所で輝いているのに、その下へ辿り着くための一歩がどうしても出ない。


ユイナがボトルを片手に抱え、もう片方の手で壁を伝いながら歩く。僕も腕をずらし、止まり、足を寄せる。路面の灰が門の明かりを浴びて白く浮かび上がったところで、頼りにしていた壁が途切れた。


門までは開けた平らな路面が続いている。行く手を阻むような瓦礫も越えられない段差もない。向こうの門柱まで行けば再び身体を支えられるはずだった。


僕は左の前腕を壁の端へ押し当て、右足を少しだけ外へ踏み出す。だが左の膝が小刻みに震え、胸まで壁に擦りつけるようにして立ち止まってしまった。向こうへ行きたいのに、指先が壁からどうしても離れない。踏み出した足を戻すとユイナも隣で足を止めた。


すがりついている壁の端に、古びた表札のような板が留められているのが見えた。顔を上げると白く照らされた二文字が目に飛び込んでくる。『天神』。その下には、小さく『てんじん』と仮名が振られていた。


板から視線を戻すと門の明るいところで人影が動いた。


門の脇で誰かが別の人間の背中と腕を抱えるようにして支えている。低い腰掛けの前へ足を運ばせ、相手が膝を折るのに合わせて、自分もゆっくりと腰を落としていく。


その横に立っていたもう一人が、ふいにこちらへ顔を向けて腕を上げた。




「子どもが二人いるぞ!!」




僕は息を呑んだ。吸い込みかけた空気が喉に引っかかり、壁に触れていた指が硬直する。


こちらを指差した人は、すでに足早に歩き出していた。門の脇では腰掛けに座りかけた身体が傾きそうになり、支えていた腕が背中へ慌てて回り直す。相手を完全に座らせてから、支えていたもう一人もこちらへ視線を向けた。




「見えた!」




返事とともに、その人も勢いよく立ち上がる。先に歩き出した人に続いて、二人がこちらへ駆け寄ってくる。一人はユイナへ、もう一人は壁にへばりつく僕の方へと真っ直ぐに向かってきた。


路面を踏みしめる靴音が乾いた響きとなって近づいてくる。逆光を背負った大人の身体は驚くほど大きく見え、捲くられた袖からのぞく逞しい腕が見分けられるほどになった。僕が一歩も動けずにいる間にも、向こうから距離がみるみる縮まっていく。僕の前にたどり着いた人は壁から離れない僕の腕と足元を一瞥すると、ふっと歩幅を緩めた。


僕はその顔を見上げた。何か言おうとして唇を開いたが、掠れた呼気が漏れるばかりだった。それでも、喉の奥から絞り出すように口を動かす。




「……助けて」




その人はすぐに僕の右側へ屈み込んだ。無理に引き剥がすことはせず、僕の肘の下と背中へ、いつでも支えられるようそっと手を添えてくれる。門のところで人を支えていたもう一人もユイナの前にしゃがみ、優しく手を差し伸べていた。


僕は左腕を壁に押し当てたまま、ユイナへ顔を向けた。すぐ隣にいるはずなのに、呼びかけるための息を整えるだけでも時間がかかった。




「ユイナ、先に」




ユイナは僕を見た。それから僕の脇にいる大人へ視線を移し、差し出された大きな手を見つめ直す。ボトルを左手へ持ち替えると、自分から小さな右手を伸ばした。


大人の指をしっかりと握り、ユイナは片足を前に踏み出す。痛む膝をかばって身体がぐらりと傾いたが、その背中をもう片方の広い掌が柔らかく受け止めた。大人の歩幅もユイナのたどたどしい足取りに合わせてぴたりと止まる。


ユイナは残った足を揃えて顔を上げた。壁につかまっていなくても大人の腕にしっかりと支えられて立っている。左手には、あの小さなボトルを握りしめたままだ。


その足元から視線を戻そうとした瞬間、僕の左膝が激しく震えた。力を込め直そうとしても言うことを聞かず、壁に押し当てていた前腕がずるずると滑り落ちる。指先を引っ掛けようと藻掻いたが、ざらついた壁の感触を虚しく擦るだけだった。


右足を咄嗟に引き寄せると、すねの外側に鋭い激痛が走った。それでも踏ん張ろうとしたが、崩れ落ちる身体を支えきれない。左脚の力が完全に抜け、目の前の冷たい路面が一気に迫ってくる。


その瞬間、横から差し入れられた逞しい腕が脇の下へ深く入り込み、僕の胸をしっかりと受け止めた。背中にも温かい掌が当てられ、腰が地面に激突する寸前で身体が止まる。僕はまだ無意識に壁へ手を伸ばそうとしていた。けれど肘を持ち上げる力すら残っておらず、指が完全に壁を離れても、僕の身体がそれ以上沈むことはなかった。


小さく息を吸い込むと、胸がかすかに上下した。だが吐き出す息はうまく続かず、小刻みに震えながら唇から漏れ出る。こめかみの奥で脈打つ痛みに耐えかねて、僕は支えてくれている人の袖へ、脱力した頬をそっと預けた。


背中を支えていた腕が深く差し入れ直され、膝の裏にもう片方の腕が回る。靴底がふわりと路面から離れた。横抱きに抱え上げられると、下を向いていた視界が自然と上を向く。


ユイナもすぐそばで大人に寄り添われながらゆっくりと歩いていた。その小さな背中が視野の隅へと遠ざかり、代わりに門の高い柱が視界の端をゆっくりと流れていく。門の内側へと運び込まれると、建物の切れ目の向こうに夜の空が大きく広がった。




見上げる夜空は、もう灰色ではなかった。


僕はその暗がりの中に星を探した。屋根のすぐ上から、もっと高いところへと視線を彷徨わせる。どこまでも続く暗い広がりを見つめても、瞬く光はどこにも見当たらなかった。


身体の底に、背中をしっかりと受け止めてくれている大人の腕の温もりを感じる。重たく垂れ下がってくるまぶたに抗い、僕はもう一度だけ、薄く目を開いた。




目を閉じるまで、星は一つも見つからなかった。

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