出会い
夏休みの図書室は、ひとつの大きな水槽みたいだった。
窓の外で蝉が鳴いている。鳴いているというより、空気そのものが油でも煮立てているように、じいじいと震えていた。その音は分厚いガラスの向こうにあって、室内には届かない。届かないのに、いつまでも耳の奥に残っている。佐田悠介は閲覧机の端に座って、文庫本のページをめくっていた。冷房は古く、首を振るたびに乾いた風がページの角を持ち上げる。本の紙は黄ばんで、めくるたびに、かすかに甘い、埃のような匂いがした。
夏休みに図書室が開いているのを知っている生徒は少ない。司書室の奥で橋本先生が標本を整理しているから、ついでに開けているだけだ。だから悠介はここにいた。家にいるより、ここにいるほうがずっと息がしやすかった。教室の隅と同じで、ここでも彼は誰の目にも入らない。それでよかった。
扉が開いたとき、彼はとっさに本で顔を隠した。
「あれ、誰かいる」
声に振り向いて、佐田は息を止めた。藤川莉子だった。クラスの中心にいる、いつも誰かに囲まれている女子。教室では一度も口をきいたことがない。むこうは佐田の名前さえ知らないだろう。莉子は手に折りたたんだプリントを持っていて、それを橋本先生に渡しに来たらしかった。
「補習のやつ、ここでいいんですか」莉子は司書室のほうへ声を投げる。
橋本先生が出てきた。白衣の袖をまくり、指先にピンセットを持ったままだ。
「ああ、藤川。ちょうどよかった」先生はプリントを受け取って、それからふと、奥の作業台を顎で示した。「悪いんだけど、二人とも、ちょっと手を貸してくれないか」
悠介と莉子は同時に「え」と言った。互いの声が重なったことに、二人ともわずかに身を引いた。
作業台の上には、古い台紙の束が積まれていた。茶色く変色した厚紙に、枯れた植物が貼りつけてある。ところどころ葉が剥がれ、ラベルの字は薄れていた。
「植物標本だ。三十年前のな。剥がれかけてるのを貼り直してほしい」先生はピンセットを台の上に置いた。金属が木に触れて、ちん、と細い音を立てた。「夏のあいだに片づけたいんだが、私一人じゃ手が足りない。なに、難しいことはない。糊を薄く塗って、台紙に戻すだけだ」
「あたし、こういうの全然」莉子が言いかけたのを、先生は軽く手で制した。
「うまくやろうとしなくていい。ただ、壊さないように。これは、もう二度と作れないものだから」
そう言って先生は司書室へ戻っていった。残された二人のあいだに、蝉の音とも違う、もっと静かな沈黙が落ちた。
悠介はおそるおそる作業台に近づいた。莉子はその反対側に立っている。台紙のいちばん上には、押し花になった一輪の名も知らぬ草が貼りついていた。色を失って、薄い飴色になっている。葉脈だけが、生きていたころのかたちを律儀に残していた。
「これ、触っていいの」莉子の声は、教室で聞くそれより一段低かった。
「たぶん」悠介は答えた。自分の声が、ひどく久しぶりに出したもののように、喉につかえた。
莉子がピンセットを取った。剥がれかけた葉の端を、慎重につまもうとする。手が止まる。つまむ寸前で、葉がぱり、と乾いた音を立てて割れた。
「あ」
小さな破片が台紙の上に落ちた。莉子が泣きそうな顔をした。教室では絶対に見せない、子どもみたいな顔だった。
「だいじょうぶ」悠介は思わず言っていた。「割れたところ、こっち向きにすれば、見えないから」
莉子が彼を見た。少しのあいだ、何も言わずに。
それから、ほんの少しだけ、笑った。窓の外で蝉が鳴いていた。室内には、相変わらず届かなかった。




