標本と打ち明け話
次の日も、莉子は来た。
約束したわけではなかった。前の日、帰りぎわに先生が「明日も頼む」と言っただけだ。それでも佐田悠介は、開室と同時に作業台の前に座り、莉子が来るかどうかを、本を読むふりをしながら待っていた。扉が開いて彼女が現れたとき、彼は何でもないふうにページから目を上げた。胸の奥で、小さく何かがほどけた。
二人は向かい合って座る。あいだに台紙の束。糊の小皿。水の入ったコップ。そしてピンセットが二本。作業のあいだ、ほとんど口をきかない。葉を一枚つまんで、裏に薄く糊をのせて、台紙のもとの場所に戻す。乾くまで、ガラスの文鎮でそっと押さえる。ちん、とピンセットを皿の縁に置く音だけが、規則正しく続いた。
その音が、不思議と心地よかった。蝉の声は窓の外で煮え立っているのに、室内のこの金属の音だけは、二人のあいだのちょうどいい大きさで響いていた。
「佐田くんって」三日目に、莉子がふいに言った。「家、近いの」
名前を呼ばれて、悠介は手を止めた。覚えられていたのか、と思った。
「駅の、向こう側」
「ふうん」莉子はピンセットの先を見つめたまま続けた。「あたし、夏休み、なるべく家にいたくなくてさ」
葉を一枚、台紙に戻す。指先は止まらない。
「お母さんと、お父さんが」少し間があった。「別々の部屋で、別々のごはん食べてるの。あたしが帰ると、二人とも、すごくいい人になる。あたしのために頑張ってる感じが、こう、息できなくて」
悠介は何も言わなかった。何か言えば、莉子が口を閉じてしまう気がした。
「教室だと、笑ってるほうが楽なんだ」莉子は薄く笑った。「みんな、藤川は明るいねって言う。明るくしてると、自分の中の暗いとこ、見なくて済むから」
飴色の葉が、台紙の上で静かに乾いていく。糊の匂いがかすかに立った。学校糊の、子どものころに嗅いだようなあの匂い。それが古い紙の匂いと混ざって、悠介はふと、ずっと昔の、家族がまだ普通だったころの夕方を思い出した。けれどそれは、もう標本のように乾いて、戻らないものだった。
「うちも」気づくと、悠介は言っていた。声が掠れた。「似てる、かもしれない。父さんと母さん、何年も口きいてない。同じ家で、別々に暮らしてるみたいな感じ」
言ってしまってから、心臓が鳴った。誰にも話したことのないことだった。
「だから、本ばっかり読んでた。本の中なら、誰も黙ってないから」
莉子が顔を上げた。そして、ゆっくりとうなずいた。哀れむでもなく、慰めるでもない、ただ「知った」というだけのうなずき方だった。
そのうなずきが、悠介には何よりありがたかった。
作業は進んだ。割れてしまった葉も、欠けたところを内側に隠せば、もとどおりに見えた。莉子はだいぶ上手になっていた。ピンセットの先が、枯れた葉脈の一本一本をなぞるように、丁寧に動く。教室で彼女が手にしているスマホよりも、ずっと真剣な手つきだった。
「これ、生きてたんだよね」莉子がつぶやいた。一輪の押し花を見ながら。「三十年前に、どこかで咲いてて。誰かが摘んで、ここに挟んだ」
「うん」
「名前、わかんないね。ラベルの字、消えちゃってる」
二人で薄れたラベルを覗き込んだ。インクは茶色く滲んで、もう何も読めなかった。それでも標本は、たしかにここにあった。名前を失っても、かつて生きていたかたちだけは、律儀に残していた。
莉子はその草を、そっと台紙に戻した。ガラスの文鎮を置く。蝉が鳴いている。紙とインクの匂いが、二人のまわりに濃く立ちこめていた。
帰りぎわ、莉子は「また明日」と言った。約束みたいに聞こえないように、わざと軽く。悠介は「うん」とだけ返した。それで十分だった。




